星狩りのレプタイル ー邪眼の蜥蜴とオリンポスの英雄ー

18. PROTECTION LIKE THE JUSTICE

　轟音（ごうおん）。

　アスファルトが砕け散る音とともに、蛇の女怪（エキドナ）の巨躯（きょく）が、大地に叩き付けられる。

「母上ぇ――――――――っ！」

　無力と知りつつ、英雄の身体への拘束を強めながらも、吹羅（ひゅら）は泣き叫んだ。

　生き埋めの状況から復活した蘭子（らんこ）を追った恵奈（えな）と、蘭子との戦い。その激戦が、娘（吹羅）を盾にするという蘭子の卑劣な策により、今まさに決着したのだ。

「フン。"怪物（かいぶつ）の母（はは）"などと、どれほどのものかと思ったが。大したことは無かったな」

　うつ伏せに倒れた恵奈の頭を、蘭子が踏（ふ）み躙（にじ）る。その態度を見た吹羅が激昂（げきこう）する。

「貴様！　母上を弄（もてあそ）ぶなっ！」

「勝者が敗者を足蹴にして何が悪い？　弱い者は強い者にかしずく。自然界では当然のことだ」

「母上は……母上は弱くなどないっ！　いつも温かで、こんな我（われ）にも優しくて、誰よりも強くて……父上が消えても、何があってもめげずに生きているっ！　母上より強い者など、この世に在ってなるものか！」

　吹羅は知っていた。これまで母が、どれほど過酷な一生を歩んできたかを。夫と二度にわたって引き裂かれ、英雄に、人間に迫害され、あげく我が子に――

「ハ。それこそ笑止千万よ。

　およそこの女ほど『弱い』生き物もそうはいない」

　それを、蘭子は一笑に付した。

「何……？」

「少し子供をダシにしただけでこのザマだ。守るべきものがあったがゆえに、この女は敗北した。

　……貴様を利用したときだけではないぞ。どうも初めから、この女の攻撃は詰めが甘かった……生き埋めは知らんが、地中から復活したばかりのわたしを即座に殺さず、わざわざ娘に拘束させたり。宝石の暗器（あんき）があるのに使わず、尾で打ち殺そうとしたり。ようやく使ったと思えば頭部を狙わなかったり。……極めつけはあれだ、刃に毒が塗られていなかったことだ。ふつう、こういう暗器というのは確実に標的を殺すため、猛毒を塗って使うものだが……この女はそれをしなかった。なぜか？

　この女は、どこか深層心理で、わたしを殺したくなかったのだよ。それをすれば、怪原理里（息子）が悲しむからだ。ヤツの理念、『正しく生きる』ことに反し、息子に失望されるのが怖かったのだ。

　……真の強者とは孤独なものよ。失うものが無いからこそ、最強の高みへと至れるのだ。その最も基本的なことに、この女は真（・）逆（・）を行っていたわけだ」

「そんな……それはっ」

　唇を嚙み締める吹羅。それに、チラ、と見下すようなまなざしを送ってから、蘭子は虚空を見やる。

「そう考えれば、『親』という生き物は脆弱よな。伴侶のみならず我が子までも守らねばならない。おまけにこの女はそれを六つも抱えている……いや、ひとつは失われたから五つか？　ともかくも、弱さの贅肉（ぜいにく）まみれではないか。肉体も太めだがな、ふはは」

「貴様……！」

　高笑いする蘭子を、吹羅は細い瞳で睨みつける。だが、蘭子はそれを意に介さず、

「このばかでかい乳（チチ）のひとつでも潰してみれば、少しは強くなれるのではないか？　ま、私などは、そういったものは一切捨ててきた人間だ……『速さ』のうえで無駄になるものは、全てな。贅肉も、女らしさも、我（・）が（・）子（・）で（・）さ（・）え（・）も（・）……あ、乳は勝手に育ったが」

「……！」

　吹羅は目を見開く。

「自分の子どもを……我が子を、捨（・）て（・）た（・）だと？」

「……む？　ああ、捨てたとも。子どもなど持ったところで足手まといにしかならん。脅しのネタにされるだけだ。であれば、早急に居（・）な（・）か（・）っ（・）た（・）ことにしてしまったほうが良いだろう？」

「……クク。ククク。クハハハ、クッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ！！！！！！」

　唐突に笑いだした吹羅に、蘭子は首を傾げる。

「……何が可笑しい」

「クハハ、いやなに。我が子ひとりさえも守れない人間が英雄を騙（かた）るなど、笑（・）止（・）千（・）万（・）と思ってな」

　その言葉を言い放ったとき、すでに吹羅の貌（かお）からは笑みが消えていた。

「失うものがない者こそ最強？　それこそ滑稽（こっけい）な理屈よ。

　生き物は皆、『大切なものを守るときにこそ、最大の力を発揮する』ことくらい、さほど長く生きていない我でも知っている。

『窮鼠（きゅうそ）猫を噛む』という諺（ことわざ）。あれは確かにひとつの真理であろうよ。後がない者は、普段以上の力を発揮する。貴様が言っているのはそういうことだな？」

「……ああ。それがどうした」

　蘭子は怪訝（けげん）な表情である。しかしながら、己の『正義』を侵逼（しんぴつ）された怒りからか、徐々にその眉間の皺が深くなってゆく。

　吹羅は続ける。

「だが、その『強さ』は、己（おのれ）の命を守るための強さにすぎない。しかし生き物は……

　己の大切なものを守るとき、時に命（・）さ（・）え（・）か（・）な（・）ぐ（・）り（・）捨（・）て（・）る（・）」

「……！」

　今度は、蘭子が目を見開く番だった。

「もちろん、命の駆け引きでどちらが勝つかはその時しだいだろう。だがその姿勢、その心は、まぎれもなく後者の方がはるかに強靭だ。その程度のことすら理解できていない貴様など、母上の足元にも及ばぬわ」

　吹羅は、怒っていた。静かに、しかし烈火のごとく怒っていた。さながら青い炎のように。

　それは、己の大切なものを汚された怒り。母が、兄や姉が、そして妹が見せてきた「守護」の精神。己の信条だけでなく、大切な家族全員が信じてきたものを、侮辱されたことへの怒りだった。

「……成程（なるほど）」

　蘭子は静かにつぶやいた。

「成程、貴様の言うことにも一理あろう。

　――ならばそれを証明してみせよ、貴様自身がなァ！」

「――！」

　蘭子が脚を振り上げる。その靴裏が向かうのは、地面にめり込んだ恵奈の後頭部。

「待てっ！　やめろおおおおおお」

「守るものがある者こそ強者というのなら！　今ここで実証してみせるが良いわ！　所詮この世は力（ちから）こそ正義！　さあ、貴様の『正しさ』を証明してみせろォ！」

「くっ……！」

　吹羅は蛇の下半身でバネのように跳躍し、蘭子を止めに向かう。だが間に合わない。腰の大蛇は蘭子の下半身を縛っておらず、脚を止めることができない。

　ここまでなのか。わたしが信じてきたものはまやかしだったのか。このまま、母の脳漿（のうしょう）がはじけ飛ぶのを、見ていることしかできないのか。

「くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお！！！！！！！」

　宙（ちゅう）を舞いながらも、吹羅が慟哭（どうこく）の叫びをあげたとき。

　突如、響き渡る犬（いぬ）の遠吠（とおぼ）え。

「……ぬ？　ぐおっ」

　恵奈の頭蓋に至る寸前で、足を止めた蘭子。その彼女の頭が、次の瞬間には地面に叩き付けられていた。

「ひぎゃう！？」

　蘭子の身体につられて、吹羅もしたたかにアスファルトに打ちつけられる。かろうじて、蘭子の身体に巻き付けた蛇は解かずに済んだ。

「っ痛（つ）う……いったい、なにが……！！」

　強く打った頭をさすりながら、顔を上げた吹羅。その表情が、ぱっ、と輝いた。

『ずいぶんと好き勝手してくれてるみてえじゃねえか、クソ女。地（・）獄（・）の（・）番（・）犬（・）が、引導を渡しに来たぜ』

　白。いや、正確には、かすかに青みがかった白。その体毛でふさふさと覆われた、全高5ｍにも及ぼうかという、巨大な三つ首の犬。

　黒く染まった犬の頭骨を兜（かぶと）のように被り、同じく黒い骨で身体の各部を武装。三本の尾は骨そのもの、その先では漆黒のさ（・）れ（・）こ（・）う（・）べ（・）がカタカタと歯を鳴らす。

　柚葉（ゆずのは）大滝（おおたき）まで残り1.8kmのこの地点。怪原（かいはら）希瑠（ける）の真の姿――ケルベロスが、ここに降臨した。