10. 夕凪、クインテット
「
女性としては低めの、挑発するような猫撫で声。
「わたしが英雄だからといって、言動に嘘偽りがないと信用することはお勧めしない。そういったピュアさは、もう少し年若い少年にこそ似つかわしいとは思わないか? そう、例えば……理里君、君のような子にこそだ」
にへら、と少女はいやらしい笑みを理里に向ける。それに嫌悪の目を向けながらも、理里は問う。
「なぜ、殺さない……?」
「なぜかって? フフ、それは簡単な話だよ。私はもともと、君らを殺す気などない。ちょっと小手調べに、ちょっかいを出しただけの話さ」
「なっ……」
弓の軌道、また
「競技用の弓と矢しか使っていないのが、何よりの証拠だろう? それに、あの程度で沈む凡骨であれば、私と
「…………」
理里と希瑠は、呆れて言葉も出ない。
「……ケッ。殺さないってんならオレたちに何の用だよ、野蛮人が」
希瑠が悪態をつくと、女はニヤリと
「殺すとも? だが、それはまだ先の話だ。ただ、
わたしは、戦いのために生きている人間だ。期待した獲物が
だが、君らにはそういった期待外れは無いだろう。……特に少年。君にはね」
くわっ、と、睫毛の長い目を見開き、少女は理里の目と鼻の先にまで顔を近づける。
「っ、何だそりゃ……」
「ふふふふ……よく見れば、なかなか可愛い
目じりをだらりと垂れ下がらせ、少女は舌なめずりをする――
「理里に触るなっ!」
突如、希瑠が声を張り上げた。
「その
希瑠の瞳は、いつの間にか真っ赤に染まり、瞳孔が糸のように細くなっている。砕け散らんばかりに噛み締めた歯では、上下の犬歯が鋭く伸びていた――まるで、
「……冗談の通じぬ男だな。まあ良い、わたしの用事は終わった。
私の名は
また会おう、少年」
言い残し、少女はとん、と、いまだスピードを出した車が行き交う道路へと跳び――次の瞬間には、その姿は
「…………」
長い沈黙の後、信号が青く
「ず、ずいぶんとまた、厄介そうな敵が出てきたな」
先に口を開いたのは、理里だった。暗くなった雰囲気をどうにかもとに戻そうと、声を気持ち明るくしてみる。しかし、希瑠の深刻な表情は崩れない。
「……あの、兄さん?」
「理里。見ろ、この横断歩道を……」
「え? ……っと、うわあ!?」
希瑠の言葉を理解する前に、理里はその場にあった、
「な、なんでこんなとこに落とし穴みたいのが……えっ」
座り込んでしまって、理里ははじめて、横断歩道の惨状を目にした。
理里が落ちた、すり鉢ほどの大きさのクレーター。それが、横断歩道のそこかしこに点在し、地面が穴ぼこだらけになっている。
「な、なんだよこれ……いつの間に、こんなことに」
「田崎 蘭子……奴の
希瑠は厳しい目つきで、横断歩道の先に目をやる。
「猛スピードで車が行き交ってる中に、奴は飛び込んでいった……その中で、奴はひとつひとつの車を避けていきやがった、ってことだ。この穴は、方向転換で地面を蹴ったときにできた
「……っ」
理里とて他の怪物に劣るとはいえ、超人的な身体能力を持っている。しかし、彼にできるのはせいぜいアスファルトを砕く程度。脚力のみで、下にある地面まで
しかもそれを、目にもとまらぬ速度で連続して行うなど
「俺にすら、動きが全く見えなかった。あの女……相当に
"アタランテ"と言えば、ギリシャ神話界の数々の英雄を凌いで、最速と
おっと、信号が変わっちまう。急ぐぜ」
「あ、ああ……よっ、と」
走り出す希瑠を追って、理里も慌てて立ち上がり、自転車を起こした。
☆
「お、カイハラくん。久しぶりじゃん」
「おひさー」
「この間から結構休んでっけど、身体とかダイジョブ?」
教室に入るなり、数人の男子生徒が、理里のもとに駆け寄ってきた。
「あ、ああ……」
少し戸惑いながらも、理里は返す。
(こ、これが普通の男子高校生……!)
内心では、彼は
「……で、ひとつ聞きたいんだけどよ」
名前はまだ覚えていないが、短い2ブロックの髪をワックスで掻き上げた男子が、ぐいっ、と急に顔を近づけてくる。
……はっ、と悪い予感が理里を襲う。これは早速『格下』として目をつけられてしまったのではないのか、と。
「な、何でしょうか……」
オドオドと目を泳がせながらも、問うと。
2ブロックは、ぽっ、と顔を赤らめて、ぼそぼそと人差し指を突き合わせた。
「……お、お前の姉ちゃん……今日は、来ないの?」
「…………は?」
目つきの悪い、不良っぽい顔に全く合わない
「こいつよ、カイハラくんの姉ちゃんに
「ああ……ま、まあ、……」
と言いながらも、理里は内心でとても動揺していた。
(どどどどどどういうことなんだ!? この人、あの超絶ブラコン姉貴のことが、好きだって!? ……しかもファンクラブ!? ファンクラブとは!? みんなしてド
確かに顔はいい。顔だけはいい。しかしながら、公衆の面前であんな
『ああー。そういやあいつ、俺の同級生からもそこそこ人気だったぜ』
「に、兄さ……」
後ろに付いて来ていた希瑠が、思い出したようにぼやく。ちなみに、希瑠の声は"
しかし、当然ながら理里の声は周りの人間に聞こえてしまうので、本当は下手に返事をしてはならない。
『何かの拍子で写真を見せたら、一気に人気が広まっちまってよ。体育祭だの文化祭だので来た
「…………」
覚えていなくはないが。理里はその時は、自分が年上のお姉さま方に引っ張りだこで大変だったのだ。昔から彼は、なぜか年上に好かれることが多い。
そんな中でも、男子たちのヒートアップは続いていく。
「いやー、マジに
「でも、どっちかと言うと『キレイ系』の顔なのに、性格はメッチャ明るくて『カワイイ系』っていうギャップ? これがサイコーなのよ!」
「あの、おでこ丸出しのおかっぱも似合ってるよな! あの髪型できる人ってそうそう居ないんだぜ?」
「……笑顔が、すごく、いいよな……歯を見せて笑うのが、すごく……」
(笑顔……か)
言われて、珠飛亜の笑顔が理里の頭をよぎる。確かに、あの笑顔は良い。心の中の暗いもの全てを取り払ってくれる、太陽の如き明るさ。
だが……その笑顔も今は陰っている。有村大河の蜂によって受けた傷が回復するまでは、眠りの
「ん? どしたのカイハラくん、顔色ワルいけど」
「あ、ああ……いや、なんでもないよ。
残念だけど、今日は姉貴は休みなんだ。体調不良でさ」
「ええ!? マジかよ!」
「そりゃ残念だなあ……せっかく今日はあのご
唐突に、熱弁を振るっていた野球部(?)の顔が固まる。
「……ど、どうした?」
困惑する理里。しかし、野球部は理里の真後ろに目を向けたまま、呆気にとられている。
その理由は、
「あのさ。入口で
ドスの効いた、女の低い声。その声を、理里が忘れるはずが無かった。
「お、
気の強そうな、エッジの効いた目元。朝起きてそのまま、寝ぐせも直さずにまとめたかのごとくボサボサな、水色のポニーテール。
入学初日から理里をシスコン呼ばわりし、以後も何かと因縁をつけてくる女……
「
「は、はいぃ……」
さながらモーセの十戒のごとく、ササーッと左右に分かれる男たち(希瑠を含む)。その中を紫苑は悠然と進み、けだるそうに自分の席へと歩いていき、辿り着くや否や机に突っ伏した。
『ひいぃ、なんだあのスケバン……! オレまでちびるかと思ったぜ』
希瑠の震える声が聞こえる。地獄の番犬すらこの有様とは、恐るべき女だ。
「……折邑さん、なぁ……顔は、かわいいんだけど」
「あとおっぱいもでかいけど」
「どうも性格が、なあ……」
むむむ、と首をひねる男子たち。
と、キーン、コーンと鐘の音。
「やべ、そろそろ先生来るか」
「戻ろうぜー」
理里のもとに集まっていた男子たちは、ぞろぞろと
『おい、俺らも行くぞ。どこだ? お前の席』
希瑠が、理里の肩をぽんぽん、と叩く。
しかし。彼は、なかなか動こうとしない。
『おい、どうしたってんだ? 先生来ちまうぜ』
急かす希瑠に、理里は絶望に沈んだ青い顔で、ぼそぼそとつぶやいた。
「兄さん……今、席は出席番号順なんだ……。出席番号って、だいたい『アイウエオ順』じゃないか? 俺の苗字は「か」だよな……」
『……それがどうかしたか』
「あの
理里の言葉を聞いた刹那、希瑠の顔面が蒼白になる。
『まさか、お前……』
「しかもあの人の苗字は、お『り』むら……俺の苗字は、か『い』はらなんだ……。『お+ラ行』と『か+ア行』、だぜ……。この間に入れる苗字は『
『……ドンマイ』
先ほどとは違った意味で肩を叩かれ、重い足取りを、折邑紫苑の後ろの席に向ける理里だった。
☆
その日は、特に何事もなく終わった。絶対防御を誇る希瑠が理里についていることを、アタランテが生徒会に報告したのか、それとも希瑠の存在を悟ったのか、英雄による襲撃は朝以降おこなわれていない。
「今日はわりに平和だったな……珠飛亜も居なかったし、折邑さんに絡まれることもなかったし。兄さんがついてくれてたおかげ、かな」
夕暮れの校舎。駐輪場へと向かう廊下で、理里が笑みを向けると、希瑠は照れ臭かったのか、そっぽを向いた。
「う、うるせー。こんなヒキニートが何の役に立ったってんだ」
「兄さんが居なきゃ、俺はまちがいなく死んでたよ。あの時、俺の反応はぜんぜん間に合わなかった……矢が脳天に命中して、きっと死んでたさ。
俺が今ここにいられるのは、兄さんのおかげだよ。それは間違いないんだ」
理里が微笑みかけたとき、希瑠の顔が紅かったのは、夕陽のせいばかりではなかっただろう。
「……買い被りだぜ」
「そんなわけないよ。いっそのこと、兄さんがずっと俺も珠飛亜も守ってくれたらいいのになあ……あ、いや、そ、そういう意味じゃないぜ!? 俺は珠飛亜のことなんかどうでも……」
希瑠の足音がしないことに気づき、理里は振り返る。
「どうしたんだ、兄さん?」
希瑠は俯き、
「それは……俺には、できない」
希瑠の
「た、ただの冗談だよ。言ってみただけだって」
理里が雰囲気を和らげようとするが、希瑠は苦悶をこらえるような表情を崩さない。
「……俺は、お前たちだけを守ってるわけにはいかねえんだよ……」
「……兄さん?」
理里が
低くよく通る女性の声が、無人の廊下に響いた。
「ごきげんよう、理里君! そして怪原希瑠! この再会、実に待ち遠しかったぞ!」
「っ!?」
艶やかな黒の姫カット。理里よりも少し背が高い、スマートな、しかし鍛え上げられた長身。そして、
「
「まあ待て、そう
理里君。今回はひとつ、君に提案をしに来たのだ……」
「そんなこと信じられるか! 最初におまえがどんな戦法をとったのか、こっちは忘れてないぞ!」
「ああ……てめえだけは信用できねえぜ」
理里と希瑠が身構える。すでに理里の頬には緑色の鱗が浮かび、希瑠の皮膚を、だんだんと白い剛毛が覆い始め――
『待てッッッッ!!!!!』
瞬間、
「何だぁ、こりゃ……!」
「からだ、が……」
今の声は、蘭子の叫び声……いや、咆哮とでも呼ぶべきものだった。それを聞いた途端、理里たちの身体が、
「物分かりの悪い男は嫌いだぞ? ……知っているか? いい夫婦関係の秘訣は、夫が折れてやることなのだ……わたしが『提案をしに来た』と言ったのだから、素直に信じればいいものを」
ゆっくりと、蘭子は理里の方へと歩いてくる。しかし、理里も希瑠も、身動きひとつ取れない。
「くっ…………」
「何、それほど難しい話ではないよ…………。ほんのちょっとした、嗜好の話さ。
――理里君。わたしと、『かけっこ』をやらないか?」
「……………………………………は?」
目が点になる兄弟に、
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