ACT29 暗雲


〈ジェニュエン〉は閉鎖した東京の一区をまるごと使用する。

 ゆえに都市機能が正常に働くなることもあり、国はリリース・デイとその次の日を脱都の日という休日にして、都民に地方活性化のための旅行を促進していた。


 もちろん強制ではなく促す程度であり、極力いつも通りの日常を行う人間のほうが大多数だろう。

 妹である咲もそうであり、脱都の日の二日間の休みは〈ジュピター〉を使って仮想空間に潜るほかは、テレビを見たりVR塾に行ったり、料理のための材料をスーパーに買いに行ったり、散歩したりとその日常は通常運転だ。

 

 しかし渋谷区に限って言えば違う。

〈ジェニュエン〉のプレイヤーでない人間がリリース・デイの最中に外に出ることは違法行為であり、十二時から二十三時までの十一時間は屋内に拘束される。

 もしもプレイ時間内に外に出て(イレギュラーオブジェクト化)しまえば、刑法による処罰はおろかネットに晒されることとなり、安息の日はその日をもって失われるだろう。


 JR山手線のトレインチャンネルで電子広告デジタルサイネージが流れる。

 その〈ジェニュエン〉に関するグッズのお知らせを何とはなしに見ていると、渋谷駅に到着のアナウンスが流れる。


 停車したのちホームに降りた神薙は、いくつもの向けられる視線を感じた。

 そこには、同じプレイヤーなのかと探る意味が如実に現れていて、神薙も無意識のうちに同じ行為をしていたことに気づき苦笑した。


 ふと、目に入って来るホーム沿いのポスターの一つ。

 中学生くらいの女の子が、悲痛な顔をしてこちらに向かって手を伸ばす写真の下には、【それはゲームじゃないよ、戻ってきてっ】と書かれていた。

 それは〈ジェニュエン〉に反対する組織が作成したポスターだった。


 ――無理はしないでね。私は錬にぃが生きていればそれでいいから――


 脳裏に浮かぶ、神薙を送り出すときの咲の顔。


 大丈夫だ。俺は失敗しない。


 神薙は自分に言い聞かせるように心中で呟くと、改札を抜けた。

 

 頭上に広がる碧空。

 僅かな黒雲が何かを告げるように視界の隅のほうに漂っていたが、神薙は特に気にすることはなかった。

 

 

 □■□



 ◇その二時間二十五分前――



 旅行もVRで済ませる人がいる。

 それをとあるお昼の情報番組で見た時、「ありえなーい」と陽菜は叫んだ記憶がある。

 箱庭化した疑似観光地に脳の感覚だけを出張させるなんて、『頭で理解する』ことはできても『肌で感じる』ことはできないからだ。


 遊ぶことを目的とした先日のラビットファンタジアならいい。

 でも旅行は違う。

 旅先の空気や情緒を生で体感してこその旅行なのだ。

 そしてそれらを共有できる友達がいる陽菜は、現在とても幸せだった。


 いつか錬ちゃんとも……などと考えたところで、右隣に座る夏希が「ウノっ」と声を上げた。

 

「え、もう一枚っ? なっちゃんって昔からカードゲーム得意だもんね」


「まあな、トランプウーマンに弟子入りしたことがあるからな」


「え? 誰それ」


「知ーらない。なんせ即興の設定だからな、ハハハ」


「なにそれー、フフ」


 陽菜達の座席は一番後部だ。

 三人ということもあって、その五人用の後部座席を案内されたのだが、残りの二座席には誰も座っていなくて実質の貸し切り状態だった。


 前の座席のほうからは終始、賑やかな声が聞こえてくる。

 皆、今日の静岡旅行を楽しみにしていたんだなというのが伝わってきて、『この旅先に向かう高揚感だって仮想現実にはないのだ』と、やっぱりVRで旅行なんてありえないという結論に行き着くのだった。


「次はののちゃんの番だよー」


 陽菜は窓際に座る野々花に声を掛ける。

 でも彼女は心ここにあらずと言った感じで、やや眉根を寄せる表情で外を見詰めていた。


「ののちゃん、どうかしたの?」


 怪訝に思った陽菜は野々花の肩に手を置いて聞いた。

 そこでようやく自分が話し掛けられていることに気づいたのか、野々花が「あ、ごめん」とこちらに見向いた。


「どうしたよ、野々花。何、もしかしてホームシック的やつ?」


 どう考えても的外れな夏希のそれだが、野々花が笑って突っ込むのを待って陽菜は出しゃばらない。

 だけど野々花は、無下とも言える淡泊な「ううん。そうじゃなくて」を呟くと、後にこう続けた。


「ここって、まだ――」


 野々花がそこまで言ったその時だった。

 バスの前のほうからざわめきが起こる。

 なんらかの不審を匂わせるような、異質な雑音。

 何事だろうと覗き込む陽菜は、その光景を見て完全に思考がストップした。

 

 業界では珍しい若い男性のバスガイド。

 爽やかな笑みを振りまきながらお客様の対応をしていたその彼が、どうしてそのような恰好をして立っているのかが分からなくて。

 

 

 

 


 彼は右手を掲げると、持っている紙をこちらに見せた。

  

【皆様おつかれさまです。ここが終点でございます】


 そう書かれた紙をぼうっと見つめるしかなかった陽菜の前で、ガスマスクの添乗員が左手に持っていたボールを通路に転がす。

 それが野球のボールのように見えた次の瞬間、ボールは通路の中央で、凝ったギミックを見せつけるかのように六つに分かれて開いた。

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