19. Roar -咆哮-

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「へぇー。あの化け物ども、ずいぶん善戦してるみたいじゃん」


 柚葉山ゆずのはさん上空、三十メートルほどの高さの空中。春といえども強風が吹きすさぶそこに、翼の生えた白い馬が滞空たいくうしていた。


 その手綱たづなを握る、黒く長い髪の青年が、後ろで眼下の様子を見下ろす、ピンク色のツインテールの少女をたしなめる。


麗華れいかさん。そんなに身を乗り出すと、危ないですよ」


「えぇ~。だって見えないんだも~ん」


 双眼鏡を右手に持ち、くねくねと体をくねらせる、麗華とよばれた少女。その姿を横目で見た青年は、いささか顔を赤らめて前を向く。


「まったく、またあなたはそんなに肌を見せて……か、風邪をひきますよ」


 麗華が身にまとっているのは、肩と腹部を大きくあらわにした、緑色のニット生地のトップスと、白のホットパンツ。「♂」のマークをかたどった純金のバックルが目立つベルトが、ごてごてと輝いている。


 しかし……その露出度は、生真面目きまじめな青年には目の毒だったようだ。


「あら、籠愛ろうあいちゃん照れてるぅ? うふふ」


 ニヤ、と意地の悪い笑みを浮かべた麗華が、籠愛とよばれた青年の腰に抱きつく。


「……っ!」


「うふ……『英雄いろを好む』って言うけれど、うちのオトコどもはみ~んな硬派だよねぇ。イヤンなっちゃう」

「こ、困ります……!」


 はぁ、と耳にかかる温かい吐息。籠愛の背筋に、危険な悪寒おかんが走る。


 が……麗華はそれ以上手を出してこないようだった。眼下の滝道たきみち見遣みやり、色気の抜けた声で、籠愛に問うた。


「でもさー。このままじゃ蘭子ランちゃん、やばいんじゃない? やっぱり助けた方がいいんじゃないかなー」


「そ、そういうわけにはいきませんよ。蘭子らんこさんから、『何があっても手出しはするな』と言われているではありませんか」


 籠愛は内心、ホッとしながらも返す。


 しかし、麗華は不満げである。


「そうは言っても、5対1だよ? いくらランちゃんでも、さすがに全員相手じゃさ……」


「それが彼女の矜持きょうじなのです。、どんな卑劣な手を使われても、その全てを打ち破って勝利する……おそらくそこに、彼女の目的があるのではないでしょうか」


 籠愛は、蘭子の心を何となく理解していた。それは、同じ武人たるがゆえの共感のようなものであったかもしれない。


 彼の腰を抱いたまま、腑に落ちない顔の麗華は、眉根まゆねを寄せて空を見上げた。


「ふーん。ってやつぅ? ……なんかハブられた気分。よしっ♡」


 かぷ、と。濡れた八重歯が、籠愛の首筋を甘噛みする。


「なっ、なああ!?」


 籠愛が思わず手綱を放す。


 と、同時に。天馬てんまが息を荒げ、籠愛と麗華を振り落とそうとしはじめた。


「のわあっ!? ちょっと、ちゃんと制御しときなさいよっ!」

ダレのせいだとぉぉぉぉ!? あっ」


 ふわ。宙を舞う感覚が二人を包んだ。




 この後、かろうじて手綱を掴んだ籠愛と麗華は、数分ほど宙吊りの目に遭うこととなる。


 4月21日、この日。二人もの英雄が、戦わずして欠けていた可能性があったとは、怪原家の面々はついぞ知ることがなかった。





 ところ変わって、柚葉滝道ゆずのはたきみち。大滝までのコースも後半にさしかかった、杉が立ち並ぶ山の中。


 白く巨大な三つ首の犬が、黒いアスファルトの路面に、蘭子を踏み敷いていた。


『俺の大切な家族に、好き勝手してくれやがってよ。覚悟はできてんだろうなあ、アァ?』

「がっ……あ」


 蘭子の右腕を左前足、胸を右前足で押さえつけた、黒鎧こくがい纏いし三つ首の白犬びゃっけん……希瑠けるは、さらに蘭子に体重をかける。


「ごおっ……げぼっ」


 血を吐く蘭子に、希瑠は犬の頭蓋の兜からのぞく、冷たく紅い眼を光らせる。


『痛いか? だが、母さんはもっと痛かったんだぜ。

 異能力なんざ使うまでもねえ、このまま一気に潰してやるよ』


 ぐぐ、と前傾する巨犬。それに伴って、みしみしと地面がきしみ、細かいひび割れが入ってゆく。


 希瑠もまたいかっていた。弟と自分をさんざんに愚弄し、残酷な勝負を仕掛けたこの女に対し。


 だが、最も希瑠の堪忍袋かんにんぶくろの緒を、大きく削ったのは……蘭子のすぐそばに倒れている、母の傷ついた姿だった。


『俺は父さんに頼まれたんだよ。父さんが居ない間、母さんとみんなを守ってくれ、ってな。それをよ……そう、破るわけにはいかねえんだよ!』


 それは、自分への怒りであったかもしれない。母を傷つけた蘭子への怒りであると同時に、母を守れなかった自分への、怒り。


「ぐっ……あ、ハハァ……。絶体絶命、だなぁ……」


 蘭子が、笑っている。この期に及んでも笑っている。


『何が可笑おかしい!』


 希瑠が問うと。蘭子は、これ以上ないほどたのしそうな顔で、目を見開いた。


「可笑しくなどないさ。『楽しい』んだ。いまかつて、ここまでわたしを追い詰めた相手は居なかった……!」


 頭から血を流し。真っ赤に染まった顔で、なお。


 蘭子は笑っていた。まるで、とてつもなく欲しかったおもちゃをもらった子どものように、笑っていた。


「ようやく……ようやく全力で戦わなければならないところまで追い詰められた…………! これ以上の歓喜が! 幸福が! このわたしに存在するだろうか!」


 そう言うと蘭子は、唯一いた左手で、自身を踏みしめる巨犬の足を掴む。


『何ィ……!?』


 蘭子の行動に希瑠は、狼にも似たそのかおゆがませる。彼女の身体を押さえつける前足を、さらに強める。


『戯れ言を。てめえはもう引き際ジ・エンドだ……これ以上の出番なんてえんだよ!

 それでもなお、この現世うつしよの舞台で踊りてえっていうんなら……俺が叩き込んでやるよ、冥府という名の「舞台袖」になァ!』


 全体重。象よりもまだ巨大な彼の、6tにもおよぶそれを、ついに希瑠は全て前足に掛けた。


「ぐっ……お……」


 流石の蘭子も苦しいとみえる。当然だ、通常の生物はおろか、鋼の鎧でも容易に踏み潰すその「重み」。



 ――だが。



『何……だと…………?』


「ぐっ……おおおおおらああああああああああああっっっ!!!!!!」


 蘭子は潰れない。いや、それどころか、希瑠の巨体を押し戻している。身体は傷だらけで満身まんしん創痍そうい、しかも左手一本しか動かせない状態で、希瑠の重量にあらがっている。


 その肉体が……確かに、橙色だいだいいろに輝き始めたのを、希瑠は見た。


「私はッ、負けないッ! たとえ、どのような策をろうされようとも! どのような強者が立ちはだかろうとも! たとえ……


 どのような『恥辱ちじょくの姿』を、さらすこととなったとしても!!!!」


 それは、光景だった。ヒトが、まぎれもない人間が、人ならざるものへと変生へんせいしてゆく。生まれ変わってゆく。


 スマートで筋肉隆々、血管の浮かぶ蘭子の腕から、徐々に、金色の毛が伸び始める。蘭子の両肘、両膝から先をそのきんもうは覆いつくす。


 細長い指、よく手入れされた爪が、鋭くとがる。鼻が猫のように丸くなる。黄金に染まる虹彩こうさい、歯はぎらぎらと発達し、だんだんと"牙"に変わっていく。


 はじけ飛ぶ陸上のユニフォーム。一糸まとわぬ姿となった、その乳房の先と股間が、わずかに体毛で覆われる。かろうじてが透けない程度。


 最後に……腰まで伸ばされた黒髪、その前髪あたりから、新たにふさふさと金の毛が生え、周りの髪もまた同じ色に変わる。逆立つそれはまるで……のようだ、と希瑠が感じたとき。


「オォラア!!」


『ぐあっ!?』


 希瑠の前半身がね上がる。無防備になった希瑠、間髪入れず飛び上がったその獣は、三つ首魔犬まけんの真ん中の脳天に、一撃。


『がっ……!』


 こぶし一発で吹っ飛ぶ、全長15m・6tの体躯。それは地面を転がるうちに縮んでゆき、にわかに白く発光したかと思うと、人間態に戻ってしまった。


「ぐっ、う…………!」


 どうにか意識を保った希瑠。倒れたその姿勢で、転がってきた上方……自らを転がしたモノを、見上げた。



 それは、言うなれば「獅子人間ライオノイド」。山中の風に黄金のたてがみをなびかせ、凛々しくたたず百獣ひゃくじゅうおう――否、



「驚いたか? だが、貴様も知らなかったわけではあるまい。私が、どんな最期を迎えたかを」


「ぅ…………」


 希瑠は、言葉を返す気力すらない。だが、頭では理解していた。


 女狩人・アタランテの末路。それは、神帝ゼウスの聖域で夫と姦通かんつうしたことにより、天罰を受け、夫婦ともにライオンに変えられてしまったというもの。一説ではその後、、夫とともに太陽神アポロンの戦車を引くことになったというが……。


「まさか……その姿を、まだ、利用できるのか」


「ご明察。異能ではないから、白蛇娘しろへびむすめの能力で無効化されることもない。これは正直なところ、恥ずべき姿なのだが……これを使うということは、ある種、貴様らへの敬意とも言えよう。私をここまで追い詰めた、貴様らへのな」


 恥ずべき姿、とのたまう割に、蘭子の顔は得意げだ。肉食獣らしく尖った歯を見せて、ニヤリとわらう。


嗚呼ああ、嗚呼、だけれども。非常に残念だよ。この姿を開帳かいちょうしたということは、私の勝利がしてしまったということ……愉しかった君たちとの闘いも、理里くんとのかけっこも、終わりを迎えてしまうわけだ。非常に、非常に、残念だなぁ」


 思い出したような吹羅の攻撃を、軽々とかわしつつ、高らかに挑発した蘭子は、希瑠に背を向ける素振りを見せた。


「待てよ……まだ、俺は息があるぞ。とどめを、刺さないのかよ」


「そんなことをして何の意味がある? これはあくまで『かけっこ』だ。私と理里くんとのな。で、あるならば、そろそろに集中した方がいいだろう?」


 ここ数日でこれでもかと印象付けられた、下卑げびた笑みを残し。蘭子は、またしても吹羅を引きずって、滝道の先へと走り去って行った。





「クソッ……このまま、引き下がれっかよ」


 ふらつく頭で、希瑠は立ち上がる。


 このままでは、本当に蘭子の勝利が現実のものとなってしまう。そうなれば、満身創痍の怪原家はひとたまりもない。最初の条件どおり、抵抗する間もなく全員が、命を奪われてしまうことだろう。不死身の吹羅ひゅらがどうなるのかは知らないが。


 ともかく、「かけっこ」の敗北だけは避けなくてはならない。そのために希瑠が、何としても蘭子を止めなくてはならない。


 大きく息を吸い、希瑠は再び怪物態になろうとして――


「待って」


「のわあ!?」


 いきなりズボンの右裾みぎすそを掴まれた希瑠は、その力の強さにつんのめり、転倒する。


「っぇ、誰だ…………って、」


 軽い苛立ちとともに振り返った希瑠。すぐに明らかになった犯人に、一驚を喫した。


「か、母さん!?」


 恵奈だった。蘭子に受けた気絶から目覚め、重体ながらも、どうにか意識を保っていた。


 その血まみれの顔で、恵奈は請い願うような表情を浮かべる。


「お願い……わたしも、戦わせて。翼は折られてしまったけれど、まだ、動ける」


「馬鹿言うなよ! そんなボロボロの身体で戦ったら、今度こそ終わりだぞ! 悪いことは言わないから、母さんはここで休んでた方が……」


 希瑠がなだめるのも聞かず、恵奈は首を振る。


「お願いよ。アタランテあの子は、わたしが諭して、癒してあげないといけない……そんな気がするの。親の愛を知らずに育ったあの子を、見過ごせないの」


「……そう言われても、なぁ」


 恵奈の言うことは、希瑠にはさっぱり分からなかった。だが、母のいつも真っ直ぐな瞳が、その意志の強さを物語っていた。


 希瑠はしばらく黙考し。やがて、やれやれ、と恵奈に手を差し伸べた。


「……分かったよ。ほら、立てるか?」


 その掌を、恵奈はしかと掴み、蛇の尾でゆっくりと身を起こす。


「ありがとう」


 ニコッ、と笑った恵奈は。傷だらけの顔ながら、どんな美女よりも美しく見えた。


「……お、おう」


 が母親に何を照れているのだ、と自省して。希瑠は自分の頬をぴちぴち両手で叩き、蘭子の去った方角を向く。


「さあ、最終ファイナル決戦ラウンドだ……! 終わり良ければ全て良し、ってなぁ!」


 啖呵を切って、希瑠は恵奈を「お姫様だっこ」の形に抱え上げる。


「け、希瑠けーくん!? 急に何をっ」


 戸惑う恵奈の頬が、にわかに赤らむ。それに、希瑠はキョトンとした顔をする。


「その消耗じゃ、母さんだけで追いつくのは無理だろう? それよりは俺の能力で『加速』して、一緒に行った方が速いじゃねえか。ま、吹羅が圏内に入ると能力は解けちまうけどな」

「……そんなだから、あなたは万年独身なのよ」

「ん? 何の話だ」


 首をかしげる希瑠に、恵奈はほとほと溜め息をついた。希瑠はひととき怪訝な顔をしていたが、すぐに気を取り直した。


「……ま、いいか。"楽園の王ロードオブシャングリラ"、『摩擦無効ゼロ・フリクション』!」


 希瑠の肉体から、ほとばしる銀の炎。それが彼を中心に、円を描く。


 ぐぐ、と希瑠は前傾し――恵奈を抱えたまま、スピードスケーターのように、地面を




 怪原家のほぼ全員を巻き込んだ、蘭子と理里との「かけっこ」。閉幕のときは、近い。





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