ACT51 錬ちゃん


「ぎゃあああああっ、痛いいいいいっ!」


 壁にぶつけた顔面を押さえてのけぞる変態コボルト。

 この機を逃す手はない。

 陽菜は夏希と野々花と視線を交わして同時に頷くと、元来た道を走って逃げる。

 左折の場所までたった二十メートルほどなのに、それは途方もなく長く感じる直線。

 

 でも走るしかない。

 捕まれば死ぬだけでは済まないような気がして、陽菜はそれこそ死ぬ気で走った。


 ――が。

 

 太ももに激痛が走り、陽菜はつんのめるようにして転んだ。


「きゃ――っ」


 頭をかばうように下にした左手、そして転倒すると同時に地面にぶつけた左膝にも痛みが走る。

 しかしそれよりも、太ももの焼け火箸ひばしを当てられたような感覚が何よりも痛苦で、陽菜は歯を食いしばりながらその太ももを見た。


 槍が深々と突き刺さっていた。

 実際の槍ではないが、しかし疑似痛覚はまるで本物に刺されたかのように陽菜を刺激して、抑えきれない呻き声が口から洩れる。


「陽菜っ!」


「そんな――っ」


 夏希と野々花が悲痛な表情を浮かべて陽菜の元へと駆け寄る。

 そこへ闊歩するように近づく〈ひっしぐしぐ★2007〉。

 さきほどの狂乱ぶりは鳴りを潜めているが、それがまた不気味だった。


「ウェポンスキル、〈上村幸史かみむらゆきふみ〉だ」


 コボルト男はそう述べると、陽菜の足に刺さっていた槍を躊躇なく引き抜く。

 気を失いそうな激痛に、陽菜はあらんかぎりの声を吐き出す。

 そんな陽菜を歯牙にもかけない〈ひっしぐしぐ★2007〉は、更に続けた。


「上村幸史は、2009年のベルリンセカイ陸上の槍投げで銅メダル取ったんだよ。おじちゃんはまだ2歳だったけど、家の親父が大ファンでねぇ。それもあって、いつか息子にも槍投げでメダルをってはりきっちゃってさ、さんざん練習させられたんだよ。親父が交通事故で死んでから止めちゃったんだけどね。でもうまいもんだろ? ちゃんと刺さった」


 〈ひっしぐしぐ★2007〉が歪な笑みを寄越す。

 それを見て、ああ、私はここで死ぬんだと思った。

 叫びたいのに、逃げ出したいのに、抵抗したいのに、何もできなくて――。


 ただ、せめて夏希と野々花には生き延びてほしい。

 体に刺さった槍を掴んでいればその隙に逃げてくれるかな――などと絶対、二人が了承しない方法を思い浮かべた時。


 陽菜の頭上に影が通る。

 

 でもそれは一瞬で。

 

 眼前に見知らぬプレイヤーが降り立ったと思うと、〈ひっしぐしぐ★2007〉の体に赤いエフェクトが斜めに走った。

 次の瞬間「ぐっぎゃあああっ!」と叫ぶコボルト男が前かがみになって閃光の走った箇所を握りしめるように押さえる。


「もっと痛がれよ。てめーにはその資格がある」


 声。

 それは陽菜を飛び越えて〈ひっしぐしぐ★2007〉に斬りつけた、こちらに横顔を見せるプレイヤーが発したもの。

 とても殺気に満ちた声質。

 

 なのになんでだろう、陽菜の全てを包み込むような安心感を与えてくれた。

 ――まるで、彼の声のように。


 ……え?


「残さず食らえ、犬野郎。――〈桜華乱舞〉ッ!!」


 陽菜が絶対にあり得ない想像をしたその時。

 細身の体にコバルトブルーの軽鎧を着用した金髪の剣士が、刀を振るう。

 息も吐かせぬ怒涛の連続攻撃が〈ひっしぐしぐ★2007〉の全身を切り刻み、鮮血のようなダメージエフェクトを無数に滑走させる。


 あっという間にHPの全てをなくしたコボルト男は、天空に向けて断末魔の叫びを拡散させると、白目を剥いてそのまま背中から大地に倒れた。


 唐突に訪れた幕切れ。

 本来なら、絶望の淵から逃れられたという欣快を三人で分かち合うべきなのだと思う。

 でも誰もが、颯爽と現れたその剣士から目を離すことができない。

 夏希と野々花の瞳からは、助けてくれたものの、彼は一体何者なのだろうかという疑念が垣間見える。


 でも陽菜は――。


 青の混じったほの暗い夜光に照らされる彼は、陽菜から視線を逸らさずに腰を落とす。


 信じられないけどそうとしか思えなくて――。


「良かった。間に合って……。本当に……」


 その顔は初めて見るけど、でも拡張では隠し切れない彼がそこにいて――。



「錬ちゃん、なの?」



 だから陽菜は大好きな幼馴染の名を呼んだ。

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