第一章
呼ばれて振り返った彼女の空を映す青い瞳が、真っ直ぐにゲイルの心臓を刺す。
言葉数の多くない彼女の武器とも言える眼力は、時として人を脅かすように思う。その澄んだ大きな瞳と、万人がため息をついて見惚れる美貌とが迫力をもって目の前にあれば、こちらの心臓はひとたまりもない、と彼は収まらない鼓動をどうにか落ち着かせながら彼女の側まで行った。
「メル、またこんな所にいる。今日は商工会の会長達と親睦会があるんだろう?」
ゲイルの言葉に、彼女の形の良い眉が少し上がる。
メル・アイヴィー。彼女は、ついこの前まで王女だった。
幼いころから一緒にいるゲイルには、彼女の感情が手に取るようにわかるのだが、こういう不機嫌を現すちょっとした表情が可愛くて仕方ない。
「そんな顔しない。と言っても、他の奴らにはメルの顔を読むことなんてできないだろうけど」
ゲイルがそう言うと、メルは大きな青い瞳を優しく和ませた。
彼女は王政が廃止された今でも宮殿に住んでいる。
それはこの国が女神信仰の厚い国で、王族の女性の血脈が巫女の血筋として敬われていることに起因する。巫女姫は宮殿に住まい、国の繁栄を祈り続けるものなのだ。王政の頃はそれが当然だった。メルの母が先代の巫女姫をしてた頃は、ということになる。彼女はメルが五歳の時に他界した。だからメルは幼いころから巫女姫として勤めを果たしている。
民主制に切り替わり、巫女姫としてのメルの立場は微妙になった。相変わらず、王族は宮殿に住まうことを許されているが、それは今だけだと思われる。王政を忘れられない旧貴族院の反発を抑え、国民に愛された王をのけ者にしない為の配慮であり、早急に古いものを壊したい民主制を担う政党、自由党の面々はじきに宮殿も閉鎖するだろう。
この宮殿は女神に祈る神殿でもある。
国民が信じる女神を新しい政府は否定しない。そうなれば、巫女姫の存続も当然ながら否定しないことになる。けれど、信託があれば政府の決定が揺るがされかねない。そして、それは民主主義ではないのだ。
巫女姫は必要だが、実質その役割を機能させてもらっては困る、というのが新しい政府の本音だろうとメルもゲイルも思っている。
形だけ敬われることの馬鹿馬鹿しさをメルは感情の動きを見せない美しい顔でゲイルに訴える。
「わかった。俺はメルを見かけなかった。どこにいるかも知らない。そう首相に言っておくよ」
ゲイルは笑顔で言って、メルに背を向ける。
「あ、そうだ。森の奥の平原に木苺が生っていた。そろそろ食べごろみたいだよ」
ゲイルは何でもないように言って、立ち去った。
メルは彼の背中を見送って、宮殿の裏手の森へ向かって走り出す。
銀色の長い髪が揺れて光が跳ねる。
王政時代は軽やかな衣装は許されず、王女らしく民族を代表するポモドと呼ばれる白い衣装を身に着けていた。今は、色は白色だが、街の女の子がお洒落に着ているワンピースというものを着ている。前々から興味のあった、首飾りも、流行りでチョーカーと言うらしいのだが、今ではそれも堂々と身に付けられるのだ。王政がなくなって悪い事ばかりではないと彼女は思っていた。
森の奥に行くと、少し開けた場所がある。そこでよくゲイルとピクニックをしたが、今は彼は多忙でメルの相手をする時間はあまりない。
宮殿の外は開発が進み、この森以外で自生する木苺を見かけることは少ない。だから、この森の、この場所はメルにとってもゲイルにとても秘密の場所だ。
メルは低い場所にこんもり茂っている木苺の赤い実を採ったさきから口に入れ、その甘酸っぱさに微笑む。陽の当っている場所の熟したものは甘いが、メルはどちらかと言うと、若い酸っぱめの方がお好みだ。
ゲイルはどうしているだろうか。
メルは自分の特殊な力を使って宮殿の様子を視ることにする。
目を閉じて深呼吸する。
意識を研ぎ澄まして風に乗せると、彼女の目は宮殿の会議室に注がれる。
そこにはゲイルが首相、商工会の会長や副会長、新政府の幹部たちを相手に何やら話している。
「ええ、本当に。僕は幸運だと思います」
ゲイルはよそ行きの顔で、穏やかな口調をしてはいるが、目だけは冷たい。こういう場合、彼が意に染まぬことを口にしているのだとメルは知っている。
「そうだろうとも、君みたいな普通の家庭の若造が、王族の方々と親しくしているなど、考えられないからね」
老年に差し掛かった商工会の副会長が、さも当然、と言うようにしたり顔で言った。
「でも、君のお父さんは騎士団長だろう。その伝手かな?騎士団に入れたのは」
まだ若い新政府の幹部が首相に目で合図しながら言う。
「残念ながら父は公平な人ですので、差別はしてもらえませんでした。しかしながら、騎士団に入れたのも幸運だったと思います。確か、首相の親族の方も騎士団の試験を受けられたとか。そんな優秀な方々の中で選ばれたからには、僕には重い責任があることを肝に命じて励みたいと常々思っています」
ゲイルの控えめな言い方は崩れない。
「騎士団というのも時代によせて変わっていかねばならないからねえ」
一番人目を引く容貌の首相が微笑みながら言った。
狡猾な老人たちを押しのけて青年の域を少し出ただけの彼が首相に着任した手腕は凄まじいとメルも耳にした事がある。一見派手で魅力的な外見の男でも、中身は油断ならないのだと父王も言っていた。
メルは知らず唇を噛んだ。幼馴染みのゲイルが騎士団に入る為に血のにじむような努力をしてきたことを知っている。今みたいに伝手だと言われないように常に精進して邁進してきた彼のことをメルは誇りに思っている。揶揄されても、嫉妬されても、決して人を責めずに自らの努力だけで道を切り開いた彼のことを、まるで知らない男たちに好き放題言われるのが許せない。
ゲイルが彼らに反発しながらも波風立たないように配慮している様子を初めて目にして、彼の道が厳しいものであったのだと彼女は知った。
「すみません、午後の訓練が始まりますのでそろそろ失礼致します。お忙しい中お時間を頂き、ありがとうございました」
ゲイルは優雅にお辞儀して、政治家たちに背を向けた。
メルはやっと安堵して、意識を手元に戻した。
木苺いっぱいの右手は、無意識に力んだせいで真っ赤に染まっていた。
ゲイルにも、木苺持って行ってあげようかな。
そんなことを考えながら、彼女はしゃがんで熟した木苺に手を伸ばす。ふと、白いワンピースに飛んだ小さな赤いシミを見つけて、左手の人差し指でつまんでみた。
純白の中に映える赤い水玉はゲイルの燃えるような目の色によく似ていた。
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