40.White Day



 さて……その頃、「救世主」たる怪原家かいはらけの次女は何をしていたのかというと。


教諭きょうゆっ! 松本まつもと教諭っ! 大丈夫ですかっ!」


 理里の教室と同じように凍りついた教室。その床で、固く、冷たくなった老教師の身体を、ゆさゆさと揺すっていた。

 柚葉市立第二中学校、その2階の空き教室。数学の居残りテストが行われていたこの場所もまた、青い炎の手を逃れることはできなかった。

 柚葉高校の生徒会室や、理里の教室とは違い、この教室の窓は閉まっていた。しかしながら炎は侵入してきた。なぜか。


 それは、窓際の天井近くに設置された換気扇が原因である。また、ベランダに出る引き戸の隙間や、窓の開閉部分のほんの小さな隙間。少しでも隙があれば、「青い炎」はどこにでも侵入する。

 結果、炎は室内を蹂躙じゅうりんし。ただひとり再テストを受験していた吹羅ひゅらと、その試験官を務めていた松本まつもとひろし教諭を餌食えじきとした。


 もちろん、異能が通じない吹羅は無傷である。が、ただの人間である松本教諭はひとたまりもない。またたに痩せぎすの老体は冷気におかされ、冷凍ミイラもかくやのありさま。


「教諭、教諭……あっ」


 するっ。


 つるつると滑る氷の腕を、吹羅は勢い余って放してしまった。床に倒れた松本教諭の身体に、「びしっ」という亀裂音。


「……も、もしやわれ……致命的なことをやってしまったのでは……」


 恐る恐る、吹羅が教諭の身体を起こそうと身をかがめると。



 ばきっ。



 禿頭とくとうの、しわだらけの顔に大きな亀裂が入った。



「ぎゃ――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 我知らない我知らない我知ーらーなーいー!!!!!!!!!!!!!!」



 凍ったドアを蹴破けやぶり、一目散に逃げ出す吹羅だった。





「やれやれ……なんだってんだ、いきなりよう」


 怪原希瑠は、キッチンの隅であぐらを掻いていた。

 視界を染めるのは、氷の白。怪原家もまた、青い炎の侵略を逃れることは叶わなかった。

 家の隙間どうこうの問題ではなく、怪原家の家屋内に異能による干渉が行われることは、基本的には有り得ない。により、この家は守られているからだ。


 しかしながら、その『防護』をすり抜ける条件がいくつかある。ひとつは、異能を超える力が怪原家を攻撃した場合 (アリスタイオスの"権能"はこれにあたる)。そしてひとつは……『怪原家の家族による干渉』の場合。家主やぬしを家屋から締め出してしまう防壁など、使い物にはならない。

 つまり、神の血を引く者か、怪原家の家族でなければ、この家に干渉することはできないはずなのだ。

 が――


「ギリシャ神話に、『氷の権能を持つ神』は存在しねえ。冥界の神であるハデスや、『全能』のゼウスなんかはそうと言えるかもしれねえが……奴らが、直接この家を攻撃してくることは考えにくい。……それに加えて、この『青い炎』。こりゃあ、間違いなさそうだな……」


 はあ、と希瑠は溜め息をつく。

 そこに……ふいにかけられる、遠慮がちな吐息といきじりの声。


「あの……けーくん。そろそろ、離してもらっていいかしら」


 恵奈だ。長身の希瑠より少し小さく、それでいてかなりその身体は、希瑠の細い右腕に抱き寄せられていた。


「おっと、悪ィ。胸の巨大マシュマロ×2と、二の腕のぷにぷに感が気持ち良くてつい……」

「殺すわよ?」


 その台詞せりふが放たれたときには、すでに恵奈の鉄拳が希瑠の脳天を叩き壊している。


「ひどい、ひどすぎる……命の恩犬おんけんに……」


 希瑠が鼻血を流して倒れた床は、氷に覆われていない。彼と恵奈の居るキッチンの周りには、銀色の炎のようなゆらぎが、円を描いている。


 "楽園の王ロードオブシャングリラ"。青い炎がこの家を襲った瞬間に、恵奈とふたりで食器を洗っていた希瑠は、とっさに異能力を発動し、物質の状態じょうたい変化へんかを停止させる『法』を結界内に定めた。結果、極低温の炎は彼らを襲ったものの、空気中の水蒸気や希瑠たちの身体の水分を凍結させることは無く、希瑠の結界内だけは凍らされずに済んだのだ。低温に対しては彼らの肉体はそれなりにタフなので、低体温症の心配も無い。怖いのは細胞そのものの凍結による死だけだ。

 希瑠の迅速じんそくな対応が無ければ恵奈は凍死していた。恵奈が助かったのは希瑠のお陰に違いない、のだが……。


「それとこれとは別の話よ。おんな逆鱗げきりんに触れられたら、どんな恩義おんぎも一瞬で消し飛ぶわ」


 ふん、と鼻を鳴らして恵奈は腕を組む。持ち上がったエプロンの向こうのふくらみを希瑠は盗み見たが、すぐに顔面を踏んづけられた。


「まったく、母親のおっぱいなんて見て何が良いのよ」

「母親のでもおっぱいはおっぱいだろ……ぐげ」


 呆れた恵奈の足が、さらに希瑠の顔にめり込む。

 満足に口も動かせない状態のまま、希瑠は恵奈に問うた。


「……? ごぇがあこれからどーしゅんらよどーすんだよあえはぎあなんだおあれは綺羅なんだろ

「ん……確かに、それはそうだと思うのだけれど」


 恵奈はぐりぐりと希瑠の顔を踏みにじりながら、ななうえを向いて黙考もっこうする。


じょっちょっひゃにゃはなひゃながちゅぶえうはながつぶれる!」


 悲鳴を上げる希瑠を意にも介さず、恵奈は思考を巡らせ。


「……とりあえず、りーくんたちと連絡を取りましょうか」


 そう言うと恵奈は、白いTシャツの胸元に手を突っ込み。胸の谷間から、スマートフォンを取り出した。


 が。


「あら……圏外だわ」


 画面の左上。普段Wi-Fiか4G回線のマークが示されているそこには、その漢字二文字しか浮かんでいない。


「ちっ……電線も無線基地局もやられちまったらしいな」


 ようやく足を放された希瑠が、寝転がったまま悪態をつく。彼の口から出た聞きなれない言葉に、恵奈は首をかしげた。


「無線基地局?」


 唇に人差し指の先を当てて問う恵奈に、希瑠はけだるげな表情で説明した。


「そう。4G回線とかのケータイの電波ってのは、一定の距離ごとに設置されている、『無線基地局』ってのを介して飛ばされているんだ。それがやられちまったら、通話も何もできたもんじゃねえよ。Wi-Fiは電線から、そこの電話のところにあるモデム、さらにケーブルで繋がったルーターを通して来てるから、その辺りがやられちまったら届かねえ。無線機なんかは、それ自体に電波を飛ばすアンテナがついてるから大丈夫だけどな」

「ふうん……そういう仕組みなのね」


 得心とくしんがいったらしい恵奈は、うんうんとうなずいた。


「そう。それじゃ、りーくんやひゅーちゃんとは今、連絡が取れないってこと……困ったわね」

「……ああ」


 希瑠もしぶい顔をする。

 災害時にも近い、この状況で理里たちと連絡が取れないのは痛い。安否確認もできないし、何より事態への対処に遅れが生じる。

 得体の知れぬ英雄や、ゼウスなどの神々が原因であるという可能性もある。その場合は戦う準備をしなくてはならないし、綺羅が原因であるのなら、家族の責任として、止める計画を立てなくてはならない。


「ひとまず、誰かが帰って来るまでは、2人ともこの場に待機、ってのが良さそうだな……」


 希瑠は結界で『青い炎』を無力化できるが、恵奈は『青い炎』に対してなすすべがない。仮に、2人の片方を留守番に置いて、もうひとりを捜索に出したとして……あの炎がふたたび襲ってきた場合に、恵奈は捜索役であろうが留守番役であろうが、無抵抗で凍らされてしまう。現状は凍結を無効化する希瑠の結界の中で、誰かが戻ってくる可能性が最も高いこの場所に2人とも残っているのが、得策と言わざるを得ない。


「そうねえ……それが最も安全、だとは思うけど」

「……けど?」


 含みのある言い方をした恵奈に、希瑠は目くじらを立てた。


「まさか母さん……理里たちを探しに行くつもりじゃないだろうな」

「あら、お分かり?」


 恵奈は照れ臭そうに笑う。が、希瑠はそんな軽い調子にはなれなかった。


「馬鹿も休み休み言えよ! あの『青い炎』に触れたら、母さんは一発で凍らされちまうんだぞ!」


 いつになく真剣な面差おもざしで、希瑠は声を荒げる。それは、母の身をしんに案じているがゆえの怒りだった。

 希瑠は長男。それは、恵奈の初めての子であり、恵奈を最も長く見てきた子だということ。父が行方をくらました後、恵奈がどれほど苦労したのか。女手一つで子ども六人を育てるのにどれだけ苦労してきたか。希瑠は、全て知っている。

 それゆえに絆も強い。恵奈にかける希瑠の愛情は、兄妹の中でも際立ったものがある。


「母さんをみすみす、死に向かわせるようなことなんて、俺にはできねえよ! しかもだ……もしこの『炎』の発生源が綺羅だったとしたら、綺羅は自分の母親を傷つけ、殺しちまうことになるんだぞ! それでもいいのかよ!」


 希瑠はすでに立ち上がっていた。181センチの母よりほんの少し上の視点から、彼は母にいかった。

 だが。恵奈の笑みは崩れない。


「そうね……けーくんの言うとおりだわ。ほんとうに、ぜんぶ、そのとおりだと思う」

「だったらなんでだ!」


 叫ぶ希瑠はうずくまる。強い力で床を殴ると、フローリングにヒビが入って木片がはじけ飛んだ。

 そんな彼を――ふわ、と包む


「あなたのこと、愛してるわ。だから、あなたの気持ちもわかる。

 だけど……わたしは、あなただけの母親じゃないから」


 抱擁ほうようする恵奈のかおは、やはり笑顔だった。しかし、それはどこか哀愁をたたえていた。


「もしもあの子たちが、どこかで苦しんでいたら……閉じ込められて、寒さに凍えていたら。そう考えるとお母さん、いてもたってもいられないの。手を、差し伸べてあげたいの」


 それは"慈愛"の笑み。我が子を愛する母親の、これ以上ない愛の発露はつろ


 しかしそれを達成するためには、今目の前の子から、離れなくてはならない。「離れたくない」と願う子の前から、立ち去らなくてはならない。それが、彼女にとっては苦しかった。


「……行かせねえぞ。俺は……俺は、『母さんを守ってくれ』って、父さんに……」


 希瑠が、恵奈のからだを強く抱きしめる。その白い髪を、恵奈は優しくでた。


「……大丈夫よ、いざとなったら飛んで逃げるから。お母さん、成層圏せいそうけんあたりまでは余裕に行けるし? "暗神の瞳トパーズ・オブ・ハン"もあるから、滅多めったなことでは死なないわよ」


 希瑠を安心させるような、明るい声で恵奈は微笑み。彼の背に絡ませた腕を解いて、一歩退しりぞいた。


「……帰って来なかったら、承知しねえからな。父さんが悲しむ」


 浮かない顔でぼそぼそとつぶやいた希瑠に、恵奈は微笑んで。


「……大丈夫よ。大丈夫。ちょっとそこまで、出てくるだけだから」


 身体を半人半蛇のものへと変化させ。彼女はのたくる尾で床を蹴り、リビングの窓を突き破って飛び立っていった。


 穴の開いた窓から、空を見上げて。小さくなっていく母の背中を、希瑠はいつまでも見つめていた。


「……ごめん、父さん。また、俺は……」





「はあっ、はあっ、はあっ」


 凍った校舎の廊下に、白い息がもやを作る。駆け足が床を蹴るたびに、そこを覆っていた氷はみるみる溶けて、ぱしゃぱしゃ、と水しぶきが立つ。


「ど、どういうことなの、りーくんっ!? 急に走りだしてっ」


 前を行く理里に珠飛亜が問う。

 吹羅を探しに行こう、と決意したのもつか。「そうだっ!」と何かを思いついたらしい理里が、突然教室を飛び出したのだ。慌てて後を追った珠飛亜が、理里が転ばないように氷を溶かしながら走っている、というありさまである。


「だから、に力を借りるんだよっ!」

「あの人、って、誰ぇ……」


 珠飛亜は息を切らしながら走る。だが、理里はそれ以上答えるようすはない。

 しかし……彼が向かっている方向に関しては、珠飛亜は心当たりがあった。

 渡り廊下を渡って南側へ。八角塔、3号棟を次々と通り抜けていく。その先にあるのは。


(2号棟と、わたしたち3年生の教室がある一号棟だけど……まさか、りーくん……)


 珠飛亜の心の中に、暗雲がたちこめるのだった。

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