ACT15 ばあちゃんの家


「じゃあ、ちょっくら、ばあちゃんちに行ってくる」


 神薙は靴を履いて立ち上がると、丁度廊下に出てきた咲に声を掛けた。

 咲は「行ってらっしゃーい」と快活に返事をしたのち、風呂場へと向かう。

 と思ったら壁から顔だけをこちらに出し「お父さんとお母さんによろしく」と述べて、今度こそバスルームへと消えた。


 ――ああ、お前がファッションにうるさくなったことをちゃんと伝えておくよ。


 神薙は心中で述べたのち、玄関のドアを開けた。

 夜のとばりはすでに降りており、街灯と家々の灯り、そして時折り通る車や自転車のライトのみが周囲を照らしている。 


 現代人に揉まれ濁り摩耗した夜。

 それは早朝の清澄な空気を感じる暗さとは別種であり、そこに神薙の求める爽やかな気持よさはない。

 

 とは言え、使える時間はトレーニングに充てると決めた以上、行かないという選択肢はない。

 もちろん渋谷区の下見に時間を取られたとしてもだ。


 目的地までは、軽くジョギングしながら約十五分。

 突き当りのT字路を右に曲がって、あとはひたすら緩やかな傾斜を上るのみ。

 そこに目的地である小さな神社があり、その神社の敷地内にある社務所兼住居に祖母である夢子が住んでいる。


 行くとは伝えたものの、夢子はちゃんと起きているだろうか――。

 そんな心配をしたその時、神薙の〈bリング〉が音楽を奏でる。

 そのポップな曲の名は『Curiosityカリオシティー

 陽菜からだった。


 電話? メールじゃなくて?


 怪訝に思う神薙は立ち止まると〈bリング〉をタップ。

 そして九十度展開のホーム画面を眼前に浮かび上がらせる。

 すかさず【通話】パネルに触れると、映像化された鮮明な陽菜の顔が現れた。


 神薙は右手を少し上げて〈bリング〉の超小型カメラを自分に向ける。

 これで陽菜も神薙の顔を見ることができるはずだ。


「よう、どうした? 珍しいな。電話なんて」


「え? そうだっけ。――って、外にいるの? 後ろに木が見えるけど」


「ああ、ちょっとばあちゃんに用があってな。今向かってる」


「ふーん。そっか」


 陽菜はその『用』が何かなどという野暮な問いかけはしない。

 万が一、されたとしても正直に話すつもりはないが。


「で、そっちこそ俺に何か用か」


 すると逡巡するような表情の陽菜。

 なんだどうした? と思っていると、やがて意を決したかのように話し始めた。


「えっと、その……今日さ、転校生が来たじゃん?」


「そうだな」


「綺麗な人だなぁって思って」


「まあ、そうかもな」


「……」


「……」


「……」


「……」


「それだけ」


「……。はぁっ!? そ、それだけってなんだよっ。そんなこといちいち言うために電話してきたのか? なんだよそれ……」


「ご、ごめんっ。あんまりにも綺麗だからつい電話で話したくなっちゃってさ。別に他意はないからねっ。じゃあお祖母ちゃんち行ってらっしゃい。気を付けてね。また明日会おーぜっ」


 そこでサムズアップを見せる陽菜の顔が消えて、ホーム画面へと戻る。


「……なんなんだよ、あいつ」

 

 神薙はしばし呆然と立ち尽くしたあと、再び祖母の家へと走り出す。

 明日のお昼の時間に、今日の電話のことを聞こうと決めてから――。



 □■□



「錬。珍しいね、こんな時間に」


 インターホンを鳴らしてしばらくしたのち、祖母である夢子が出てきた。

 待っている間に睡魔に襲われて夢の中ということはなかったらしい。

 

「ごめんね、ばあちゃん。なるべく遅い時間は避けたかったんだけど、ここで体動かさないと落ち着かないからさ」


「はいはい。でもさきに会っていくんだろ? さあ、入りな」 


 錬は頷くと家の中へと上がる。

 廊下の脇に売り物であるお札やお守り、そして絵馬が雑多に積んであるが、夢子いわくこれで片づけてあるらしい。

 神薙は、廊下の真ん中に落ちている絵馬を、うずたかく積まれたそのいただきにそっと置くと、すぐ左の和室へと入る。


 と、線香の匂いが鼻腔を刺激する。

 伝統的な黒の唐木仏壇、そこにある新品のように綺麗な香炉から漂ってくる煙だ。

 神薙はその仏壇の前に正座すると、手を合わせる。

 そして、すっと開けた目で両親の写真を眺めた。


 写真はいつも通りだ。

 そこから感じるものはなにもない。

 

「五日後にまた〈ジェニュエン〉に参加する。応援してくれたら嬉しい」


 神薙は素早く立つと、仏壇に背を向ける。

 咎めるような、或いは止めてと懇願するような両親のイメージが一瞬、脳裏を過るが、それもいつものことだ。


 そしてそれは、神薙が生み出している幻想にすぎない。

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