75. わたしは

「……」


 ルピオネが去ってからも、手塩と麗華はしばらく土下座を崩さずにいた。


「二人とも、もうやめろ! いつまでもあんな奴に頭下げなくていいだろ!」

「そう、ですね……」


 理里の怒鳴り声で、ようやく彼らは頭を起こした。


「なんなんだあいつは……あんな奴が英雄でいいのか!」

「仕方ありません。神々の戦力という意味での英雄に、人格は関係しませんから」


 そう言った手塩の瞳は、魂が抜けたように虚ろだった。


「英雄とは、神々の戦士として認められた者を指す"称号"にすぎない。人を救うだとか、正義を守るだとか、そんな幻想とは無縁の存在。"英雄"とは、すなわち神々の私兵にすぎないのです」

「なっ……」


 憤慨する理里に、手塩は生気のない表情で語る。


「我々は、オリュンポスの神々には逆らえない。あの時代のギリシアに生まれた時点で、それは決まったことだったのだ。一度信仰すれば神々は裏切りを許さない……そして、神の使いに対してもそれは同じ」

「……うむ」


 麗華が、手塩の言葉にうなずいた。


わらわたちは、ギリシャの民。オリンポス十二神の信奉者……生まれたときからそうであった。

 人の魂は、自らが信じる神の治める冥府へと赴く。一度死してハデス神の治める冥府に至った時点で、我らの魂は神々の傀儡なのだ」

「なんだよ……なんだよ、それ」


 あぜんとする理里に、麗華は続ける。


「英雄の任命にしてもそうだ。通常の魂は輪廻の輪の上に乗り、転生を繰り返すものだが……妾たちは違う。神々によって、『英雄』と魂なのだ。無論『英雄』になるかどうかには拒否権が存在するが……己が信じる神の与える栄誉を、拒否できる者がどこにいる?」

「そんな……それじゃまるで、英雄ってのは……」


 奴隷。

 都合よく使われる、神の殺し屋。ていのいい傭兵じゃないか。そう理里が言うと、手塩は苦笑した。


「いいえ? 我々はそうは考えない。たとえ実際がどうであろうと、これは栄誉に違いないのだ。神々から直々に称号を授けられ、神々のために戦えるなど……子々孫々に称えられて余りある、これ以上ない誉れだ」

「バカな……それじゃ、あんたたちは……!」


 いつまでたっても、自由になれないじゃないか。普通の魂が得られるはずの、自由な生を謳歌できないじゃないか。

 理里がそう言おうとしたとき、


「っ……やめるのだ、怪原かいはら理里りさと……」


 卜部うらべ籠愛ろうあいが……ヒッポノオスが、声をあげた。


「籠愛ちゃん! ダメだよ喋っちゃ!」


 すぐさま麗華が彼を支えるが、彼は右手でそれを制した……左手で、腹に空いた穴をおさえながら。


「わたしたちは真に自分たちの意思で、この使命に臨んでいるのだ……テセウスの言葉は偽りではない。わたしは、途中で脱落してしまったが……ごほっ!」


 籠愛が、大量の血を吐いた。顔は青く、もはや命は風前の灯火。


「やめて、もうしゃべらないで! それ以上は、痛みが……」

「……構いません。我々は彼に、全てを伝える必要がある……我々がどのような思いで、あなたたちと戦っているのか。なぜ『英雄』としての責務を、命を賭して全うしようとするのか。わたしは半端者だが……わたしのような人間を出してしまったわれわれの再確認の意味でも、わたしが、語らなければ」


 そう言うと、籠愛は理里をしっかと見据えた。


「……いいですか。我々は『正しい神』を信じるのではない。われわれは、『神が正しい』から信じるのだ。神が正しいおこないをするから信じるのだ。

 時には、神々が過ちを犯すこともある。神々とて生き物だからだ。だが、彼らが向かっている方向は常に正しい。神々は信じる者を守り、加護してくださる。そして世界の脅威たる魔神を討伐するため、今も全力を尽くしてその行方を捜している。これが正義でなくて何なのだ? 彼らは彼らにしかできぬ、『高貴なる者の使命ノブレス・オブリージュ』を果たしているのだ」


 籠愛は語る。最期の力を振り絞って、語る。


「我らの神への忠義は消えない! たとえそれがどれほど過酷な運命であろうとも、我らは笑ってそれを乗り越えよう!

 覚悟するがいい、魔神の仔よ……我らは必ずおまえたちを打倒する! 待っているぞ邪眼の蜥蜴よ……わたしと同じ深淵にて、神の裁きを受けよう――ごはあっ!!」


 再び、籠愛が血を吐いた。内臓が飛び出しそうなほど大きな咳だ。


「ヒッポノオス、やめるのだ! それ以上は!」


 手塩が駆け寄り、彼の右手を握った。麗華も、腹を押さえた彼の手に両手を重ねている。

 その二人の間で、籠愛は。



「ああ……わたしは、なんという幸せものだ……」




 笑っていた。

 これ以上ない笑顔で、目に涙を浮かべて、笑っていた。




「この世で最高の英雄と、最高の女性に看取られて命を終えられる……これほどの幸福があろうか! わたしのような裏切り者には、本当にもったいない……」

「もったいなくなんかないよっ!」


 麗華が、泣き叫ぶ。


「ローちゃんはがんばったよ! 必死に、じぶんなりにがんばったんだよ! ただ、その方向を間違えてしまっただけ……あなたの人生は、あまりに悲しすぎたから!」

「そうです……」


 手塩が涙を落としながら、籠愛の手を両手で包んだ。


「あなたの前世は、あまりに悲惨すぎた……むしろ、今まで英雄として戦えていたのが奇跡だ。わたしなら到底、耐えられなかった」

「いいえ……あなたなら、耐えましたよ」


 そう言って、籠愛は手塩に、笑い顔を向ける。


「わたしの信じるテセウス……あなたなら、きっと」

「……っ」


 手塩は一瞬、顔を背けた。だがすぐに、涙と鼻水まみれの顔で彼に向き直った。その末期の表情を一瞬も見逃すものかと、彼の顔を凝視していた。


「テセウス、そして女王陛下。本当にすまなかった……そして、ありがとう。あなたがたの努力のおかげで、私は最高の旅立ちを得られる!

 ああ、本当に……」


 籠愛は二人の英雄の顔を見渡し、最後に曇りに曇った灰色の空を見て。




「――生きていて、よかった!!」




 その言葉を残し、事切こときれた。

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