第4話放蕩娘
秋川は台所の入り口で所在なさげに佇んでいた。目の前では鹿野園の妻・博子が手際よく茶の仕度をしている。
鹿野園に弟子入りした日、秋川が最初に命じられたのは茶を淹れることだった。鹿野園の為に旨い茶を用意しようと台所に向かった秋川だが、
「ここは私の城ですから」
と博子に中に入ることを断固拒否されてしまった。
せめて書斎に茶を運ばせてくださいと申し出て、秋川は入り口で待つ許可を得た次第である。
「ねえ、秋川のお兄ちゃん。ユキちゃん見なかった?」
背後から鹿野園の末娘・ハルが話しかけてきた。
「ユキちゃん?」
秋川は首を傾げた。夏の終わりに鹿野園の弟子になってから半月が過ぎたが、ユキちゃんと呼ばれる人物に会ったことはない。助けを求めるように博子を見る。
「お散歩じゃないかしら」
秋川の代わりに博子が答えた。
「ユキちゃんはうちの放蕩娘なんです」
「お目々が大きくて可愛いの」
「色が白くてふくよかな子なのよ」
博子とハルが口々に言う。
色白でふくよかな、目の大きな放蕩娘。秋川は心の中で反芻した。
いくつぐらいの娘なのだろうか。美人だろうか。もし美人なら是非ともお近づきになりたい。
「あ! この箱の中身は何?」
ユキちゃんに思いを馳せる秋川を尻目に、ハルが戸棚の菓子折りを目敏く発見した。
「秋川さんにいただいた栗饅頭よ」
博子は春の掌に栗饅頭を一つ乗せた。
「秋川のお兄ちゃんありがとう! ユキちゃんと一緒に食べようっと」
ハルは秋川に礼を言うと、跳ね飛びながら台所から飛び出して行った。秋川はその背中を、目を細めて見送った。まだまだ幼い、瑞々しい輝きが眩しかった。
「さぁ、お待たせしました。どうぞ」
博子が盆を両手で抱えて秋川の元にやって来た。盆の上には緑茶の入った湯飲みと栗饅頭が二つずつ乗せられている。
「ありがとうございます」
秋川は盆を受け取り、書斎へと向かった。
緑茶の青臭く香ばしい匂いが書斎に広がる。行き詰る思考も迷走する筆も、全て許すような寛容な香りだ。
秋川は湯飲みに口を付けて鹿野園を盗み見、ユキちゃんの話をする機会を探った。自然に。よこしまな考えを悟られないように。
鹿野園が栗饅頭を一齧りして頬を緩めた。その表情に鹿野園の上機嫌を読み取った秋川はそれとなく切り出した。
「先程、ハルさんがユキさんを探していました。一緒に栗饅頭を食べるそうですよ」
「ハルとユキは幼い頃から一緒に過ごしていたからな。姉妹のようなものなのだろう」
鹿野園が頷いた。
姉妹の“ような”?
秋川は首を傾げた。
「ハルさんとユキさんは姉妹ではないのですか?」
秋川の質問に、今度は鹿野園が首を傾げた。
「……君はユキに会ったことはあるのか?」
「いえ。でも話には聞いています。色白でふくよかな娘さんだと」
秋川が答えると、鹿野園は口元を歪めた。今にも笑いそうなのを我慢しているようだ。自分は可笑しいことを言っただろうか。秋川は怪訝そうに鹿野園を見た。
「良い機会だから秋川君に紹介しておこうか」
鹿野園がそう言って机の上のブリキ缶と鉛筆を手に取った。そして、窓を開けて鉛筆でブリキ缶をたたいた。
コァン コァン
陽の当たる裏庭に間延びした金属音が響いた。それに共鳴するかのように澄んだ鈴の音が聞こえた。
鈴の音は次第に大きくなり、窓の側で止まった。一拍置いて、チリンと軽快な音と共に窓枠に一匹の白猫が姿を現した。
白猫はひらりと書斎の床に飛び降りた。ブリキ缶から煮干しを取り出す鹿野園の秋に頭をこすり付ける。
屈んだ鹿野園の掌から煮干しを食べる白猫を見て、秋川は唖然とした。
色の白い猫。
爛々と大きな瞳。
家猫独特の福々しい顔。
「紹介しよう。ユキだ」
鹿野園が笑いを堪えて震える声で告げた。
「えぇぇ……」
混乱と落胆。秋川が情けない声を出す。
どうも、初めまして。そう言わんばかりに白猫が秋川に顔を向けてニャーンと鳴いた
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