第2話

 ホテルの外に出てから気付いたのだが、そこは俺の自宅であるアパートの近所だった。あんな場所をうろついていたら、あらぬ噂を立てられかねない。俺は姿を近隣住民に見られたくないと警戒して歩いたが、深夜に出歩いている人間など、俺の他には誰もいなかった。


 玄関で靴を脱いだところで、ようやく心が落ち着いてくる。


 居間に座り込んでテレビをつける。チャンネルを回すが、興味を惹くような番組は1つもなかった。俺はテレビを消し、ごろんと横になった。


 冷静になった頭で、あの女について考え始めた。


 知らない女と関係を持った理由として、最初に思いつくのは〝酒の勢い〟だった。女と知り合ったのは酒の席か、道でナンパしたのかは分からない。そもそも、あの女が娼婦の可能性もある。理由はいくらでも見つけられる上に、それなら納得ができた。


 しかし、問題はそこではなかった。


 最たる問題は、俺に酒を飲んだ記憶すらなかったことだ。


 逡巡するが、やはり昨日、酒を飲んだ記憶はない。では、酒を飲む前から記憶がなくなることなど有り得るだろうか。


 俺には、今日のように記憶が曖昧な日が度々あった。


 その違和感に気付いたのは3ヶ月前のことだ。俺が寝る前と起きた後では、小物の位置が微妙に異なっていた。食器類の並び順や、テレビやエアコンのリモコンの位置、あとはトイレットペーパーなどの消耗品が勝手に補充されていたりした。俺は1人暮らしで、勝手に出入りするような友達や同居人はいない。だから、それらを動かした記憶がないことを不気味に感じていたが、俺はそれを思い過ごしだろうと考えていた。


 しかし、それは甘い考えだった。


 大きな変化が訪れたのは1ヶ月前だった。その日、俺が目覚めると、居間に置かれていたはずの木製テーブルがなくなっており、真新しいガラステーブルに交換されていた。木製テーブルはどうなったのだろうとゴミ捨て場へ行くと、そこには粗大ゴミのシールの貼られた木製テーブルが捨てられていた。粗大ゴミのシールには、俺の字で俺の名前が書かれていた。


 俺はそれを見て、自分に対して不安を覚えた。


 それらの行動は、俺の記憶に残っていなかったからだ。


 記憶のない状態で出歩く病気があるのは知っている。しかし、そんな曖昧な状態で、家具を交換するほどの複雑な行為ができるのだろうか?


 これらの現象は、俺が行動を起こした後に記憶を失っているだけなのか、それとも、自分ではないもう1人の自分――もう1つの人格が俺の体を操っているのか。どちらなのだろう。


 自分ではない、誰かに体を支配される恐怖。


 それは俺が今までに感じたことのない恐怖だった。


 まず、自分の知らない俺はどんな人間なのだろうか? そいつが人間の屑だったらどうすればいいのだ。もしも、俺が知らない間に罪を犯していたらどうだろう? それは俺の体ではあるが、厳密には俺の罪ではない。それでも俺が自白すれば、それは俺の罪になるのだろうか? その時、俺には罪を償う必要があるのだろうか? それは俺が犯した罪ではあっても、俺の意思とは無関係なのに。


 なるほど、俺のような人間を守るために、裁判では精神鑑定が行われるのだろう。


 つまり、俺は精神異常者なのか?


 そこまで考えて頭を抱えた。


 こんな恐ろしいことは、誰にも相談できない。この問題は、自分で解決するしかないのだ。自分の力で、俺は俺の体を取り返さなければならない。


 俺は何か使えるものはないかと視線を巡らせた。


 目に留まったのは、電話機の横に置かれたペン立てとメモ帳だった。


 まずは会話をすることだ。


 俺はもう1人の自分と意思の疎通さえできれば、今日よりも悲惨な出来事は食い止められる気がした。もう1人の俺が、俺のように常識的な性格であることを願うしかない。


 俺はメモ帳に、もう1人の自分に対するメッセージを書き連ねた。

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