4.リンダとイヌイ

 


 さて、渋谷駅での培養オペレーションの際に、アシッドボーイの隣で話していた長身の男たちを覚えているだろうか。ここでは、その後彼ら2人の身に起こった一連の出来事について述べようと思う。


 彼らは仲の良い友人同士で、互いのことをリンダとイヌイと呼び合っている。リンダは細身の男、イヌイは体格の良い男である。


 私は彼らに、我々ジェリーフィッシュ星人の最も愛用するセルを培養した。セルA−023とセルB−060である。この2つは、人間社会においても非常に有用性の高い細胞であり、また、実験において注意深い観察が求められる細胞でもある。

 だからこそ、このあと2人に起こったセルの開花と、それに対する彼らの反応を描写することは、この実験の記録には不可欠なことだと考えているのだ。


 そして実際に、この二人組は今後、実験において欠かすことのできない主要な働きをすることとなる。


  *


 リンダとイヌイは雑司が谷駅を降りると、イヌイの住む家に向かった。その家で、ウィスキーを飲みながらおしゃべりをすることが目的であった。

 彼らは、学生時代からこのようにして酒を飲みあい、様々なことを語り合ってきた。不思議なことに、話題は尽きなかった。


「それにしてもあの光は何だったんだろう。普通ではなかった」

 駅の出口でリンダがこうつぶやいた。イヌイは答えた。

「想像がつかないよ、本当に。あとこの白くなった毛先。意味がわからない。職場にどう説明したらいいんだ」

「でもなんだかかっこよくなっているよ、イヌイくん。毛先だけが白いとかっこいいよ」

「そうかなあ。リンダはいいなあ、もとから白髪だらけだから」

「まあね。でもさらに白髪が増した気がするよ」


 彼らはしばらくの間、黙りあった。2人とも考えを巡らせるほどに、この経験が今後の人生を大きく変えるのだと思わないわけにはいかなかった。根拠はない。しかし、それだけあの閃光は、彼らの心を強く揺さぶる瞬間だったのだ。

家の前に着いた頃に、イヌイが言った。


「煙草でも吸わないか?」

「そうだね」


 リンダとイヌイはぷかぷかと煙草を吸った。


「何かの本で読んだことがあるんだ」

 

 リンダが煙を吐きながらこう言った。


「2015年頃から、地球は今までとは違う領域に進むことになる。それが具体的にどのような領域なのかあまり理解できなかったけれども、その本の著者ははっきりとそう言っていた」

「なぜその本の著者にはそれがわかるんだい?」

「彼は宇宙人だからさ」


 イヌイは煙草の火を消し、言った。


「さあ、家に入ろう」


 部屋に入ると、イヌイはロックアイスをグラスに入れ、そこにウィスキーを注いだ。棚からナッツやドライフルーツを取り出し、テーブルに並べた。


「その宇宙人の言っていることとあの閃光に関係があると言いたいのかい?」

「いや、ふと思っただけだよ」

「明日になれば、ニュースで原因についての説明があるさ」


 彼ら2人は、ウィスキーを半分ほど口にしたところで、ひどい眠気に襲われた。全くもって抗うことのできない圧倒的な睡魔だった。

 イヌイは無言でベッドに横たわり、リンダはソファに横たわった。そして静かに寝息を立て始めた。


 この睡魔は、培養オペレーションのもう1つの副作用である。オペレーションから3時間ほどで発生するこの睡魔によって、モルモットたちは深い眠りに落ちる。そして睡眠中に、培養されたセルが身体へ浸透、活性化するのである。


  *


 翌朝、リンダは目が覚めると、のどがからからに渇いていることに気づいた。カーテンの隙間から朝日が差し込み、細長い光のラインが部屋に伸びている。


 リンダは起き上がり、グラスに水を注いで、続けて3杯飲み干した。生まれ変わったような気分だった。ひと息つくと、いま何時だろうかと考えた。

 すると、「午前8時37分ほどだろう」という漠然とした感覚が芽生えるのがわかった。時計を見ると、はたしてその通り、8時37分ちょうどだった。

 リンダは驚いたが、まあ何かの偶然だろう。そう思っただけだった。


 リンダはイヌイを起こそうと身体を揺さぶった。しかし、全く起きようとしない。

「おいイヌイ!起きろ!」

 大声で叫んでも無駄だった。少し心配には思ったが、息はしているので、そのまま寝かせることにした。


 さて、帰るか。リンダは何分の電車に乗ろうかと考えた。

 すると、「ちょうど10分後に元町・中華街行きの各駅電車が到着する」という考えが頭に浮かんだ。調べてみると、本当にその通りだった。

 リンダは不思議に思った。なぜ知っているんだ? 副都心線の時刻表なんて覚えていた記憶はないぞ。


 リンダは試してみることにした。ここを出て、改札をくぐるまでの時間は?

「5分22秒」

 そう頭に浮かんだ。


 リンダはイヌイの家を出ると、ストップウォッチをオンにし、駅に向かって歩き始めた。まさか、秒単位で到着時間を正確に予測するなんて、できるはずがない。


 改札をくぐり、リンダは恐る恐る時計を見た。デジタル表示の秒針が23を示している。リンダは気味が悪くなった。昨日の閃光と関係があるにちがいない。


「Yes」

 

 そう頭に浮かぶ。

 リンダはため息をつき、首を横に振った。

 彼はエスカレーターを下る女性に目を留め、彼女はどこに何をしに行くのだろうか? と考えた。


「新宿三丁目で降りてバイト先に行く」


 どんなバイトだろう?


 新宿駅周辺の景色や人々の動きがもやもやとしたイメージとなって頭に浮かんでくる。だが何もわからない。これ以上知るには、より詳しい観察が必要なのだろうか?


 ふとリンダは、自分がこの力を大いに楽しんでいることに気がついた。


 これが、リンダに培養されたセルA-023の効能である。

 彼の脳は膨大な量の情報に基づいた適切な解を、瞬時に得ることができる。メカニズムについてはまた機会があれば説明したい。なお我々は、このセルを培養された被験体のことを「アンサラー(解答)」と呼んでいる。


  *


 さて、一方のイヌイは、リンダが家を出てから2時間後に目を覚ました。これには理由がある。彼に培養されたセルB−060は、全身の細胞に深く浸透する必要があったからだ。


 イヌイはシャワーを浴び、かんたんな朝食をとると、服を着替えてスポーツジムへと向かった。彼が自身の身体に生じた変化に気づいたのは、ジムでのトレーニングの最中だった。


 イヌイはEminemが好きだった。トレーニングの間はいつも彼の曲を聴いている。このときも頭の中を流れる言葉のストリームによって徐々にアドレナリンが分泌されていくのを感じた。

 イヌイは入念に上半身のストレッチをしながら思った。いつもよりも筋肉がしなやかだ。今日はベンプレ115キロいけそうだな。


 60キロのベンチプレスでウォーミングアップをする。イヌイが異変に気付いたのはこの時である。

 おかしいな、あまりにも軽すぎる。


 100キロ。軽すぎる。まるで負荷がかからない。筋肉の感覚がおかしくなってしまったか?


 イヌイは試しに、115キロを上げてみることにした。いつもであれば、たったの1度でも上げれば、筋肉が悲鳴をあげる重量だ。


 結果的に、イヌイは115キロのベンチプレスを20回連続で上げることができた。20回目になって、イヌイはやめてしまった。まるで疲労を感じない。何かおかしなことが起きている。イヌイは困惑した。感覚器官の異常では説明がつかない。明らかに自分の筋力の限界を超えてしまっている。


 彼はバーベルカール、スカルクラッシャー、インクラインベンチプレス、ダンベルプレス、バーベルリストカールとメニューをこなしていったが、自分の限界重量を何度上げても、どれひとつとして疲労を感じさせるものはなかった。

 イヌイは恐ろしくなって、それ以上のトレーニングをやめることにした。彼はジムを後にしながら、昨日の閃光事件のことを考えた。あれのせいか?

 彼はリンダに連絡を取ることにした。


「もしもし? おれ、少しおかしなことになってしまった」

「・・・・」

 電話の先でリンダが沈黙している。

「おーい」

「わかるよ。僕もなんだ。イヌイはどうなった?」

「筋肉が強くなりすぎたようだ」

「どれくらい?」

「ベンチプレス115キロをいくら上げても疲れないんだ。リンダはどうなった?」

「いろいろとわかるようになってしまった」

「それはどういう意味だい?」

「説明が難しいんだけど、とにかく答えがわかるんだよ」

「意味がわからないな」

「じゃあ何か質問をしてみて。僕のわからないと思うような」

「おれの貯金額は?」


 リンダは金額を答えた。


「だいたいあっている。なんでわかるんだ」

「わからない。わかってしまうんだよ」


 2人は渋谷で落ち合うことにした。最後にイヌイは言った。


「2時間後でいいか? とりあえずこの気味の悪い髪の毛をなんとかしなきゃならない」

「染めるの? かっこいいのに」


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