『俺』約束の日

 ホームの電光掲示板は、俺が乗る電車の時刻を示していた。それを逃せば、次に電車が来るのは、また一時間後。そしてその次を逃せば……もう終電だった。

 後ろのホームで、特急列車が止まった。多くのサラリーマンやスーツケースを引いている若者が乗り降りしている。

 俺には、そんなお金はなかった。特急列車に乗る、という発想がそもそも芽生えない。

 池野めいに、有り金全部つぎ込むつもりでいた。彼女に、彼女の為に、自分のお金を使う。

 見栄もあった。しかし、自分が溜めてきたお小遣いを使うことは、単純に言って愛情だった。俺は池野めい、彼女のことが好きだから。ちゃんと、浅羽さんと縁を切ってきたのだから。

 池野めいという存在が消えたら、俺はまた浅羽さんに縋るだろう。それは、許されないことだろうけど、俺は謝って、笑って、情けなく許しを乞うだろう。やるために。性欲の解消の為に。心の隙間を埋める為に。今度は「彼女になろう」とか言って。

 特急列車がホームを発つ。数分のことに、人々はお金を払っている。

──まもなく、一番ホームに電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください。

 黄色い点字ブロックのラインは、俺の中で生命線だった。良心のラインでもあった。

 俺がそれを超える時は、全ての終わりを意味する。恋愛も友人関係も、将来も、やりたいことも、全部失敗して、「人生に失敗した」時、それを踏み越える。終わり。

 俺の目の前を、黄色の線を踏みながら一人の男が横切る。顔が膨れ、腹はベルトの上に乗るぐらい太っていた。そんな男だった。

 こいつは、そのラインに乗れる男なんだ。最低な男だった。そう思った。

 快速の電車が一番ホームに止まる。俺は慣れない電車に足を踏み入れる。

 自分でも、どこの駅にとまるのか、この電車は本当に自分の行きたいところに止まるのか、わかっていない。ただ、スマホの乗り換えアプリが示す通り、この電車に乗り、東京に行く。彼女に会いに。

 緊張と好きな人に会うそわそわが同居している。

 彼女と楽しいことをする妄想を何度もする。口元が緩む。この下卑た考えをどうにか現実に持っていこうと、そういう考えばかり起こす。それが楽しい。たまらなく、楽しい。

「今電車乗った。着くのは七時半くらいになりそう」

 添付したスクショと共に、彼女にラインを送る。彼女のことだから、すぐにメッセージは見れないだろう。既読を心待ちにしながら、目を瞑った。

 二時間半ほど電車に揺られる時間が始まる。

 

 都心に近づいていくにつれ、自分の田舎臭さを呪った。なんでこんなに東京の男女は見目が綺麗なんだろう。制服もおしゃれだし──ワイシャツ姿の自分が小汚く思えてくる。

 同じ、高校生だというのに、この枠組みは全国共通じゃないのか。途端に、さっきまで愉しんでいた妄想が霧散し、自分の肯定感がだだ下がりする。

 俺の顔は醜い。肌も赤みがひいていないし、ニキビ跡がひどい。

 違って、東京の波に揉まれている彼女は、顔が整った芸能人ばかり見ているはずだから俺なんかを見たらどう思うだろう。

 無性に、送ったラインを消したくなる。既読はまだついていない。あえてつけられていないんじゃないか。そう思えてさえくる。

「──駅、」

 聞き取れなかった車内アナウンスにどぎまぎし、ホームに掲げられている駅名を確認にした、それさえすぐに確認できなくて、車内に駅名が書かれていないか、視線を右に左に動かす。最後にスマホで確認して、まだ目的地には着いていないことを知った。

 はあ、とため息か安堵の声かわからないものを吐き出す。つらい。こんなんで──。

 浅羽さんの胸の柔らかさを思い出す。それだけが、今の自分の肯定感を上げる存在だった。明らかな保身。

 スマホがバイブする。

「わかった。私も今仕事終わったとこ」

 彼女から連絡が来ていた。次の駅が目的地だった。

 仕事先から彼女の家の最寄駅(目的地)まで距離があるらしい。時間を潰すことを命じられて、俺は駅内の喫茶店に入った。

 アイスコーヒーを頼み、たけえなと思いながら五百円を出す。

 手頃な席に座って、アイスコーヒーをストローづたいに飲んだ。

「何口にいる?」

「何口かわからない」

 正直に答えて、そのカフェの名前を続けて送った。

「あーそこね。五分ぐらいまってて」

 電車がつくまであと三分はあった。コーヒーの苦味で口の中が一杯になる。苦味と渋味が、もやもやをかき消してくれた。へんに甘いものを頼まなくてよかった。

 半分を飲んだ頃、ついた、と連絡が入る。慌てて全部飲み干した。

 ようやく。ようやく──彼女と会える。中学の卒業式以来。多くの緊張と、多くの多幸感を伴って、彼女は現れた。

「おまたせっ」

 ワイヤレスイヤホンを耳から外し、俺の肩をぽん、と叩いた。彼女のその性格の軽さは、相変わらずのものだった。

 振り返ると、やはり──彼女の顔があった。

「久しぶり」

「髪が……茶色い」

「はは、仕事でね」

 彼女は開放的に笑った。嫌味でもなんにでもない、余裕のあるコミュニケーションで。その笑いは作り込まれていた。表情自体が、計算されていた。

 それにすぐ気づいたのは、俺が目敏かったからだろうか。そうであってくれ。そうであってくれればいいな、と願う。しかし、計算された笑顔であることはとても悲しい。

「わからなかった」

「こっちはすぐわかったよ」

 だって、窓際に座ってるんだもん。彼女が揶揄うように言う。

「そんなに見つけて欲しかったんだ?」

「ちがう、他にいい席がなかったんだ」

「よく言うよ」

 荷物をまとめながら席を立つ。

「さ、帰ろ」

 幻想は残念ながら打ち砕かれた。彼女の艶やかだった黒髪は、今や茶色に変わっている。

 彼女の笑顔は、いつも同じ角度で口角が上がる。

 そしてまた、一目惚れをする。

 一瞬で中学の思いを寄せていた頃のイメージは崩れ、都会の女子高生となった彼女の新しいイメージが出来上がる。

 店を出ると、俺はわざわざそう訊いた。

「それ荷物?」

「うん。仕事道具とか入っている」

 大きめの紙袋を左手に提げた彼女は、俺が見やすいように上にあげた。

「持つよ」

「え? いいよー」

 ふんわりと断られる。だって、手を繋ぎたい。手を繋ぎたいから、と言えたら全部、全部、俺の思い通りになるんだろうな。

 空いたままの右手は、ひらひらと彼女の左腕あたりを漂い、そして閉じた。

「学校どう? てか、高校どこだっけ」

 今度は彼女にそう聞かれ、答えた。

「へえ、志望校に受かったんだね」

「なんで志望校は知ってんだよ」

「だって、私が裏切ったから。裏切った立場だもん。罪悪感はあるよ。てへ」

「そうだったな……」

 中学の制服を着た彼女をありありと思い出す。

 お互いの志望校を聞いた時、彼女は今のように東京の高校は言っていなかった。俺と同じように地元の高校、なんなら俺が合わせたくらいだったのに、彼女は仕事の為に、俺の目の前から消えた。

 誰にも罪はない。彼女は、ただ彼女の人生を歩んでいる。それだけ。俺は、俺の進路を歩んでいる。それだけ。

「楽しい?」

「まあ」

「彼女できた?」

「できてないよ」

 少し声が荒くなる。

「わかって聞いてるだろ!」

「まあね、童貞くん」

「うっ」

 それはとてもわざとらしい反応だった。俺が童貞でないことを知っている人間はそう思っただろう。しかし、彼女はそれを知らない。いいようにいじられるだけ、それでも嬉しかった。

 童貞、俺は彼女から発せられたその言葉を過敏に受け取る。彼女は童貞、という単語に対してどういう印象を覚えるのだろう。何を連想するのだろう。何を考える? 俺を思う? 彼女は性欲ある? 一人でする?

 ぞわぞわ、と心の敏感なところが撫でられる。

「池野はどうなんだよ」

「どうでしょう」

 はじめて、地に足ついた会話だな、と感じた。中学の頃から、曖昧な言葉を彼女は使う。何も本当のことを言ってくれない。彼女のプライベートな部分は。

 それが、たまらなく、たまらなく焦ったい。楽しい。ぐいぐい、と好意を押し出すと、少しずつヒントのようなものを教えてくれる。しかし、それでも核心なことは言わない。100パーセントのイエスを彼女は言ってくれない。

 ──いい? あたしのことなんて忘れるんだよ?

 古い傷が、彼女の言葉がふいに甦った。忘れてなんてたまるか。

「悲しいなあ」

 わざとらしく、努めて明るい口調で、俺はそう言った。

「本当に悲しいと思ってる?」上目遣いでそう訊かれる。

「思ってない」そう言って、少し笑う。

「だと思った」

 改札を抜ける。

 悲しいよ。悲しい。もし、そうなら。そうなっていたのなら。

 誰に食われた? ベッドの上で、二人で裸を見せあった時、俺が聞くだろう質問を妄想する。

 誰に?

 事務所の先輩、と彼女は答えるんだろうな、と思った。

「こっから歩いて五分だから、家」

 近いよ、カフェで待たせたことを詫びるように彼女は言った。

「くたくただよ」

 二時間強、電車に乗って肩こりが酷かった。

「どうする? 先お風呂入る?」彼女がスマホをいじりながら言った。「それならご飯は宅配でもいいよね」デリバリーアプリをいじっていた。

「ああ、そうしたい」

「先? 後?」

 先に入るのか、後に入るのか、聞いていた。彼女の顔をよく見ると、汗でメイクが少しとれていた。

 後に入れば──、彼女が先に入ると言うことになる。

「後……かなあ?」

「おーけー。あたし、ながいけど。お風呂」

「全然いいよ」

 チェーン店が立ち並ぶ駅前を抜けて、一つのマンションに進む。彼女が番号を打って、二人で中に入る。

 五階。エレベーターに乗り込むと、彼女は「5」のボタンを押した。

 扉が閉まる。彼女と会って、初めて密室に身を置いた。彼女の柔軟剤の匂いがエレベーター内で香った。

 妙な緊張が俺を襲う。

 鋼鉄の箱が駆け上がっていく高揚感を覚えながら、言った。

「あのさ、」

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処女 無為憂 @Pman

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