トランサーズ――超越者たち――
岡崎タタ
第1話零:足先の線
どこか遠くへ行きたかった。
此処でない遥か遠く――そこに自分の、自分だけの居場所が欲しい、とそんなことを漠然と考えていた。それは海外へ移住したいとか、将来大人になって仕事に就き、その業界で唯一無二の存在になりたいとか、そんなありきたりな願いではなく、もっと曖昧とした目的意識の中でその願望は渦巻いている。
そもそも、俺の中に海外へ憧憬を抱くような好奇心が残されているか?
そもそも、弱肉強食と名高い現代社会で頂点に立とうだなんて野心が俺の中にあるか?
答えはNOだ。絶対にNO。
俺はこれまでの十七年を自分、浅田理久人として生きてきた。そして、その過程で俺はそれなりに自分という人間を理解していると自負している。学問として人間の心を研究してきた心理学者はさすがに例外にしても、家族や友人、高校の教師なんかよりは、少なくとも自分は自分の心の機微を感じ取れている。自分が何に悲しみ、何に怒り、何に喜びを感じるのか、それを完璧に理解している。俺はこの抑揚のない平々凡々な味気ない人生も存外楽しめている。
特別な才能を持ち合わせていなくても、運命的な出逢いがなくても、俺は浅田理久人という人間を気に入ってるのだ。
それは諦観でも、達観でもない。
俺は自分の事をまだまだ未熟で未発達な子供であると思っているし、世の中には自分の知らない世界が広がっていると信じているし、そうであって欲しいとさえ思っている。
だけれど、だからこそだ――
世界に自分という存在は必要ないと感じている。
自分の限界値を心が痛くなるくらい正確に把握していて、人間としての基本性能も熟知している。勉学は並以下だし、運動も基本全般苦手だ。
勉学に対してはそれほど拒否反応はないのだが、身体を動かす事に関しては直截的に言って嫌いだ。それは苦手だから嫌いなのではなく、嫌いだから苦手なのだ。体育祭の前日には決まって陰鬱な気分になる。
ここで臆面もなく宣言すれば、俺は出不精のきらいがある人間で、平日は基本学校に行く以外は外出しない。
それにクラブ活動も入ってなく、休日は決まって家に居る。
だらだらと何をするでもなく惰眠を貪っている。
友達が居ないわけではない。
これは俺の主観ではあるが、友達はそれなりに多い方だとは思う。だけれど、休日の友人の誘いは悉く断っているため、相手が俺のことどう思っているか知らない。これでも一応誘ってくれた相手を慮って、すごく遠まわしに角が立たない物言いで断っているのだが、もしかしたら俺が友人だと認識している相手は、すでに全員俺に愛想を尽かしてしまっているかも知れない。誘いを断る理由も大して見当たらないのに適当な嘘を吐いて相手を言い包めてるのだから、それは控え目に言って最低の行為だ。嫌われたら、まあ、それならそれでいい。甘んじて受け入れよう。
だって、それが俺という人間なのだ。別に犯罪を犯してる訳でもないのだから、この性根を一体誰が誰に咎められようか?
浅田理久人は十七年前の八月九日にこの街唯一の大学病院で産まれ、ごく一般的な家庭環境で育ち、二年後の九月八日に妹が誕生した。勉学は人並み以下で運動が大嫌い。自宅をなによりも愛し、人間関係はのらりくらりとやっている。血液型はO型。好きな食べ物はたくあん。嫌いな食べ物はキュウリ。趣味呼べる趣味はない。
と、まあ思いつく限りに羅列してみたけれど、この通り、俺は自分という人間を十全に理解していて、誰かに自分という人間を理解させろと言われれば、微に入り細を穿つ説明で自己情報を他者に提供できる。こんなこと人に威張れる事ではない極々当たり前の話かもしれないが、実際の所どうなのだろう? よく大学生が就職活動に向けて面接の練習をしたりするという話を聞くが、世の中、自分を相手に理解させる行為を不得手と感じる人間も少なからず存在するのだろか?いや、待て。
就職活動なんてのは、まったく別の話だ。
あれは面接官にどれだけいい印象を与えるか、どれだけ自分が会社に役立つ人材で与えるかを伝える場であって、決して自分の人格を理解してもらう場所ではないのだ。
つまり自分を語る場所ではなく、騙る場所だ。
まあ、こんな言葉遊びみたいなことを言っていると往々にして妹に『捻くれ者』と揶揄される俺だが、事実は事実。仕方あるまい。
仮に俺が就職面接で自己紹介をする場に直面したとして、『自分は朝寝坊をよくします』『忘れ物が多く、物覚えも悪いです』『多少の虚言癖があります』なんて赤裸々に語ってみろ、面接官は自分のことを棒にも箸にも掛からない人間だと決め付けるに決まっている。俺は一生食いっぱぐれだ。
社会はそんな愚直な人間を求めていないのだ。
求めているのは聡明な人間。
醜悪な自分を清廉な人間であるかのように演じられるクレバーな人間なのだ。そして、自分を偽り演技することに躊躇いを持たない、つまりは眉一つ動かさず嘘を吐ける人間だ。
そういう意味では――俺は少しずつ社会に適合しているのかもしれない。
俺はさっき言ったように友人に対して自分を偽っている。それも一度ではなく何度も何度も。そして当初は嘘を吐く度に馬鹿正直に感じていた罪悪感は、嘘を重ねた回数に比例してどんどんと希薄なってきている気がする。
だったら、その心が鈍化していく過程を“青春”と呼ぶのだろうか?
大人になるというのは、そんなどうしようもない程の人間的行為の連続なのだろうか?
解らないな――
だけれど、俺の身体は望む望まざる関係なしに時間の経過と共に成長していて、この脳みそには必要不必要に限らず、知識と経験はどんどんと詰め込まれていく。そして俺はいつだって自分の足先に線を引いて、その線の向こう側に何かの間違いで飛び越えてしまわないよう細心の注意を払っている。回りくどい言い回しをなしにすれば、その“線“とは自分の“限界”の事だ。
俺は自分に関する、ありとあらゆる事象をコントロール出来る範囲に留めておきたかった。許容範囲から逸脱することを絶対に許したくなかった。友人たちとの関わりを必要最低限にセーブするのも、学校で部活動に取り組んでいないないのも、結局はその作業の一環なのだ。
その成果なのかなんなのか、他に遠因となりうる何かがあったのか不明だが、だけども確かに――今こうして実感する。
俺は大人の階段を着実に昇っている。
昔、それもそう遠くない昔、あえて明言するのなら三年程前、俺はここまで器用に生きていなかった。あの頃は、とても些細な事でいつも傷付いていたし、自分の意に沿わない事や、理不尽な出来事に毎日憤っていた。
生き辛いと感じた事もしばしばあった。
だからこそ、その苦衷の中で、失敗と後悔の連続の中で――
“線”を引いたのだ。
“限界”を見定めることにしたのだ。
これは諦観ではない。ましてや達観でもない。
これは俺が自分らしく、浅田理久人らしく生きるために編み出した処世術なのだ。実際、その“線”を意識しだした頃から俺の生活は劇的に変化した。あれほど心を圧迫していた日常生活においてのストレス、その一切を感じなくなったのだ。
俺はきっと俺は死ぬまでこの線の内側、安全圏の中で、ストレスフリーな時間を過ごし、その生涯を終えるのだろう、とそんな事を悠々と考えていた。
だけど――
それでも人生というのは、それほど簡単なモノではないらしい。
人の心は奇怪で、自分が想像している程に単純で明快な造りはしていなかったのだ。それなのに、俺はそのすべてを理解した気でいた。その自分の高慢さが今では恥ずかしい。
どうして俺は好奇心も野心もないのに、“外の世界に必要ない“と自覚しているのに。どうしてこんなにも――
遠くへ行きたい――
此処ではない何処か遠くへ――
そんな荒唐無稽な想いに駆られるだろう?
この端無くも胸を捕えた感情の正体は一体なんなのだろう?
この感情を自分自身で知覚したのは一週間程前だ。それは突然、振って沸いたように心に現れた。特に印象に残る出来事があった訳ではない。その瞬間に自分が何をしていたのかも、朝だったのか昼だったのか夜だったのかも、それすら憶えていない。
だけど、それでも、その瞬間に焼き付けられた衝動が、今も俺の思考の大半を専有している。
授業中、窓の外をぼんやりと眺めながら――
帰り道、薄暮の空に浮かぶ大きな月の下で――
就寝時、床に就き、限りなく暗闇と同化した状態で――
ふとした拍子に想い焦がれるのだった。
もしこの考えを誰かにしてしまえば、恐らく大抵の人間は『まったく子供みたいだ』と、俺を嘲笑の的にするだろう。まったくその通りである。異論は一つ足りともない。まったく馬鹿げた考えだ、と我ながらに思う。これじゃ大人の階段を昇っているつもりが、逆に幼児退行してるじゃないか。そもそも俺はあの時なにがあっても“線“の外側には立ち入らないと胸に固く誓ったんじゃないのか? 自分の人生には概ね満足しているはずじゃなかったのか? それなのに自ら愚行を犯す理由がどこにある?
いや、ない。
一つたりともない。正当な理由など一つも――
俺は纏わりつく衝動を断ち切るように自分に言い聞かせた。
そして、なんだか妙に納得してしまった。
ああ、そうか。だからか――
だから俺は弾き出されてしまったのだ。
“線”の外側に――
ほんと無様もいいところだ。
うだうだとし前口上はここまでだ。長くなってしまったが、そろそろ語り始めようじゃないか。
豈図らんや自分の限界の――
いや。
そのもっと遥か先の、常識の外側まで突き飛ばされた哀れな男の物語を。
俺、浅田理久人の物語を。
ゴールデンウィークの初日――
俺は人間を辞めた。
トランサーズ――超越者たち―― 岡崎タタ @tata0324
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