第八頁
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「そっか、やっぱり高坂さん達は関わっているかもしれないんだ。そうなると少し厄介だね。彼女、怖いからね」
フィルム1の座席はやはり気持ちよかった。お尻が椅子の下まで沈んでしまいそうだ。
歩は観客がいないのをいいことに足を投げ出して座っていた。
「あと、歩が言っていたように交換日記はどうやら吹田さんも参加する予定だったみたい。まぁ、少なくとも3人だけでやる予定ではなかったみたい」
「すごいなぁ、そんなことまでもう分かっちゃったのか。やっぱり、夏目君にお願いして正解だったよ」
先日の燕みのりからの聞き取りでいくらかの噂に裏付けが取れたのでその報告をしていた。あの聞き取りで幸運だったのは真弘先輩が燕の嘘をつく時の仕草を知っていたことだった。彼女は嘘をつく時、左目の下のほくろを触るのだ。そして、あの日の最後の質問で彼女は嘘をついた。つまり、交換日記はもともと今のメンバーだけで実施する予定じゃなかったということが分かったのだった。
「ちなみに、高坂っていうのはそんなに怖いの?」
俺は正直彼女の怖さというものを正確には知らない。オレの探偵としての噂が独り歩きするように、オレは彼女の噂を聞いたことがある程度の知識なわけだ。
「あれ、夏目君は高坂さんのこと知らないのかい?」「ああ、噂程度しか。実際に怖いの?」
「それはもう、クラスでは逆らえる子なんていないよ。他でもない珠依さんのグループ以外はね。女子たちのグループはクラス内でもなんとなく順位があるのは夏目君だってわかってるでしょ?」
俺は首を縦に振る。カースト制に近いアレである。
「基本的には高坂さんのグループがトップ。次点が珠依さんたち。その他大勢は、彼女たちとは当たらず触らずの生活さ。衝突しようものなら目も当てられないよ。なにせ、他のグループはみんな高坂さんたちに味方するから、彼女たちが無視を決め込めばクラスのみんなが無視さ。これでいて厄介なのは、意外だと思うかもだけど男子たちなんだ。高坂さんは男子に人気があるんだ。ほら、彼女少し男勝りなとこがあるだろ。あの竹を割ったみたいな性格が受けているんだ。だから、結果的に男子も高坂さんに味方するわけ。そうすれば、何が起こるか分かるでしょ」
「高坂亜子に逆らえばクラスのつまはじきにされるわけだ」
「そのとおり。でも、珠依さんのグループは違った」
「というと?」「彼女たちは唯一、高坂さんに歯向かったんだ『あんたたちだけが、クラスの中で偉そうにするのは平等じゃない』ってね。去年も高坂さんと珠依さんは同じクラスだったからね」
「随分と、真正面からぶつかったんだね」「うん、宣戦布告だよ」
それからというもの、事あるごとに衝突を見せる2つの派閥。しかし、高坂のバックにはクラスの8割が付いている。珠依たちは実質相当な劣勢だったわけだ。大国に睨みをきかされた小国のように、反体制を掲げて立ち上がった反乱軍のように威勢は良かったが、力の差は歴然だった。そして、その状態は今もなお続いている。
「そして、珠依さんのグループで内戦が起きたって聞いたんだ。あくまでも噂だし、詳細は僕も知らない。でも、リーダーの球依さんと誰かがぶつかったって聞いた。僕はそれが吹田さんだったんじゃないかって思ってるんだけどね。なにせ、その後しばらくして彼女は学校に来なくなったから」歩の表情は少し暗くなる。
「じゃあ、吹田の不登校の原因は珠依にあると」
「いや、これも証拠がないからわからないよ。あくまでも僕の推測。ただ、それによってもともと4人でするわけだった交換ノートを3人でやることになったんじゃないかな。そして、さらなる混乱を目論んで高坂さんが日記に嫌がらせをしている。筋書きとしては納得がいくんじゃないかな」
歩の言う「筋書き」は確かに正しければ納得がいくし、自然だ。しかし、高坂にはどのタイミングであの日記に細工をすることができるのだろうか。基本的には当事者の3人の誰かが常に所有している日記だ。グループの仇敵である高坂が触れようものなら、それこそ戦争だろう。
「わかった。その線も視野に入れて調査を進めるよ。情報は多いに越したことないから助かる」
その言葉でパッと歩の表情が明るくなる。
「無理言って依頼をしているのは僕の方だからね。このくらいはお安い御用さ。新しい情報が入ればまた伝えるよ。自分で言うのもアレだけど、僕は比較的どこの派閥でも話が訊きやすいからさ」
そう言ってはにかむその笑顔がきっと彼の武器なのだ。しかも、それを自覚してるときたらそれは相当強い。ただ、その直後に「吹奏楽部以外はね」と付け足す彼は謙虚さも兼ね備えているようだった。
★
机の上に右から、洋ナシ、りんご、オレンジ、そして圧倒的な存在感を放つ人間の頭骨がまるで目前にあるかのような瑞々しさと禍々しさで描かれている。対照的な静物配置は一度見たら忘れられない衝撃がある。絵画の下に配置されたプレートには「セザンヌ」の文字。主に19世紀に活躍したフランスの画家である彼は、有名やモネやルノワールといった画家と共に印象派と呼ばれた。しかし晩年のセザンヌは「もっと自分らしく」と元来の書き方にとらわれない手法を用いて後に「ポスト印象派」と呼ばれ、その後の近代美術にも大きく影響と与えたとも言われている。
「活躍は、してないのか」
遠くに見える学芸員を覗いて誰もいな平日の美術館で茂森篤夫は独り言を漏らした。
セザンヌに関しては評価されてきたのは晩年のことであって、それまではサロンでも落選を繰り返すだけであったという。印象派という呼称にしても、当時の新聞に「印象的に下手である」と書かれた事がきっかけであるという一説すらあるほどなのだ。つまり、生涯の大半を評価されることなく芸術家として生きた彼らの心中は計り知れない。
幸い、目の前に展示された『髑髏のある静物』は彼の亡くなる十年内に発表されたもので彼の生前に評価された数少ない作品の一つである。生と死を連想させるこの手の作品は、日本で言うところの「諸行無常」や「栄枯盛衰」に通ずる虚栄の儚さを表現したものと言われ、遡れば十六世紀のバロック期に起を持つ。
篤夫はこの市立美術館が好きであった。規模としては小さい美術館だが、世界の有名な絵画が(レプリカがほとんどだが)展示され、またその選定が素晴らしい。調査に息詰まるとここにきてぼーっと絵画を眺める。それだけでいつの間にか頭脳は明晰になり、論理的思考が帰ってくるような気がする。こちらに越してきて半年がたち、美術館にも相当数通ったせいでもともとさほど興味もなかった絵画に関する知識が付いてきていた。
つまるところ、今回も調査に行き詰まりを感じていた。商店街でそれとなく聞き込みをしてみたものの、有力な情報もなく、もちろん待夢の敬子さんからも新しい話を聞くことはできなかった。
いつもに増して学校内でも非常に限定的な場所で起きた事件なだけあって、いつもの用には情報収集が進まない。突っ込んだ話を聞き込みをするにしても切り口がないのだ。「交換日記の噂について何か知りませんか」なんて聞いたら完全にどうかしていると思われるだろう。何せ、女子中学生の交換日記に関する話だ。今回ばかりは自分の出る幕はないのじゃないかとすら思っているくらいだった。
そんなことを思いながら真っ白な美術館をゆったりと順路に沿って進んでいく。そして、指示に従って角を左折する。
「あ」思わず声が出た。
今日もいる。曲がった先は比較的館内でも広い部屋で南側を除く三方の壁に三枚ずつ展示があり、部屋の中央にはこれまた真っ白で無機質なベンチが四方に一つずつ配置されて休むことができるようになっている。部屋への入り口が南側なのだが、西側の壁に向かったベンチに少女が座っている。篤夫が来るとかなりの確率で彼女はそこに座っている。服装はもちろん毎回違うのだが、いわゆる清楚系だ。高校生ぐらいだろうか。少し大人びたように見える。そんな彼女はいつも絵を見ていない。作品の展示されていない南側はガラス張りになっていて敷地内の中庭が見えるようになっている。吹き抜けになっている中庭の天井から差し込む光が庭に生えている立派な孟宗竹を照らす。真っ白な玉砂利も美しいことこの上ないことを篤夫は知っている。
彼女はいつもそこを眺めている。動くことを忘れてしまったのかのようである。
篤夫はいつも彼女の背中側を通って次の部屋に抜けていくためその表情までは見て取れない。そして、いつもあの少女は自分にしか見えていないのではないだろうかという妄想が捗ってしまう。誰にも話し掛けるでも、話し掛けられるでもなく、そして動くこともなくそこにただ座る彼女はこの世の者ではないような気がしてしまうのだ。なにせ、篤夫はそこに座っている状態でしか彼女を見たことがないからだ。館内を歩いているところは一度も見たことがない。
「まさかな」
口元だけで声を漏らして篤夫は順路を進んでいく。どこか寂しげな背中は少し動いたような気がした。
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