第6話 古武士の家
ローカル線の寂れた駅からバスに乗って、山道を登った先にその家はある。
バスを降りた時から我慢していた山の冷気に耐えきれず、明菜は体を震わせた。
「この時期は冷えるってわかってるのに、防寒着持ってこなかったの?」
マフラーにブルゾンを着こんだ優加が呆れ顔で言う。
「用意したはずなのに置いてきちゃった」
明奈は肩をすくめた。
二人はどちらからともなく、すぐ側の古い木造家屋を見上げた。
「久しぶりだね」
明奈がしみじみと言った。
「最後に来たのは二十年ほど前かな」
「もうそんなに経つんだね」
優加の言葉に、明奈は息を吐いた。
部活だ。受験だ。バイトだ。仕事だ。そう言って離れていた間もこの家は古武士のような佇まいでここに在った。そして、長い年月を粛々と生きてきたのだ。
明奈には何故かそれが特別なことのように思えた。
ふわりと風に乗って、甘い香りが明奈の鼻腔をくすぐる。風上の隣家の生け垣にオレンジ色の星の群れが咲いている。
「金木犀の匂いを嗅ぐとさ、トイレを思い出すね」
明奈の視線の先の金木犀を見て優加が言った。
母方の祖父母が住んでいたこの家は、明奈が中学に入学する年まで汲み取り式の和式便所だった。薄暗くて、じめじめして、少しだけ寒くて、金木犀の芳香剤を置いていた。
「そういえばアンタが小さい頃、トイレの鍵が勝手にしまって大騒ぎになったっけ」
優加が懐かしそうに目を細めた。
「半分ロックがかかった状態で扉を閉めたから、衝撃で完全に鍵がかかったのよね。アンタは鍵が開かないって中でパニックになるし、大変だった」
「ああ、そんなこともあったね」
明奈のおぼろげな記憶が蘇る。
開かないトイレの鍵。外で慌てる大人の声。一生出られないのではという絶望感。そして、金木犀の香り。
「すっかり忘れてた」
できれば忘れたままでいたかった、と明奈が言う。
優加がくすくす笑い出した。
「ていうか、思い出話の話題がトイレってどうなのかしら」
明奈が眉を下げた。
「たしかに」
優加が頷く。
二人で顔を見合わせて、子どものように声をたてて笑う。この場所には、二人の四十路前の女を少女に変える不思議な力があるのかもしれない。
ひとしきり笑って、同時に息を吐き出す。
訪れた静寂の中を風が吹き抜けた。
「北風が凍みるね」
明奈がシャツの裾を引っ張って呟いた。茶色の瞳が揺れた。
「……そうだね」
優加が声を詰まらせた。
明日、この家は解体される。
無骨な鉄の牙がその壁を貫く瞬間まで、きっとこの家はこの場所で、凛とした姿勢を崩すことはないだろう。
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