7.白川教授のゼミナール
白川は生物学を専門とする早麦畑大学の准教授である。学者ではあるが、ロッククライミングを本格的にやっているためか、アスリートのような出で立ちをしている。人当たりが良く、学生にも慕われた。
あの日、白川と彼のゼミに所属する4人の学生は渋谷駅にいた。
白川の論文が学会で高く評価されたことのお祝いを、渋谷のイタリアンレストランで行ったからである。お祝いの会はたいへん盛り上がり、5人とも終電間近までグラスワインを傾けていた。
そうして例の閃光に巻き込まれたというわけである。
彼らは5人ともデイヴィスの説明会に参加していたのだが、皆、食い入るように説明する私を見つめていたのを覚えている。
白川とゼミ生たちは自分たちの身に起きた出来事が、科学的・生物学的見地から見て常軌を逸したありえないことだという認識を誰よりも強く持つモルモットたちであった。そして彼らは、誰よりも早く主体的な行動をとったモルモットたちでもあった。
説明会が終わり、携帯端末が返却され、デイヴィスとスタッフたちがその場を立ち去ると、白川は壇上に上がり、マイクを使ってこう呼びかけた。
「みなさん、少しよろしいでしょうか。私は早麦畑大学で生物学を教えています白川と申します。
今朝、私は目をさますと体に異変を感じました。医学も少々かじっておりますので、その異変についていろいろと仮説を立てましたが、思いあたるものはなく、自分で検査をしてみたんです。
すると、細胞の組成がまるで人間のものではなかった。
驚きました。あの日渋谷駅にいた私の生徒達にも同じような検査をしました。皮膚や血液にある細胞どれをとっても、今までに見たことのない造りをしていた。
何が言いたいかというとですね。我々はすぐにでも精密な検査を受けるべきだということです。
あのデイヴィスという方は、2週間はかかると言っている。もちろん、事情は色々とあるのでしょうが、私は、これは自分たちの命に関わる重大な問題だと考えています。2週間も待つなんてどうかしている。もしかしたら新種のウィルスかもしれない。感染するかもしれない。すぐにでもこの細胞の組成について研究しなければならないんです。
もちろん、簡単な分析の結果、何かしらの菌やウィルスが空気や粘膜を伝って感染するようなことはなさそうだと考えてはいます。でもだからと言って、安心はできないんです。これまでの常識では何も語れない現象なのです。
あまり大きな声では言えませんが、私は彼ら委員会の対処に自分たちの命を任せきりにするのは危ないと考えています。
幸い、私の実験室には、ある程度の検査・分析のできる設備が揃っている。そこで皆様には、ぜひ協力していただきたい。月曜日から金曜日の10時から19時までの間、できるだけ多くの方々に来ていただき、簡単な検査をさせてもらいたいのです。
来週の土曜日に会合を開こうと思っています、分析の結果はそこでみなさんに共有します。ぜひ予定を空けていただきたい。これは皆さんのみならず、この地球上のすべての生物にとって重要なことなのです」
白川は近くにあったホワイトボードに、自分のメールアドレスとFacebookのアカウント名を書いた。そして言った。
「ご協力いただける方は、私にメールをください。フェイスブックをやっていらっしゃる方は私をフォローしてください。
今日中にグループページを作ります。事務連絡はそこか、メールにてご連絡します。
検査にお越しいただける方は、早めに日時を教えていただければと思います」
何人かが、ホワイトボードの前に歩み寄り、書かれたアドレスとアカウント名をスマホで撮り始めた。
白川が言った。
「ありがとうございます。グランドキャニオンの写真のやつが私です。白川洋次という名前です。洋次は太平洋の洋に次です」
その後も、多くの者がホワイトボードの前に集まった。写真だけ撮りその場を立ち去る者もいれば、その場でFacebookの友達申請を済ませ、近くの者に話しける者もいた。
イヌイとリンダは人々のそのような様子を席に座って眺めていた。
イヌイは言った。
「写真撮らなくていいの?」
「うん、もう申請しちゃうわ」
リンダはスマホを取り出して友達申請を済ませた。イヌイもその画面を見ながら友達申請をした。
「それにしても、すごい行動力のある方だね」
リンダは白川のことを眺めながら言った。
「うん。みんな、こんな不安な状況になったらお互いに繋がりたくもなるし、すごい良い呼びかけだったと思う」
隣でそれを聞いていた女の子が2人に話しかけてきた。小柄で可愛らしい女の子だった。
「私、白川先生のゼミ生なんです。吉田華と申します。初めまして」
「初めまして、リンダです」
「イヌイです」
華という名前の女の子は、話し始めた。
「白川先生は、本当にこの状況を危惧しているんですよ」
「そうですよね。普通じゃないことですから」
「お2人はとても冷静なんですね」
「いや、内心はそわそわしてますよ。ところで、あなたも白川さんの検査を受けたんですか?」
「はい。私はまだ自覚症状は出ていないんですけど、他の人と同じようにおかしな細胞組織になっていました」
「なるほど、何なんでしょうね」
「ところで、このあと先生とゼミのみんなでご飯を食べるんですけど、もしよかったら一緒にどうですか?」
リンダとイヌイはお互いの目を見てうなずいた。リンダが言った。
「もしよければぜひ! いろいろと話を聞いていみたいし」
「よかった! 白川先生もお2人に何が起きたのか気になると思うし、とても喜ぶと思います」
そこに、3人組の青年たちがホワイトボードの前から戻ってきた。
1人の青年が華にこう言った。幼い頃から柔道をしていますというような感じの若者だった。
「華、まだ自覚症状のない人もかなりいるみたいだよ」
「そう。でも私もいつかみんなみたいにはっきりと表れるのかな」
「どうだろうね、いろいろな人と話したけど、本当にみんなありえないようなことができるようになっていた」
「例えば?」
「体がめちゃくちゃ硬くできたり、人の考えを理解できたり、周りの温度を下げられる人までいたよ」
「完全にマンガの世界だな」
別の青年が言った。育ちの良さそうな、顔立ちの良い青年だった。
「周りの温度を下げられるって本当かな?」
もう1人の青年がそう言った。彼は優しそうな、もやしのような青年だった。
「信じがたいことですね」
話を聞いていたリンダはそう言い、すかさず華は2人を青年たちに紹介した。
「あ、こちらリンダさんとイヌイさん。お2人もご飯一緒に来てくれるって!」
リンダとイヌイの2人は、3人の青年と挨拶を交わした。
柔道家のような青年はこう言った。
「大倉と言います。リンダさんとイヌイさんは何か異変を感じました?」
「僕はなぜかはわからないけど、すこし先の未来が見えるようになった。ごくたまにね」
「おれは筋肉が強くなった」
リンダはセルの力を正しく彼らに伝えなかった。「アンサラー」にはこの先の展開がある程度見えていたのだろう。
「うらやましい。何だか強そうですね。私は白川先生と同じなんですが、細胞の再生が著しく早まったんです。傷を作ってもすぐに回復してしまう」
「まるでウルヴァリンだね」とリンダは笑った。
この大倉青年にも白川教授と同じB−048が培養されている。B−048を培養されたモルモットはその特性から「ヘルシーゾンビ(超再生)」と呼ばれる。これは人類にとって非常に有益な細胞であると考えている。
大倉は白川のゼミに所属する大学院2年生でゼミのリーダーを勤めており、卒業後は製薬会社で研究者として働くことになっている。柔道選手のような大きな体つきと、太い眉毛、大きくた形の良い鼻が目立った。
続いて、残りの2人が自己紹介をした。
「初めまして、ハゼイです。大倉さんの後輩です」
このハゼイという名前の青年は、その長い睫毛とつんと上を向いた鼻先が特徴的だった。この日は白いラコステのポロシャツを着ていて、肩まで伸ばした長く艶やかな髪は、真っ黒に染まっている。その雰囲気からは育ちの良さが自然と醸し出されていた。
彼はA-097「イリュージョニスト(幻覚生成)」の培養体である。「イリュージョニスト」は周囲の主体の知覚に影響を及ぼし、自由に視覚・聴覚的な幻想を生成させることができる。
「よろしく」
考えてみれば、白髪のある人はほとんどいないな。ハゼイの髪を見てリンダはそう思った。
「佐々木です。ハゼイと同級生です。」
この佐々木という青年は、背丈が小さくて線が細く、優しい中性的な顔立ちをしている。しかし動きはきびきびとしていて、まるで高性能な小型ロボットのような印象を見る者に与えた。彼は灰色のハイネックシャツを着ていた。
彼はB−075「スパーキー(放電)」の培養体である。「スパーキー」は、細胞を活性化させることで帯電及び放電を行うことができる。
「幻覚とか電気って実際どんなふうな感じなの?」
イヌイが尋ねた。
ハゼイと佐々木は自分たちの身に起きた体の変化を、実際に再現して見せた。
ハゼイはイヌイのペットボトルの中で小人が踊っているかのような幻想を生み出し、佐々木は腕をバチバチと放電させた。青い光がまぶしく光った。
それを見たリンダとイヌイはひどく驚いた。昨日の閃光のもたらしたあまりにも異常な現象を始めて目の当たりにしたからである。
「さて、先生も誰かと話し終えたみたいだし、行きましょう」
*
白川教授と4人の生徒たちの夕食には、リンダ、イヌイの他にもう1人の人物が加わった。百瀬壮太郎という名の男である。
百瀬はリンダやイヌイと同様、この実験における最重要人物である。彼はその後の過程で、人間社会に対して最も強い影響力を行使したモルモットであった。
だが考えてみればそれも当然だろう。彼に培養されたセルA−071は、人間のような社会的生物のコントロールを目的として生み出された新型の細胞だからだ。私は皮肉を込めてその培養体のことを「プリンス(言霊洗脳)」と読んでいる。
夕食を共にすることになった8人のモルモットたちは、渋谷ヒカリエを後にすると、恵比寿方面に新しくできたキャッシュオンのピザ屋を訪れた。吉田華がこう提案したのだ。
「そこは薄暗くて騒がしいから誰も私たちの話を気に留めないと思います」
白川は、そこでいいんじゃないかな。と言い、誰もそれを否定しなかった。
*
ピザ屋は日曜の夜であるにも関わらず、若者たちでいっぱいだった。8人のモルモットたちは隅の方に空いたテーブルを見つけ、椅子をかき集めるとそこに座った。
大倉がまとめてみんなの分をオーダーした。白川教授のおごりですということだった。
ピザやビール、サラダなどが一通り揃うと、白川が言った。
「私たちはいつまでこうして人前で普通にご飯を食べられるんだろうか。まあ、とりあえず今日という日に乾杯でもしましょうか」
「かんぱーい」
ビールの瓶がぶつかり合い、皆、無言でビールを口にした。
「こちらは百瀬さんです。先ほどお話をしていたんだが、私の行いに大変共感してくださったそうです」
白川が百瀬を紹介した。
「新聞社に勤めておいでなんですよね」
「はい。ここ1年は永田町界隈で仕事をしております」
百瀬は静かな声でこう言った。歳は30代半ばといったところだが、とても落ち着きのあるしゃべり方であった。そして誰もが好意を抱くような端正な顔立ちをしていた。
華は白川と百瀬にリンダとイヌイを紹介した。
「リンダさんは少し先の未来が見えるんだそうです」
「なんと。驚いた。百瀬さんも大変恐ろしい力を手に入れてしまったようですが、リンダさんも実に恐ろしい存在だ」
「はい、注意して暮らさなければとは思っています」
「百瀬さんにはどういう変化があったんですか?」
大倉が尋ねた。
「私は本当におぞましいことになってしまいました。私が誰かに何かをお願いすると、その方は必ずそれを実行するようになってしまったんです」
「と言いますと?」
大倉がそう訊くと、百瀬は言った。
「白川さん。ここの代金は私に支払わせてください」
白川はきょとんとした顔をしていた。
「とつぜんどうしたんです?」
「これで白川さんはここの代金を絶対に私に支払わせます。大倉さん、いくらでした?」
「えーっと、11,090円でした」
百瀬は白川にお金を渡した。
白川は黙ってそれを財布に入れた。
大倉が言った。
「先生?」
「いや、百瀬さんに払っていただこう」
周りの者たちは黙っていた。白川がふざけているのか、本気なのかがわからなかったからである。
本気ですか? とハゼイが言う。
「ああ」
白川は平然とそうつぶやいた。
神妙な面持ちで百瀬が言う。
「ひどいでしょう。これが私に訪れた変化です。私は人とまともなコミュニケーションをとることができなくなってしまったのです」
誰も何も言うことができなかった。百瀬は悲しげな微笑を浮かべてから言った。
「白川さん、先程言ったことは冗談です。忘れてください。今回はありがたくご馳走になります。よろしいですか?」
白川はうなずいた。そして、財布の中から受け取ったお金を取り出し、百瀬に返した。
「どんな気分でしたか?」
リンダが白川に尋ねた。
「いや、何も変わらないよ。ただ無条件にそうしなければならないと感じるだけだった。百瀬さん、失礼かもしれないが聞かせてほしい。あなたはこの力をどのように解釈しておりますか?」
「できれば使いたくない。恐ろしいことだ。そう思っております。そして私をこのように変えてしまった昨日の閃光を強く憎んでおります」
「そうですか。あなたが人格者でよかった。他にもこの力を持つ人がいるとすればそれは恐ろしいことだ。正直に言わせてもらうが、あなたにもたらされた変化は他のどのような病疫よりも恐ろしいものだと思う。もっとも、苦しいのはあなた自身だとは思いますが」
「はい。もしこれが治ることがないのであれば、私はこの先、注意深く人と会話をしていかなければならないと考えています」
「そうですね」
佐々木が場の雰囲気を和らげようとして言った。
「僕の電気パチパチなんか可愛いものですね。はははは」
百瀬をはじめ、他の者も力なく笑った。そしてまた沈黙が訪れた。
ピザ屋では、多くの人々が楽しそうに食事を楽しんでいる。もう彼らのように何気ない日常を楽しむことができないのではないか。モルモットたちは、食事を楽しむ人々を見ながら、自然とこう思った。
白川は、ビールをもう一杯飲もう。と言って、代金をハゼイに渡した。ハゼイと佐々木が8人分のビールを持ってテーブルに戻ると、白川がこう切り出した。
「百瀬さん、ぜひ検査をさせてもらえませんか? もしかしたら何かわかるかもしれない」
「もちろんです。土曜日なら時間を作れると思います」
「わかりました。また連絡します」
それからは、百瀬と白川と大倉の3人がデイヴィスと委員会の不審な点について話をし、リンダ・イヌイ・ハゼイ・佐々木・華の5人がそれぞれの身に生じた新たな力について話をした。
しばらくの間話は尽きなかったが、百瀬は明日の仕事が早いということで席を立った。
「リンダさんとイヌイさん、今日はあまりお話できませんでしたが、また土曜日にゆっくり話しましょう、これも何かの縁ですので」
「はい、ぜひ!」
「よろしくお願いします」
百瀬は白川にごちそうさまでしたと言って、去っていった。
「爽やかな方だ」白川が言った。
その時である、大倉が顔をしかめながら「不気味だ」とつぶやいた。
周りが大倉を見ると、彼はスマホを指差した。
「渋谷のホームレスが不審死だってさ、2人も。しかもついさっきの出来事だ」
「死因は?」
「この記事によると心臓や喉に星型の金属片が詰まっていたらしい」
白川は言った。
「それは不気味だな、不可解だ。私もそろそろ帰るよ。髪を染めるのをすっかり忘れてたし。君たちも今日は早めに帰ったほうがいい」
ゼミ生たちがもう少しだけ残ると言うと、彼は5,000円札をテーブルに置いて、これでビールでも飲んで親交を深めなさい、でもくれぐれも遅くならないように。と言い残し、店を出て行った。
さて、リンダ、イヌイとゼミ生たちが残ろうとしたのには理由があった。イヌイとハゼイが、近くの人気のない公園でアニメのような戦闘シーンを再現しようと本気で話していたからである。2人は酒に酔っていた。
「イヌイさんは強そうだけど、おれの幻覚とササの電撃があったらすごい面白い戦いになりそうじゃない?」
ハゼイは楽しそうな顔で問いかけるように周りを見た。
「よし。実はおれも思いっきり動いてみたいと思ってたんだよ」
大倉と華は、人に見られるし、危険だからやめた方がいいと訴えたが、彼らは大丈夫と言って聞かなかった。
「ばれそうになったらハゼイ君がなんとかするよ。リンダ、ばれないよな?」
そうイヌイは言った。
「うーん。イヌイがあんまり異常な動きをしなければ大丈夫そうだね。人が来そうになったらやめればいいし。見るの楽しそうだし」
「リンダさんまで・・・」
彼らは6人分のビールを買い、店を出ると、代官山方面へ向かって歩き出した。若者たちは百瀬や白川とは異なり、とても楽しそうだった。
*
私、ワトソンは思うのだが、若い人間に見られるこのような行動スタイルは、我々ジェリーフィッシュ星人にとって非常に参考になる。また、このような状況下でも彼らにワクワクをもたらすことのできるアニメというものの力を、私は称賛せずにはいられない。
私はこの日、観察を終えてから「うる星やつら」というアニメを見た。面白くて全話続けて見てしまった。
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