10. 夕凪、クインテット





あまい。甘すぎるぞ? かいはら


 女性としては低めの、挑発するような猫撫で声。


 さとと希瑠を襲った黒髪の少女の両手は、手刀しゅとうかたちづくり、それぞれが彼らの喉元に当たる寸前で止められていた。


「わたしが英雄だからといって、言動に嘘偽りがないと信用することはお勧めしない。そういったピュアさは、もう少し年若い少年にこそ似つかわしいとは思わないか? そう、例えば……理里君、君のような子にこそだ」


 にへら、と少女はいやらしい笑みを理里に向ける。それに嫌悪の目を向けながらも、理里は問う。


「なぜ、殺さない……?」


「なぜかって? フフ、それは簡単な話だよ。私はもともと、君らを殺す気などない。ちょっと小手調べに、ちょっかいを出しただけの話さ」


「なっ……」


 弓の軌道、またはやさから考えても、確実に殺す気だったとしか考えられない。そんな思いが理里たちの顔に表れたのを読み取って、少女はニヤリ、とわらう。


「競技用の弓と矢しか使っていないのが、何よりの証拠だろう? それに、あの程度で沈む凡骨であれば、私とあいたいする価値など無いよ」


「…………」


 理里と希瑠は、呆れて言葉も出ない。


「……ケッ。殺さないってんならオレたちに何の用だよ、野蛮人が」


 希瑠が悪態をつくと、女はニヤリとわらう。


「殺すとも? だが、それはまだ先の話だ。ただ、おとずれるその時に貴様らがどれほど足掻いてくれるものか、気になってね。


 わたしは、戦いのために生きている人間だ。期待した獲物がおもいのほか弱かったとあっては、興醒めなのだよ……


 だが、君らにはそういった期待外れは無いだろう。……特に少年。君にはね」


 くわっ、と、睫毛の長い目を見開き、少女は理里の目と鼻の先にまで顔を近づける。


「っ、何だそりゃ……」


「ふふふふ……よく見れば、なかなか可愛いかおをしているじゃあないか」


 目じりをだらりと垂れ下がらせ、少女は舌なめずりをする――


「理里に触るなっ!」


 突如、希瑠が声を張り上げた。


「その薄汚うすぎたねえ指一本でも触れてみろ……! てめえの喉笛を、るぞ」


 希瑠の瞳は、いつの間にか真っ赤に染まり、瞳孔が糸のように細くなっている。砕け散らんばかりに噛み締めた歯では、上下の犬歯が鋭く伸びていた――まるで、のように。


「……冗談の通じぬ男だな。まあ良い、わたしの用事は終わった。



 私の名は田崎たさき 蘭子らんこ。前世における身の名は、"アタランテ"……詳しくは、君の姉上に聞くがいいさ。


 また会おう、少年」


 言い残し、少女はとん、と、いまだスピードを出した車が行き交う道路へと跳び――次の瞬間には、その姿はえていた。





「…………」


 長い沈黙の後、信号が青くともり、視覚障碍者しかくしょうがいしゃ用のアナウンスが流れる。理里と希瑠は、自転車に乗りなおすことはせず、そのまま歩き出す。


「ず、ずいぶんとまた、厄介そうな敵が出てきたな」


 先に口を開いたのは、理里だった。暗くなった雰囲気をどうにかもとに戻そうと、声を気持ち明るくしてみる。しかし、希瑠の深刻な表情は崩れない。


「……あの、兄さん?」


「理里。見ろ、この横断歩道を……」


「え? ……っと、うわあ!?」


 希瑠の言葉を理解する前に、理里はその場にあった、に足をとられてしまう。自転車が倒れ、理里自身も尻もちをついた。


「な、なんでこんなとこに落とし穴みたいのが……えっ」


 座り込んでしまって、理里ははじめて、横断歩道の惨状を目にした。


 理里が落ちた、すり鉢ほどの大きさのクレーター。それが、横断歩道のそこかしこに点在し、地面が穴ぼこだらけになっている。


「な、なんだよこれ……いつの間に、こんなことに」


「田崎 蘭子……奴の仕業しわざだぜ」


 希瑠は厳しい目つきで、横断歩道の先に目をやる。


「猛スピードで車が行き交ってる中に、奴は飛び込んでいった……その中で、奴はひとつひとつの車を避けていきやがった、ってことだ。この穴は、方向転換で地面を蹴ったときにできたモンだろう」


「……っ」


 理里とて他の怪物に劣るとはいえ、超人的な身体能力を持っている。しかし、彼にできるのはせいぜいアスファルトを砕く程度。脚力のみで、下にある地面までへこませるなど、到底できない。


 しかもそれを、目にもとまらぬ速度で連続して行うなどもってのほか。希瑠も、やれやれ、と首を振る。


「俺にすら、動きが全く見えなかった。あの女……相当にな。

"アタランテ"と言えば、ギリシャ神話界の数々の英雄を凌いで、最速とうたわれる女……これは、なかなかの強者つわものに目を付けられたな。


 おっと、信号が変わっちまう。急ぐぜ」


「あ、ああ……よっ、と」


 走り出す希瑠を追って、理里も慌てて立ち上がり、自転車を起こした。


 あおく点滅する歩行者用信号が、あかく変わる。怪原理里に待ち受ける運命さだめは、未だ過酷。





「お、カイハラくん。久しぶりじゃん」

「おひさー」

「この間から結構休んでっけど、身体とかダイジョブ?」


 教室に入るなり、数人の男子生徒が、理里のもとに駆け寄ってきた。


「あ、ああ……」


 少し戸惑いながらも、理里は返す。


(こ、これが普通の男子高校生……!)


 内心では、彼は感涙かんるいにむせびそうになっていた。何せ、中学までは誰からもシカトされ、こういう風にクラスメートが寄ってきてくれたことなど、なかったのだから。


「……で、ひとつ聞きたいんだけどよ」


 名前はまだ覚えていないが、短い2ブロックの髪をワックスで掻き上げた男子が、ぐいっ、と急に顔を近づけてくる。


 ……はっ、と悪い予感が理里を襲う。これは早速『格下』として目をつけられてしまったのではないのか、と。


「な、何でしょうか……」


 オドオドと目を泳がせながらも、問うと。


 2ブロックは、ぽっ、と顔を赤らめて、ぼそぼそと人差し指を突き合わせた。


「……お、お前の姉ちゃん……今日は、来ないの?」



「…………は?」



 目つきの悪い、不良っぽい顔に全く合わない仕草しぐさ。理里が唖然としていると、丸坊主で太眉の、いかにも野球部といった風貌ふうぼうの男子が、2ブロックと肩を組む。


「こいつよ、カイハラくんの姉ちゃんにひとれしちゃったみたいなんだわ! いやまー、確かに美人だよなー。俺ら、ファンクラブみたいなの組んでてよ! カイハラくんが来ないと姉ちゃんも来ないからさ、俺らナーバスなのよ……わかる?」


「ああ……ま、まあ、……」


 と言いながらも、理里は内心でとても動揺していた。


(どどどどどどういうことなんだ!? この人、あの超絶ブラコン姉貴のことが、好きだって!? ……しかもファンクラブ!? ファンクラブとは!? みんなしてド阿呆アホウか!?)


 確かに顔はいい。顔だけはいい。しかしながら、公衆の面前であんな痴態ちたいをさらす女のどこに惚れたというのか。


『ああー。そういやあいつ、俺の同級生からもそこそこ人気だったぜ』


「に、兄さ……」


 後ろに付いて来ていた希瑠が、思い出したようにぼやく。ちなみに、希瑠の声は"楽園の王ロード・オブ・シャングリラ"により音波の方向が調整され、今は理里にしか聞こえない。


 しかし、当然ながら理里の声は周りの人間に聞こえてしまうので、本当は下手に返事をしてはならない。


『何かの拍子で写真を見せたら、一気に人気が広まっちまってよ。体育祭だの文化祭だので来たときゃ、もうお祭り騒ぎだった……。お前も覚えてんだろ?』


「…………」


 覚えていなくはないが。理里はその時は、自分が年上のお姉さま方に引っ張りだこで大変だったのだ。昔から彼は、なぜか年上に好かれることが多い。


 そんな中でも、男子たちのヒートアップは続いていく。


「いやー、マジに一世いっせい一代いちだいの美女ってやつだと思うぜ。あんなキレイな人見たことねえよ」


「でも、どっちかと言うと『キレイ系』の顔なのに、性格はメッチャ明るくて『カワイイ系』っていうギャップ? これがサイコーなのよ!」


「あの、おでこ丸出しのおかっぱも似合ってるよな! あの髪型できる人ってそうそう居ないんだぜ?」


「……笑顔が、すごく、いいよな……歯を見せて笑うのが、すごく……」



(笑顔……か)



 言われて、珠飛亜の笑顔が理里の頭をよぎる。確かに、あの笑顔は良い。心の中の暗いもの全てを取り払ってくれる、太陽の如き明るさ。


 だが……その笑顔も今は陰っている。有村大河の蜂によって受けた傷が回復するまでは、眠りの奥底おうていに隠されたままだ。


「ん? どしたのカイハラくん、顔色ワルいけど」


「あ、ああ……いや、なんでもないよ。


 残念だけど、今日は姉貴は休みなんだ。体調不良でさ」


「ええ!? マジかよ!」


「そりゃ残念だなあ……せっかく今日はあのごそんがんが拝めると思ってた、の、に…………」


 唐突に、熱弁を振るっていた野球部(?)の顔が固まる。


「……ど、どうした?」


 困惑する理里。しかし、野球部は理里の真後ろに目を向けたまま、呆気にとられている。


 その理由は、ぐに理里の知れるところとなった。


「あのさ。入口でされっと、クソ邪魔なんだけど。退いてくんない」


 ドスの効いた、女の低い声。その声を、理里が忘れるはずが無かった。


「お、折邑おりむら……さん」


 気の強そうな、エッジの効いた目元。朝起きてそのまま、寝ぐせも直さずにまとめたかのごとくボサボサな、水色のポニーテール。


 入学初日から理里をシスコン呼ばわりし、以後も何かと因縁をつけてくる女……折邑おりむら紫苑しおんが、其処に居た。


退けって言ってんの。みんなしてタマ潰されたいの」


「は、はいぃ……」


 さながらモーセの十戒のごとく、ササーッと左右に分かれる男たち(希瑠を含む)。その中を紫苑は悠然と進み、けだるそうに自分の席へと歩いていき、辿り着くや否や机に突っ伏した。


『ひいぃ、なんだあのスケバン……! オレまでちびるかと思ったぜ』


 希瑠の震える声が聞こえる。地獄の番犬すらこの有様とは、恐るべき女だ。


「……折邑さん、なぁ……顔は、かわいいんだけど」

「あとおっぱいもでかいけど」

「どうも性格が、なあ……」


 むむむ、と首をひねる男子たち。



 と、キーン、コーンと鐘の音。



「やべ、そろそろ先生来るか」

「戻ろうぜー」


 理里のもとに集まっていた男子たちは、ぞろぞろと各々おのおのの席に戻って行く。


『おい、俺らも行くぞ。どこだ? お前の席』


 希瑠が、理里の肩をぽんぽん、と叩く。


 しかし。彼は、なかなか動こうとしない。


『おい、どうしたってんだ? 先生来ちまうぜ』


 急かす希瑠に、理里は絶望に沈んだ青い顔で、ぼそぼそとつぶやいた。



「兄さん……今、席は出席番号順なんだ……。出席番号って、だいたい『アイウエオ順』じゃないか? 俺の苗字は「か」だよな……」



『……それがどうかしたか』



「あのひとの苗字、『おりむら』って言うんだよ……『あいうえお』の次は『かきくけこ』……これで、何か分からないかな……」



 理里の言葉を聞いた刹那、希瑠の顔面が蒼白になる。


『まさか、お前……』

「しかもあの人の苗字は、お『り』むら……俺の苗字は、か『い』はらなんだ……。『お+ラ行』と『か+ア行』、だぜ……。この間に入れる苗字は『恩田おんだ』くらいのものだよ……もし来年も同じクラスになったとしたら、確実にまた後ろの席だ……もう、星も見えないって感じだよ……あ、星は無かったか……」



『……ドンマイ』



 先ほどとは違った意味で肩を叩かれ、重い足取りを、折邑紫苑の後ろの席に向ける理里だった。





 その日は、特に何事もなく終わった。絶対防御を誇る希瑠が理里についていることを、アタランテが生徒会に報告したのか、それとも希瑠の存在を悟ったのか、英雄による襲撃は朝以降おこなわれていない。


「今日はわりに平和だったな……珠飛亜も居なかったし、折邑さんに絡まれることもなかったし。兄さんがついてくれてたおかげ、かな」


 夕暮れの校舎。駐輪場へと向かう廊下で、理里が笑みを向けると、希瑠は照れ臭かったのか、そっぽを向いた。


「う、うるせー。こんなヒキニートが何の役に立ったってんだ」


「兄さんが居なきゃ、俺はまちがいなく死んでたよ。あの時、俺の反応はぜんぜん間に合わなかった……矢が脳天に命中して、きっと死んでたさ。


 俺が今ここにいられるのは、兄さんのおかげだよ。それは間違いないんだ」


 理里が微笑みかけたとき、希瑠の顔が紅かったのは、夕陽のせいばかりではなかっただろう。


「……買い被りだぜ」


「そんなわけないよ。いっそのこと、兄さんがずっと俺も珠飛亜も守ってくれたらいいのになあ……あ、いや、そ、そういう意味じゃないぜ!? 俺は珠飛亜のことなんかどうでも……」


 希瑠の足音がしないことに気づき、理里は振り返る。


「どうしたんだ、兄さん?」


 希瑠は俯き、たたずんでいた。鎖骨から下部分しかない白いセーターは、今はオレンジ色に燃えている。


「それは……俺には、できない」


 希瑠のかおは深刻だった。何かをこらえるように、そしてどこか申し訳なさそうに、希瑠は歯を食いしばっていた。


「た、ただの冗談だよ。言ってみただけだって」


 理里が雰囲気を和らげようとするが、希瑠は苦悶をこらえるような表情を崩さない。


「……俺は、お前たちだけを守ってるわけにはいかねえんだよ……」


「……兄さん?」


 理里が怪訝けげんな顔をしたとき。



 低くよく通る女性の声が、無人の廊下に響いた。



「ごきげんよう、理里君! そして怪原希瑠! この再会、実に待ち遠しかったぞ!」


「っ!?」


 艶やかな黒の姫カット。理里よりも少し背が高い、スマートな、しかし鍛え上げられた長身。そして、猛禽もうきんのように鋭い、切れ長の目。


田崎たさき蘭子らんこ…………!」


「まあ待て、そうはやるな。

 理里君。今回はひとつ、君に提案をしに来たのだ……」


「そんなこと信じられるか! 最初におまえがどんな戦法をとったのか、こっちは忘れてないぞ!」


「ああ……てめえだけは信用できねえぜ」


 理里と希瑠が身構える。すでに理里の頬には緑色の鱗が浮かび、希瑠の皮膚を、だんだんと白い剛毛が覆い始め――




『待てッッッッ!!!!!』




 瞬間、変化へんげしかけていた理里と希瑠の身体が硬直する。



「何だぁ、こりゃ……!」

「からだ、が……」



 今の声は、蘭子の叫び声……いや、咆哮とでも呼ぶべきものだった。それを聞いた途端、理里たちの身体が、しびれたように動かなくなってしまった。



「物分かりの悪い男は嫌いだぞ? ……知っているか? いい夫婦関係の秘訣は、夫が折れてやることなのだ……わたしが『提案をしに来た』と言ったのだから、素直に信じればいいものを」



 ゆっくりと、蘭子は理里の方へと歩いてくる。しかし、理里も希瑠も、身動きひとつ取れない。



「くっ…………」




「何、それほど難しい話ではないよ…………。ほんのちょっとした、嗜好の話さ。


 ――理里君。わたしと、『かけっこ』をやらないか?」



「……………………………………は?」



 目が点になる兄弟に、神速しんそく乙女おとめは、不敵に嗤った。



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