71. 夢幻のごとく
空の英雄が、敗北した。
そのことを、少し離れた中学校の屋上から確認した者たちがいる。
「よし、『風の結界』が消え去った! ゆくぞヘビ
「ヘビ娘ゆーな! 我にはれっきとした
黒髪の、すらっとした女。その脇に抱えられてわめくのは、左目に黒い星のペイントをした少女。
「貴様があんなところに隠れていなければ、もっと早く見つけられたものを。どうして空気ダクトの中にいたのだ」
「う、うるさい! こういう非常時の脱出に使うのは、天井のダクトと相場が決まっておろう!」
「そこも結局凍っていたがな。おまけに出られなくなり、泣いていたのはどこのどいつだ」
「うるさいうるさいうるさーい! ……はっくしゅん!」
じたばたと暴れつつ、吹羅は大きなくしゃみをした。凍ったダクトの中で長時間寝そべっていたのだ、当然である。
「……しかしまあ、そろそろ時間も無さそうだ。さっさと行くぞ、ヘビ娘」
「あっ、貴様また……どへえ!?」
轟音。屋上のセメントと氷が砕け散り、砲弾のように素早い影が、膨張をつづける蒼炎の獅子に向かって跳ぶ。
「くぁwせdrftgyふじこlp」
吹羅の顔面に、おそろしい勢いで雪が吹きつけてくる。目を開けていられない。二度目のマッハ体験だ。
「よし、投げるぞ!」
「ヴェッ!?」
言葉にならない声をあげた瞬間。吹羅は勢いよく、前方に投げ飛ばされた。
「どっしぇええええええええええええええええええええええええええ!?!?!?!?!?!? アタランテきさま、末代までたたってやるからなああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
☆
(だめ……も、もう……)
炎の獅子の心臓。氷でできたその臓器の中、少女は――
見知らぬ英雄が、助けようとしてくれた。あの天敵を、どうにか
そして……
……だけど。
(もう、だめ……おさえ、きれない……)
あのひとがきてくれた一瞬、綺羅の心は少し安らいだ。だが、天敵によって極限まで高められた恐怖のエネルギーはもはや消えない。
決壊、してしまう。あのひとを巻き添えに、世界をほろぼしてしまう。
(やだ……そんなの、ぜったい……)
嫌だった。
綺羅は人間が好きだ。
人間の世界が好きだ。
世界のどこかでは、苦しんでいる人もいるのだろう。陰惨な、悲劇ばかりの掃き溜めもあるのだろう。だが、少なくとも綺羅が今見ている世界は美しい。彼女がいるこの場所はどうにか平和だ。あのひとと平和でしあわせな日々を過ごすことができる。一か所でもそんな場所を生み出してくれた人間が、綺羅はすきだった。この場所で、ずっとあのひとと暮らしていたかった。その理想郷を、自分の手で壊してしまいたくなかった。
(どうにか、とまって……とまって、よう……)
泣いていた。
嗚咽が漏れる。
『青い炎』はとまらない。それは嘔吐のように、あるいは発汗のように、綺羅の意思にかかわりなく溢れつづける。目から、喉から、皮膚から、身体のありとあらゆる隙間からとめどなく流れ出し、氷の大動脈から獅子の全身に送り出されていく。
全身が痛い。これ以上吐きたくない、と肉体が悲鳴をあげている。だけど、心が止まらない。衝動のまま、炎の身体が膨張していく。
(もう、だめ……!)
糸が、切れる。理性の壁が崩れる。必死に押しとどめていた炎の波が、解き放たれる。
(やめてええええええええええええええええええ!!!!!!!)
そう、綺羅が泣き叫んだ時――
――氷が、砕けた。
(……え?)
綺羅を閉じ込める氷。彼女の四肢を氷漬けにし、獅子の心臓と同化させている氷。その、彼女の正面部分が砕け散った。
ありえない。
『青い炎の獅子』の心臓は、分厚い氷でできている。それは籠愛の『空気の刃』すら通さない強固なもの。
おまけに多少傷がついたくらいでは、心臓は瞬時に周辺の『青い炎』で再生する。そもそも心臓に至る前にたいていのものは凍らされ、循環する炎によって体外へ出されてしまうはず……。
が、それも『青い炎』があるからの話。
「どひえぇ!!」
すっとんきょうな叫び声をあげて、砕けた氷の中から何かが飛び出した。それはまっすぐ綺羅のほうに飛んできたかと思うと、そのまま綺羅に抱きついた。
「ぎょわああああ、冷たあああああ!!!!!! って、周りじゅう氷だらけではないか!!!!」
ぱっ、とすぐさま手を離す騒がしい人影。ばちばちと
黒い星の、ペインティング。
「ひゅ……ら……!?」
「……む? なななななんと、我が
霜の降りたセーラー服、紺のスカートを振り乱し。吹羅は綺羅に駆け寄ろうとする……が。
「……おわっとと!?」
氷の床が、傾く。
転んだ吹羅はずるずると床を滑って、そのまま綺羅のほうへと向かい……彼女のすぐ右横の壁にぶつかる。
と、次の瞬間……ふたりの身体を襲う浮遊感。
「おち……てる……!?」
「のわあああああああああああ!? つぎからつぎへと、いったいなんなのだあああああああああああ!!!!!!」
☆
青い炎が、消えてゆく。
熟しきった柿のようにふくらみ、破裂寸前だった獅子の巨体が、吹き飛ばされる霧のように消えてゆく。夢幻の写し身が、もとの
その様子を、
寝ぼけまなこの
凍った民家に安置された、傷だらけの
死んだと見せかけ反撃の機会をうかがっていた
意識を取り戻した桃色髪の少女も。
黒髪を雪風になびかせる
玄関に陣取り、家族の帰りを待つ
そして――墜落する
皆が、幻影の獅子が消えゆくのを、えもいわれぬ心持ちで眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます