ACT06 妹


 神薙はバスに乗ると一番前の席に座る。

 通路を挟んだ反対側には、スマートフォンを眺めている老婆がいた。

 

 スマートフォンがあらゆるデバイスの頂点だったのは、もう十七年も前の話だ。

 拡張現実AR(オーギュメンテッド・リアリティ)、そしてVR技術の発展とともに、スマートフォンは情報を窮屈なフレームに制限された時代遅れのペーパーパラダイムと断じられ、またたく間に王座の地位から凋落ちょうらくした。

 俗に言うパラダイムシフトである。


 ま、年寄りは長年親しんでいるデバイスが安心だよな。


 老婆の素早く動く指先に感嘆しながら、神薙は〈bリング〉の起動部を指紋認証用の親指で触れる。

 すると、両目に装着したARレンズに表示される数多の情報群。

 神薙がその中から音楽再生の仮想パネルに触れると、ワイヤレスイヤホンから川のせせらぎが聞こえはじめた。


 目を瞑り視界を断絶する。

 よけいな視覚情報はいらない。

 ひたすら川のせせらぎに安らぎを得る。

 これが神薙の登下校時におけるバス内での過ごし方だった。



 □■□



「お帰り、錬にぃ」


 神薙がマンションの自室、六〇三号室のインターホンを鳴らすと、妹のさきが出てきた。

 頭にはヘッドセット型VR機器である〈ジュピター〉を装着している。

 どうやら、〈エターナル・ディストピア〉をプレイしていたらしい。


「またファッションショーか」


「うん。今日はSINANOがデザインした服だったんだけど、ワンピースが超可愛かった。だから買っちゃった」


 買ったというのは、アバター用のをゲーム内通貨で、なのだろう。

 中学二年にもなればファッションに興味が湧くのは自然な流れなのかもしれないが、やけに服を買いすぎのような気がする。

 が、リアルマネーを散財しているわけでもないのでよしとする。


「服もいいけど、たまにはモンスターでも狩りにいってこいよ。完全に本質を見失ってないか? 〈エターナル・ディストピア〉は剣と魔法のファンタジーだぞ」


「え、狩りとか興味ないし。大体、戦いの好きな人はみんな〈ワールド〉に鞍替えしちゃってるから、パーティーだって組めないよ」


 そうだった。

〈ワールド〉が発売して以来、あらゆるフルダイブ型VRMMOの好戦的なプレイヤーがそちらに集結しているのだ。


 元々、フルダイブ型VRMMOはバトルを主目的としたユーザーが多かった。特に対人戦は熱く、ある種パターン化したモンスター相手とは違ったヒリヒリとした緊張感を得ることができたこともあり、闘技場などでは異様な盛り上がりを見せた。


〈ワールド〉がその対人戦に特化したとなれば、既存のフルダイブ型VRMMOに後ろ髪を引かれることもないだろう。

 く言う神薙も同様だった。



 □■■


 

 これから塾に行く(教室はVR内)という咲は自分の部屋へと戻る。

 神薙もこれから仮想空間へダイブするのだが、その前にと、トイレで尿意を解消してから自室へと向かった。 

 

 バッグを床に放り投げてベッドに寝転ぶ。

 そして、枕元の台の上からヘッドセット型VR機器〈ユニコーン〉を手に取る。


「……さきにやっておくか」


 だがあることを思い出して一旦、台に戻した。

 神薙は椅子に座ると、立て鏡を前にして親指で〈bリング〉に触れる。

 

 眼前に広がる、ARによって作られた空間パラダイムの世界。

 羅列される情報は、設定によっては三百六十度表示も可能だが、神薙の〈bリング〉の設定では目の前の九十度にだけ表示されるようになっていた。

 

 神薙はそこにある【レンズ取り外し】のパネルを押す。

【本当に外しますか?】のその確認にイエスと返すと、神薙は眼球からの僅かな応答を感知した。角膜に吸着しているARレンズがその吸着性を失ったのだ。

 

 単なるコンタクトレンズのように入っているだけとなったARレンズを、神薙はゆっくりと取り外す。

 次に洗浄液を満たしたケースに入れると、しっかり蓋を閉めて机の上に置いた。


 今日が月に一度の洗浄日だったのだ。

 洗浄自体は一時間程度で終わる。

 ならば仮想空間に接続する前にやっておけば、現実に戻ってきたときにすぐに装用できるという判断だった。


 代替え品として付属のARゴーグルがあるが、必要ないだろう。

 神薙は再び〈ユニコーン〉を手に取ると頭へとかぶせ、ベッドに横になる。


Dive to the worldダイブ・トュ・ザ・ワールド


 そして〈ワールド〉を起動させた。 

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