綺麗な薔薇には……
待機室には、眠そうに欠伸をしている兵士が一人いるだけだった。試合はこれから始まるようだ。ラトーディシャはゼールベルの対戦相手の女剣士のことを思い出していた。
(あの女、何処か異様な感じがした。多分、彼女は何人も殺している。……ゼールベルは大丈夫だろうか?)
ラトーディシャは椅子に座って、ゼールベルの健闘を祈りながら、部屋に備えられたディスプレイで試合を見始めた。
試合開始前、闘技場へ向かうための通路。ゼールベルは対戦相手である女剣士の横を並んで歩いていた。
(彼女、とても美人だ。お近付きになりたい)ラトーディシャの心配とは裏腹に、ゼールベルはかなり呑気だった。
「お姉さん、お名前は何ていうのー?」ゼールベルは出来るだけ親近感を込めたつもりで、彼女に近づき話しかける。だが、彼の軽々しい言葉は他人を馬鹿にしているようにしか聞こえない。
「……ノランニーエ」ぼそっと呟く女剣士。彼女の視線は通路の先に向いている。整った横顔が闘技場から差し込む光に照らされる。
「ノランニーエ、良い名前だ。ノランって呼んでも良いかな?」また軽々しい口調で、話しかけるゼールベル。
「……あなた、これから戦う相手とよくそんなふうに話せるわね」ゼールベルに冷たい目を向けるノランニーエ。
「そうかな、戦いの前に相手を知っておくことって、結構重要じゃないか? 弱点とかが分かるかも」
それらしいことを言っているゼールベルだが、彼は美人な女性と話がしたいだけだった。
「……」ノランニーエはまた、通路の先に視線を向けて、黙り込んでしまった。
ゼールベルは口を閉じる彼女の顔を覗き込む。非情に不快そうな表情をしているが、その端正な顔立ちに変わりはなかった。
それに加え、雪のような白い肌と艶めかしく光る黒髪のコントラストが見るものを魅了させる。ゼールベルは彼女の顔を食い入る様に見つめる。
(やはり、美人。あまりこの人とは戦いたくないなぁ)
ゼールベルは能天気な人間なので、彼女の細い指を備えた手から漂う死臭を感じ取っていたが、単純で短絡的な思考回路がそういった部分に触れることをシャットアウトしていた。
美人ならなんでも良いかな。ゼールベルはそう考える人間だった。
ゼールベルはその後も何度かノランニーエに話しかけていたが、彼女は鬱陶しそうにするだけで何も答えることはなかった。
そうこうしているうちに、二人は闘技場の中心に向かい合うように立ち並んでいた。審判が試合の説明をしたあと、いつもどおりの宣言をする。
「これより、ゼールベル対ノランニーエの試合を開始する」
試合開始直前だというのに、ゼールベルはまだノランニーエに話しかけていた。
「俺が勝ったら、何か言うことを一つ聞いてくれないかな?」
「勝てると思ってるの? でもいいわ、あなたが勝てたらなんでも言うことを一つだけ聞いてあげる」ノランニーエが冷笑する。
「約束だぜ」ゼールベルは帽子のツバを指でつまみながら、楽しそうに笑った。
「両者、準備はいいか」いつもどおりの審判の確認。
「ああ」ゼールベルが頷く。
「ええ」鞘から長剣を抜き、ノランニーエも彼に続いて返事をする。
「では、……用意……始め!」審判の声が闘技場に響く。
先手を取ったのはノランニーエ。素早い足さばきと迷いのない剣筋がゼールベルを襲う。ゼールベルは後退しながら、彼女の剣を躱す。
「武器を持っていないの?」ノランニーエが長剣を振るい続けながら、何も持たずに避けるだけのゼールベルに聞く。
「あるぜ。君みたいな剣は無いけど」剣を躱しながら、ゼールベルが答える。
直後、彼の腰の左側に掛けてあったロープが独りでに動き始め、ロープの先端がノランニーエに向かって飛んでいく。ゼールベルは飛んでいくロープの逆側の先端を左腕で握る。
ノランニーエは急いでゼールベルから距離を取り、それを躱そうとしたが、ロープは彼女を追うように動き、剣を持つ右腕を捕らえる。
右腕に巻き付いたロープがノランニーエの剣を止めた。ロープは彼女が握っている剣の柄ごと巻き込んでいるため、剣を左手に持ち替えることもできなくなっている。
ノランニーエはロープの巻き付いた右腕を力強く引っ張った。ゼールベルはそれに対し、左手でロープをしっかりと握りしめて、彼女の行動を制限し続ける。
ロープがきしむ音がする。
「この邪魔臭いロープ。あなた、異界渡り?」ノランニーエは苛ついていた。不愉快そうにゼールベルの顔を睨む。
「そうさ!」ゼールベルは答えると右手でロープをもう一本取り出し、ノランニーエに投げつけようとした。
しかし、ノランニーエがロープに縛られていない左手で『何か』を投げつけてきたため、自分の前に壁を作るように右手のロープを回転させて、飛んでくる『何か』を防ごうとする。
回転するロープがノランニーエの投げた『何か』を弾く。闘技場の地面に小さな金属音を立てながら、無数の針が散らばった。
(投げたのは針か! だが、俺には通用しなかったな)横目で地面に落ちた針を見るゼールベル。
ゼールベルはノランニーエが放った思わぬ攻撃を回避できたことに安堵し、ロープの回転を止める。ゼールベルが地面から視線を上げて、ノランニーエの方を見ると、彼女は不気味に微笑んでいた。
「実は、私もそうなの」ノランニーエは微笑んだまま、呟いた。
「え?」ゼールベルは彼女が何を言っているのか理解できなかったが、この後に起こったことが、瞬間的に彼に『彼女の言葉』を理解させた。
闘技場の地面から微かな金属音が聞こえる。ゼールベルはそれに気付き、足元を見る。すると、地面に散らばっていた針が突然、ゼールベルの顔に目掛けて飛んできた。
ゼールベルはすかさず右腕を顔の前にかざし、飛んできた針を受ける。数本の針がゼールベルの右腕に刺さった。
「私は針を扱えるの」ノランニーエが笑顔で言った。
「見れば分かるよ!」冷や汗をかきながら、ゼールベルが叫ぶ。
「あと、針はまだ動いてるわよ」そう言って、ゼールベルの右腕を指差すノランニーエ。
「なんだと!」ゼールベルは針の刺さった右腕を見る。
針はゆっくりだが確かに動いていて、胴体に向かって右腕の中を進んでいるのが分かった。彼はまだ体内に入っていない、肌の表面に刺さっていた数本の針を慌てて抜き取る。
「クソッ!」ゼールベルは先程、針を避けるために使ったロープを右腕に強く縛り付け、針の進行を止めた。かなり強く縛ったが右手はまだ動かせる。
「まだ離してくれないの?」ノランニーエが不機嫌そうにロープが巻き付いている腕を見る。
「こんな美人を離すわけ無いだろ」苦し紛れの笑顔で答えるゼールベル。ロープを掴む左手を更に強く握り締める。
「でも、右手もそのうち動かなくなる。針には遅効性の毒が塗ってあるから」冷淡に呟くノランニーエ。
ゼールベルは彼女の言葉を聞いて、再び右腕を見る。針が刺さった部分がいつの間にか赤く腫れ上がっていた。そして、指先の感覚が鈍くなっていることに気付く。
「気付いた? その毒には神経を麻痺させる効果があるの。血流に乗って脳に毒が回ると、昏睡状態になる。その後は全身がどんどん腫れ上がっていく。見ていられないほどにね。でも、途中で目が覚めると思うから、死の間際の姿は見られるわ。よかったわね」
「そりゃあ、最高だ……」ゼールベルは憂鬱そうにノランニーエの話を聞く。
「そして、最後は……この世からさようなら」ノランニーエはにっこりと笑った。
ゼールベルを蝕んでいる毒の解説をするノランニーエは、今まで見てきた中で一番の笑顔をしている気がする。
「へえ、そうかい。ノラン、君は物知りなんだな」
「褒めてくれて、ありがとう。諦めてロープを離してくれたら、解毒剤をあげてもいいわよ」ノランニーエが懐から小瓶を取り出し、ゼールベルに見せつける。
「……絶対にくれないだろ」ゼールベルは真顔で聞いた。
「うん」ノランニーエの屈託の無い笑顔が眩しい。
……怖い人だ。
ゼールベルはこの毒のことを多分だが、知っていた。ラトーディシャから似たような効果を持つ毒の話を聞いたことがあった。解毒剤は彼女から貰わなくても、ラトーディシャならきっと作れる。
だが、ノランニーエが言う通り、この毒を放置するのはまずい。彼女に倒され、気絶したとしても、兵士に治療室に運ばれるまでには時間がかかりすぎる。ラトーディシャの元に行く前に脳に毒が回り、全身が腫れ物だらけになってしまうだろう。
ここでの敗北はありえない。脳に毒が行く前に彼女を戦闘不能にしなければならない。幸い、ロープで右腕を縛っているから、毒の進行は遅れているはずだ。
「もしかして、ロープで腕を縛っているから毒はまだ脳に回らないと思ってる? 私がそれまで待っていると思う?」
ノランニーエは次の針を投げる準備をしていた。地面に落ちている針も再び動き始めている。
ゼールベルはまだなんとか動く右手でノランニーエに向かってロープを投げた。そして、投げたロープと共にノランニーエの方へ走り出す。ノランニーエは慌てて、手に持っていた針を投げつける。
慌てて投げた針は彼女が狙っていた首を大きくそれて、ゼールベルの胸元に向かう。衣服が地肌に針が刺さるのを防いでくれる。だが、彼女の攻撃はまだ続く。
ゼールベルの背後からそこら中に散らばっていた針が向かってくる。彼は被っていた帽子を後ろ首を隠すようにずらした。お気に入りの帽子に針が刺さる音が聞こえる。やはり、彼女の狙いは首か。
首に針が刺さるのは防げたが、流石に他の場所に飛んできた針を防ぐことはできなかった。ノランニーエの右腕に巻き付いたロープを握る左腕に針が刺さったのを感じる。だが、そんな事は気にしていられない。今は前進あるのみ。
ゼールベルが投げたロープはノランニーエの左腕を捕らえていた。ゼールベルはノランニーエの両腕に巻き付いたロープを同時に勢いよく引っ張る。ロープに引っ張られたノランニーエの足が数歩、前に進む。これで彼女に近付けた。
急にロープを引っ張られたので、ノランニーエは体勢を大きく崩していた。ノランニーエがよろけているところを見て、ゼールベルは両手からロープを離して、右腕で彼女の首元に、左腕で彼女の下顎に一発ずつ拳を打ち込む。
ゼールベルの左腕で殴られたノランニーエは両腕に巻き付いたロープごと吹き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。しかし、彼女は痛くも痒くもないと言った様子で直ぐに立ち上がる。
対して、ゼールベルの両腕は既にロープを握ることも適わない状態になっていた。左腕に侵入した針がどんどん胴体に向かっているのが見える。右腕もロープで縛った場所より先はぶくぶくと腫れ上がっている。
「あなたのパンチ、随分へなちょこね」余裕の笑みを浮かべるノランニーエ。
「最近、鍛えようかなって思うことがよくある」ゼールベルはゼエゼエと息を上げている。
「それにロープを離してしまったわね。私はそれほど、あなたの好みではなかったようね」腕に絡まるロープを解き、再び長剣を構えるノランニーエ。
「いや、かなり好みだぜ。あと、ロープを離したのはもう君を捕まえておく必要がなくなっただけだ」
「何を――」急にノランニーエの足取りがふらつき始める。視界がぼやけてきた。持っていた剣も落としてしまう。
「君を殴ったのは、俺のへなちょこパンチで君を倒すためじゃない。さっき俺の腕に刺さっていた毒針を君に返してあげるためだ」ゼールベルがノランニーエの首を指差す。
遠のく意識の中、ノランニーエはゼールベルに殴られたあたりに指を這わせる。すると、そこには彼女が扱う針が数本刺さっていた。
「君は執拗に俺の首のあたりを狙ってきた。それって脳に近い血管に針を打込みたかったからだろ? それで、きっとこの毒は首に打てば直ぐに相手を昏睡状態にできると思ったんだ」ゼールベルは話を続けながら、左腕を見た。針の進行は止まっている。
「……流石ね」ノランニーエは片膝を地面に着いて、俯いている。
「君が既に解毒剤を飲んでたりしたらヤバかった。俺は死んでたよ」
「……この毒の……解毒…………剤は……」ノランニーエは何かを言いかけたが、意識を失いその場に倒れ込んだ。
倒れるノランニーエを見て、審判が叫ぶ。
「勝者、ゼールベル!」観客席から歓声が上がる。
ゼールベルは勝利の余韻に浸るわけでもなく、ボロボロの両腕でノランニーエを抱きかかえ、闘技場を出る通路へと大急ぎで走り出した。
先程まで、大きな歓声を上げていた観客達はその声を抑え、走り去るゼールベルの姿を不思議そうに見ていた。
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