67. 分かってたんだ

「……ぅ……」


 怪原理里は、目を覚ました。


(なん、だ……ここは、どこだ……?)


 固く、冷たいものが背中に触れている。氷の上だ。

 空も見える。曇っている。雪が、これでもかと降っている。だが、周りに建物は無さそうだ。ならば――


 が。それを考えるより先に、身体にのしかかった「重み」が彼を押しつぶす。


(うっ……重い)


 あまりの重さに、視線を腹の上に向ける。すると、その「重み」の正体がすぐに判った。


「す……ひあ……?」


 翼。


 まず目に入ったのは、その惨状だった。

 白い羽根はささくれ、赤く染まっている。巨大な、身の丈ほどもあった翼が、ぼろぼろになっている。まるで花嫁衣装のようだったそれが、数千年前のミイラをくるんでいたぼろ布のようにみすぼらしく変わっている。

 続いて、髪。つやが無い。何時間も風にさらされたように、ぼさぼさになっている。ところどころ、不自然に切られてもいる。


 髪の黒……それにつづいて、目を刺激したのは「赤」。


「こ……れは……!」


 珠飛亜の肩口が、ぱっくりと裂けている。そこから、滝のように血が流れ、理里のブラウスまで赤く染めていた。


「っ、早く手当を……!」


 そう思い、理里はすぐに珠飛亜の身体をどかす……と、



 ずしゃっ。



 鈍い音がした。液体が、飛び散る音が。



(なんだ……なんだよ、これ)



 珠飛亜の身体は、ほとんどが真っ赤に染まっていた。

 原因は、身体中に存在する切り傷……否、斬り傷から流れ出た血。皮膚の表面が軽く切れたような、生易しいものではない。苺タルトの断面のように、二の腕や太腿、脇腹、その「内部」が痛々しく露出している。


「こんな……いったい、誰が……!」


 このようにむごいことを。誰が。


 誰だ? 誰だ? 誰だ?


 綺羅の炎は凍らせることしかできない鎧かあいつは沈黙した誰だ蘭子さんが俺を裏切ったのか騙してたのか彼女の爪にしては切り口が綺麗すぎる誰だ英雄の誰かか手塩かあいつがそんなわけないでもあいつは一度珠飛亜を裏切ってるあいつはそんなことしない他の英雄かピンクのツインテールか長髪ノッポの方かでも手塩は剣を持ってた誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ――――――



「…………止血、しないと」



 ぐっ、と混乱を飲み込む。姉の血で紅く染まった自分のブラウスを脱ぎ、包帯のサイズに千切りはじめる。

 間に合うか? そんなことはどうでもいい。ただ、目の前で死に瀕している彼女を、放ってはおけなかった。



(……放っておけない? なぜ?)



 ブラウスを裂きかけた理里の手が、止まる。


 理里は珠飛亜と決別した。もう二度と面倒を見ないと告げた。ならば、なぜ助ける必要があるのだ?

 珠飛亜がなぜこんな傷を負ったのか? 何か理由があったとしても、それはこの女の自己責任ではないか。この女は、ずっと理里を苦しめてきた。珠飛亜のせいで、理里は今までの学生生活を潰されたも同然だ。彼女が卒業してもシスコンと蔑まれ、誰も、誰も、彼に手を差し伸べてはくれなかった。仲良くなろうとはしてくれなかった。悲しかった。寂しかった。全てこの女のせいなのだ。もう、あんな思いはごめんだ。


 なのに、なぜ。



「……なんで……なんで俺は、泣いてるんだよう」



 ぼろぼろと。一粒、二粒。ビー玉のような涙で、視界がくもる。



「こいつの……こいつのせいなのに……なんで、なんでだよう」



 わからない。頭では泣いてはいけないとわかっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。


 ……いや。


「わかってる……ほんとは、わかってんだよ、なんでかなんて……」


 分かっていた。

 ぜんぶ、分かっていた。


 珠飛亜がこれほどの重傷なのに、なぜ理里は傷一つ負っていないのか。簡単だ。その理由の推測は、あまりにも簡単だ。

 珠飛亜が、理里をかばったのだ。


「なんで……なんで俺なんか、助けるんだよう……俺は、あんなに、ひどいこと言ったのに……いつも、いつも、ひどいこと言うのに……一番、よわいのに……なんでおれなんか、たすけてくれるんだよう……」


 言った。二度と近寄るなと。

 言った。連れて帰られるくらいなら、死んだ方がましだと。


 なのに、彼女は理里を守った。理里がどれだけ突き放しても、手を伸ばしてくれた。身を挺して、かばってくれた。自分が、こんなひどい傷を負おうとも。


「わかってた……ぜんぶ、わかってたんだよ……おれのわがままだって……」


 彼女のせいで孤独だった? 確かに、そういう一面はあるだろう。だが、友達を作ろうという努力もしなかったのは誰だ? 才色兼備の学園一のマドンナ、その弟。その立場に甘んじて、ただ、差し伸べられる手をずっと待っていただけの男は誰だ?


 理里だ。


 そんなどうしようもない自分と、珠飛亜はいつも一緒にいてくれた。一人では何もできない、何の才覚もない男に、すべてを与えてくれた。いつだって愛してくれた。だから、ともだちがいなくても、さみしくなんてなかった。

 本当に彼女のことが嫌いだったなら、同じ高校に入ったりなどしていない。シスコン扱いされるのはもううんざりだ。だが、ほんとうは誇らしくもあったのだ。同級生には顰蹙ひんしゅくを買っていた理里だが、教師や上級生には、姉のすばらしい評判を聞かされることがあった。「あの怪原さんの弟くん?」「お姉さん、ほんっっっと美人だよね!」「スポーツも勉強も万能で、言うことなしだよね!」「あんなお姉ちゃんがいて、うらやましいなぁ」……そんな姉への称賛を聞く度に、鼻が高かった。

 実のところ、理里はクラスで孤立していたが、いじめを受けたことは一度もなかった。それは、彼の「凄み」も原因だが、本当は姉の評判によるところが大きいのだ。文武両道・才色兼備で学校一番の美少女の"弟"。その立場によって、守られていたのだ。


「ごめん……ごめんよう……おれがぜんぶ、わるかったよう……

 だから……目を、あけてくれよ。いつもみたいに笑って、おきあがってきてくれよう……」


 ぼろぼろと、涙が止まらない。ぬぐってもぬぐっても、湧き水のようにあふれてくる。

 いくら時が経ってもそれは止まず。珠飛亜の顔色が、ついに蒼白から土気色になりはじめた時――理里は、肩を叩かれた。


「何をしている。早く、手当てをしなさい……ごふっ」


 続いて。吐き出されたぬるっとした液体が、理里の背中を濡らした。


「手塩……せんぱい……!?」


 理里が振り返ると。

 筋肉質な裸の男……手塩が、口から血を垂らしてひざまずいていた。

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