第4話 凪ぐ龍神の池①

 田舎の朝は早くて、静かだ。この村に来てから夜型だった天音の生活も改善され、朝はおじいちゃんと同じ時間に起きて夜は早く寝る生活が続いている。

「……………」

 そしてそんな静かな朝に、天音は家の裏にある剣道の道場で、一人正座していた。目の前には、道場の片隅に立てかけられていた竹刀。息を深く吸って、目を閉じて、瞑想する。頭の中に竹刀を振る自分の姿を思い描く。

(じいちゃん、私も剣道、がんばろうかな?)

(そうか、天音はきっと誰にも負けないぞ)

(本当に?)

(もちろん、天音は高名な武士の家系だし、何よりも————)

 無邪気に問うた幼い自分の声と、笑みを浮かべたおじいちゃんの顔は思い出せる。だけれどかつて自分を励ますために述べられた言葉を、思い出したくないと思ってしまった。

「————有効っ!」

 主審の掲げた旗と、遠くで聞こえる歓声が頭をよぎる。高名な武士の家系で、祖父は剣道の師範で、環境には恵まれていたはずなのだ。それなのに天音は、天音ときたら。

 いつからか、どのタイミングからか、夢中になっていたはずの剣道を、勝つためにかける努力を馬鹿らしいと感じるようになったのだろうか。

 長く息を吐いて、目を開けて、竹刀を手にとった。一瞬だけ短く息を止めてから、竹刀をかまえる。 目に見えない対戦相手を想定して、竹刀を振るった。

 竹刀が風を切る音が耳に響く。強く地面を踏みつけて、一歩前に出る。呼吸をせずに動き続ける。頭の中をよぎる余計な考えを振り切るように動く。動き続ける。

 そして。

    ダン!!

 大きく踏み込んだ足を鳴らす音を最後に、大きく振り上げた竹刀を空中で止めて、天音は動きを止めた。ずっと止めていた息を静かに吐く。

 激しく動いたのに頭は冷え切っていて、妙に心がざわついて。

「なんだ、こんな所にいたの」

 その時、道場の入り口から小さな拍手の音が聞こえた。慌てて振り返れば、入口にもたれかかる風月がいた。

「お見事。さすが剣の名家だね」

「………褒めすぎだよ。もう何年も、剣道なんてやってないんだから」

 相変わらずフードを目深にかぶった風月が、「またまたご謙遜を」とからかうような口調で続けるから、天音は苦笑いを浮かべるしかない。とはいえ、少しは風月の考えていることが分かるようになってきた。今はきっと、嫌みでもなんでもなく天音の動き回る姿に感動したから拍手してくれたのだろう。

 相変わらず表情は読めないけれど、声のトーンや仕草からそれくらいのことは分かる。

「それもまたすごいよ。何年も触ってなくて、あんなに早く動けるなんて、さ」

「………これくらいのこと、誰でもちょっと練習すればできるようになるし、すごいことなんて何もないよ」

 風月が嫌みで言っているわけではないのは分かっている。だからこそいたたまれない。自分が今どんなみっともない表情をしているか分からなくて、天音は顔を隠すようにうつむく。今の自分の表情に、自分の一番脆い部分に、触れてほしくない。

「………というか、天音のおじいちゃんは、今いないの?」

 幸いにも、風月はこの話題を切り上げてくれた。たぶん天音に気を使ってくれたのだと思うけれど、今はその優しさに甘えさせてもらおうと天音も話をそらす。

「じいちゃんは町のほうまで買い物に行ってるよ」

「………この村、ほんと不便だもんね」

「ほんとにね。風月も大変じゃない、ここで暮らすの」

「まあ………私はたぶん町で暮らせないしね」

「それって、」

 どういうこと、と天音が問いかける前に、風月はくるりと天音に背を向けて、わざとらしいくらい明るい声を出して見せた。

「さ、天音のおじいちゃんがいないうちに行っちゃお!」

「………そうだね!」

 この前、風月と約束した。山の頂上にある池を見に行こう、と。

「さすがに一人じゃあの山は怖くて登れないしね。ここに住んでる私でも怖い」

「遭難しても文句言えないよね………待って、竹刀だけ片付ける」

 天音と風月が二人で動いても、子供だけであることに変わりはないし、具体的に山を登りきる手段が整ったわけでも、安全に登れる保証があるわけでもない。それでも一人では怖くていけなかった場所に行こうと思える。ただの勘違いかもしれないけれど、二人になれば怖いものはなくなったのだ。

「ではでは………!」

 天音は道場の壁に元通り竹刀を立てかける。風月の口元もにやりと弧を描いた。どちらともなくゆるりと持ち上げた手を、最初から決まっていたようにぱちんと二人で鳴らしてから。

「龍神池に、行きますか!」

 二人の声が重なって、夏の空に吸い込まれた。




 むかし、むかしのことでした。

 この村は、それほど豊かではないが、村人はみな平和に暮らしていました。

 村の周りで戦が起きても、村人たちは日々をつつましく生き、豊かではないが穏やかな生活を送っていました。村人たちは今のままの暮らしが続けば、それでいいと思っていたのです。

 しかし。

「この村の土地を、我に与えよ」

 とても大きな龍が、突然村に現れました。龍は大きな口を開けて、大きな声で言いました。 けれど土地を取られてしまえば、村人たちは自分たちが生きるために必要な作物を耕作することができません。

「それはできません」

 村人は涙ながらに訴えました。すると大きな龍は少しだけ考えて、もう一度大きな口を開きました。

「それならば、我に人柱を捧げればよい」

 そのような惨いことはできないと、やはり村人は訴えました。しかし龍は、今度はその訴えに耳を貸そうとはしませんでした。

「嫌だと言うのであれば、この村を焼き払ってしまうぞ」

「なに、一年に一人だけでいい」

「そう難しいことではないだろう」

「断ればこの村を滅ぼすだけのことよ」

 村人たちはその要求を呑むしかありませんでした。年に一人、それでも少しずつ、人柱は差し出され、尊い命が失われていきました。人柱は平等に決められました。誰もが胸が張り裂けるような悲しみを抱えながら、龍に逆らうことはできずに人柱を差し出し続けました。

 もう誰もが以前の穏やかな暮らしを忘れかけていました。平穏な生活を夢見ることさえしなくなりました。いつ自分が、自分の大切な人が人柱に選ばれてしまうのか、恐れながら日々を過ごしました。

 そんなある日。

「私がこの村を守りましょう」

 村に小さな竜が現れました。悪逆の限りを尽くす大きな龍を、自分がなんとかしてみせましょうと、落ち着いた声で村人に告げました。

 けれどその龍はとても小さな龍でした。村人たちはきっと戦えば死んでしまうと、小さな龍に言いました。それでも龍は、大きな龍に立ち向かいました。小さな龍は、穏やかな生活を愛した村と人を、命をかけて守ろうとしたのです。

 大きな龍と小さな龍は、三日三晩戦い続けました。そして傷をおった大きな龍は、たまりかねて村から出て行きました。

「ありがとうございます。このご恩は、一生忘れません」

 涙を流して喜ぶ村人たちに、小さな龍は言いました。

「私ははこの村を、未来永劫守り続けましょう。あなたたちの平穏な生活のために」

 自分自身も大怪我をした龍は、それだけ伝えて山に向かいました。そして山頂で己の姿を池に変え、この地を見守ることにしたのです。

 この池はやがて、『龍神池』と呼ばれるようになりました。今でもその龍は、池となって村を守り続けているのです。


「っていう話。なんだっけ、地域の伝説みたいな授業で習ったよ」

「へぇ~………そんな伝説があるんだ………」

 険しい山道を登りながら、天音は風月の語る話に目を丸くした。

「意外とえぐいよね、昔話って」

「ああ、人柱の下り?そうだよね、そういうの多いかも」

「本当に人柱になった人がいっぱいいたなら怖いよねえ」

 ぽつりと浮かんだ天音の独り言に、風月はかすかに笑い声をもらす。

「さぁ、どうだろうね?言い伝えの真相なんて、誰にもわからないよ」

「そうだよねえ」

「案外、昔話って本当にあったことを少し美談にして伝えてたりするし?さすがに龍がいるっていうのはあり得ないかもしれないけど、どっかに本当のことが混ざってるかもよ」

「ええ………?風月が龍の存在を否定しちゃうの………?」

 何せ風月は死神の娘だ。それを決して天音は疑っていない。常識では測れないモノが実在することを、天音は身をもって理解している。けれど常識では説明できないモノ代表、死神の娘が龍の存在だけはきっちり否定するのがなんだかおかしい。

「いや、死神は実際見たことあるけど………っていうか父さんだけど。

 さすがに龍は見たことないから。私も実在すればいいなとは思うけど」

「それは私も思う」

 常識の概念はあまり関係なく。こんな話を信じていられたらいいと思う。自分よりはるか前の時代を生きた人が伝え続けたどこか不思議な言い伝えを、素直に信じていられた方がきっと豊かだと思うから。

「あ、もうすぐ頂上だと思う。開けてきた………気がする」

「本当に池、あるかなぁ?」

「え、そこから疑うの?」

 二人の視界を遮っていた枝を手でかき分ければ、不意に急に目の前がひらけた。

 目の前にあったのは、まぎれもない池。立札があるわけではないが、きっとこれが昔話にでてきた『龍神池』だと確信するしかない。

「本当にあったよ………」

「だから実在するってば、池自体は」

「綺麗だね」

 二人は感嘆の声をあげながら、龍神池に近付いた。正直に言えば足は疲れてしまっていたが、それでも見たかったものを見れた達成感の方が大きい。

「意外と小さいね………」

 風月がぽつりと漏らした通り、池はそんなに大きいわけではなかった。けれど山の頂上にぽつんとある、川が流れ込んでいるわけでもない池はいっそ不自然なくらい凪いでいて、なんとなく「龍が化けた」と言い伝えられてもおかしくない空気だ。

「底、全然見えないから気を付けなよ」

「風月こそ」

 お互いに言い合いながら、ふらふらと池に歩み寄る。

 —————落ち着いて考えれば、これは立派なフラグだったと思うけれど。

 そんなことを今の天音たちが知る由もなく、ついに。

「ひゃっ………!」

 もう一歩、と踏み出した足が、池のほとりのぬかるんだ土で滑り、風月が小さな悲鳴を上げる。

「風月!」

 池に落ちる前になんとかしようと伸ばした天音の手が風月の手を掴む前に、またしても常識では説明できない現象が天音を襲った。

「えっ、」

 急に池の水が持ち上がり、波のように二人を包んだ。ろくに反応する余裕もない、さっきまで凪いでいた池の水が急に高波のように人間に襲い掛かるなんて話は知らない、聞いたこともない。

 けれど状況を理解するより先、悲鳴すら上げる間もなく、二人は音を立てて池の中に落ちて—————。

 天音と風月の消えた森の中。さっき人が落ちたというのに、池は波紋一つなく元通りに凪いでいた。

 龍神池は天音と風月を飲み込んで、何事もなかったように静まり返った。

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