断章 とある山小屋での一幕
「わたし、家出するから」
「…………はい?」
同居人の魔女の唐突な宣言に、青年――フェンリットは思わず呆けた声をあげた。
視線の先では、椅子に座る少女が眠たげな顔で真っ直ぐこちらを見ている。
【黒風】と世に名を知らしめる魔女シュトルム。
その外見は幼い少女にしか見えない。
背の丈ほどある黒いローブと、肩に掛かるくらいの黒い髪が、呼び名を象徴している。
赤と緑のオッドアイは至って真面目だった。
しかし、
「え、あ、うん……あれ? これは僕の認識がおかしいのかもしれないけど、家出って宣言制だっけ? 家族に何も言わないで、ひそかに家を出ていく事を指すんじゃなかったっけ?」
戸惑うフェンリットは、碧色の瞳を閉じて眉間に指をあてがう。傾げる頭が銀色の髪を揺らした。
シュトルムはテーブルの上のティーカップを手に取り、中の紅茶をゆっくり啜る。
やたらと澄ました動作だった。
やがて、何事も無かったかのように言い直す。
「わたし、家をでるから」
「だよね、そうだよね」
フェンリットは苦笑しながら応じた。
その視界の端に、リビングへとやってきた一匹の白狐の姿が映る。
それは立ち止まると、突如白い光を放った。狐のシルエットは人のものへと変貌を遂げていく。
現れたのは長身の若い女性だった。
ただの人ではない。狐の耳と尻尾を生やした、シャツ一枚しか着ていない白髪の女である。
「おはようございます、フェンリット、シュトルムさん」
その女は欠伸をしてからグッと大きく伸びをした。
ぶかぶかのシャツ一枚と露出が多く、その仕草は色々と見えそうで危うい。
「……シア、もう少し恥じらいを持った方がいいぞ」
白い狐耳の女――シアは、フェンリットの言葉にキョトンとした顔をする。
「何言っているんですか。誰の前でもこんな格好する訳じゃないですよ」
「僕の前でも控えてほしい、と暗に言ってるつもりなんだけどね」
フェンリットがこめかみを抑えながら言うと、シアは「むー、分かりましたよ」と、再び白い光を放つ。
早着替えのように、シアの衣装は簡素な白いシャツから、白と青が基調の着物へと変化していた。
これが彼女の正装、お気に入りの格好である。
「それで、一体何の話をしていたんですか?」
寝ても座っても気持ちのいい、良く沈むソファに腰を掛けたシアは二人に尋ねかけた。
「なんか姉さんがこの家を出るって言っててさ」
フェンリットにとってシュトルムは『育ての親』である。
しかし彼女から「母とは呼ばないでほしい」と要望され、『姉さん』と呼んでいる次第だった。
「へえ。これまたどうして突然?」
「僕もそれを聞きたかったんだ」
フェンリットがここに住んでいる間、彼女が家を空けたことは一度も無い。
二人の問いかけに、シュトルムはいつもの眠そうな声で応じる。
「すこし、用事ができたから」
「……用事、ね。まあ詮索はしないけれどさ」
彼女は常人には無い特徴をもつ。
左右の瞳の色が違うオッドアイ。赤と緑のオッドアイは、それだけで中々目立つ代物だが、それに付け加えてもう一つある。
赤い右眼の周りに、黒い紋様が浮かび上がっているのだ。
それが彼女を魔女足らしめる所以といってもいいだろう。
見られればその異様さに目立つのは間違いないが、大きな眼帯を使えば完全に隠せるはずだ。
だがフェンリットとしては、シュトルムの抜けた性格を知っているため心配にもなる。
先程のやり取りを見て分かるだろうが、若干天然の入ったシュトルムは時折変な事をするのだ。
とはいえ、彼女はフェンリットよりも遥かに年上。
きっと大丈夫と思って見送るしかない。
「そこでフェンリットにていあんなんだけど」
「提案?」
フェンリットは首を傾げて聞き返す。
「もしかして、僕に着いてこいとか? 別にいいけれど、それならシアも一緒に来ることになるよ」
「なんですかその厄介者を扱うような言いぐさは」
「勘違いは、やめてよ……くくっ、言葉の綾だって」
「間で微妙に笑ってるの気付いてますからね!?」
シアが投げてきたクッションをキャッチしながらシュトルムに言う。
「それでもいいなら一向に構わないよ」
「私はフェンリットの『守護獣』ですからね。一時も離れるわけにはいきません」
「一時は離れる様にしてくれよ例えば寝床とか風呂とかな。プライベートはどこにいった」
「なんですか? 何か見られたくない疚しいところでもあるんですか……?」
「あってもなくても尊重されるものだと思うんだが」
まれに風呂へと乱入してくるシアを思い出し溜息をついた。
「で、結局のところどうなのさ?」
「これを機に、フェンリットもいえをでるといい」
相変わらずの眠気眼をたたえ、魔女は続ける。
「フェンリット。あなたは
「……、」
「そして、その五年間にしてみても、けして
青年から否定の言葉が出ることは無かった。
その沈黙は、シュトルムの言葉の肯定を示している。
「だから、いつまでもこんなさみしいばしょにいないで、外の世界にでてみるといいよ」
魔女の表情はとても柔らかかった。
久しく見る事の無かった、母性を感じる優しい顔つきだった。
首も据わっていない赤ん坊のまま捨てられていたフェンリットは、彼女に拾われて育ててもらった。
血の繋がりもない子供に、誰も近寄らないような山の奥で、沢山の愛を注いでくれた。
『母』と呼ぶなと言われども、フェンリットにとって彼女は紛れもなく『母親』であった。
「この家はだいじょうぶ。つよいまものが沢山いるからもともと人もよりつかないし、認識阻害の術式を
「――そっか。ならなんの心配もいらない訳だね。強いて言うなら、姉さんがどこかで行き倒れないかくらいか」
「フェンリット。それはちょっとわたしをバカにし過ぎかも」
「冗談だって。姉さん、普段はおっちょこちょいで天然で間が抜けているところがあるけれど、いざと言う時はしっかりしていそうだし」
冗談じゃないのは半分だけだったが、こうなってはもうシュトルムを信じるしかない。
独り立ちする我が子を見送る親の気持ちとはこういうものか、と勝手に感慨深くなるフェンリットだった。
となると気になるのは期間だが、尋ねたところで「決まっていない」と返ってくるのは目に見えていた。
シアがフェンリットの動向に注意を向けている。
どのような判断を下しても、彼女は間違いなくそれに付き従う。フェンリットはそれを分かっている。
これが二人の関係性。
限りなく主従に近しいそれだった。
思い返すと、シアにはだいぶ迷惑を掛けている。
そんな彼女のために、外の世界を観てまわるのも悪くない考えだろう。
「分かったよ。折角だから、少しだけ漫遊してみようか」
「……そうするといい」
シアが無意識に白い尻尾を揺らし、シュトルムは薄らと微笑みを浮かべた。
「じゃあ、一先ずの目的地は『迷宮都市』かな。なんだかんだ、僕もあそこには行ったことがなかったし」
「『迷宮都市』といえば、世界で最も冒険者が集まる場所でしたか。迷宮が街を繁栄させたとか」
顎に人差し指を当てて思い出すシアに、フェンリットは補足する。
「迷宮があるから冒険者が集まる。冒険者が増えれば需要供給も増えて経済がまわる、そんな感じだな。どうせ僕には戦う事しか出来ないし、もう一度冒険者になるかなあ」
「ふふ。私はフェンリットと一緒ならなんでも構いません」
「ならまずは、アセト村で冒険者登録だな」
シアはニコニコと笑顔を浮かべて尻尾を揺らす。
フェンリットがシアと出会っておよそ四年が経っているが、向けてくる感情が『恩義』なのか『いわゆる恋愛方面のソレ』なのかは未だに分かっていない。
どちらにせよ、シアはフェンリットを慕い、付き従う。
願わくば、危険な事に巻き込まず、平和に過ごしたい。
そんな思いを馳せながら、フェンリットはこれからの事を考えるのだった。
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