雲上通勤

 あの事件から数週間が経っても、艦内の話題は沈没した艦に関する事ばかりだった。


 大型浮動エンジンはそう簡単に壊れないから、低空軌道でまだ飛んでいるかもしれない。そんな楽観的な噂話も多い一方で、沈んだ艦と自分たちの艦が同型である事に触れる人が少ないところに、艦内の住民の隠し切れない不安は表れていた。


 当然、僕だってあんなものを目の前で見たら平気じゃいられない。出来ることなら毎日趣味の機械いじりをして気を紛らわせていたいところだ。

 しかし、与えられた仕事を放り出す訳にはいかなかった。艦長のような偉い人から小さな子供まで、この空に生まれた以上は、誰もが働かなくてはいけない。


 その日も僕は、仮眠用に置いてある整備室のパイプベッドで一晩を明かした。

 降りて大きな伸びをし、油と埃でドロドロになった作業着を脱ぎ、すぐさま併設されたシャワールームに駆け込む。


 シャワールームの天井には、数年前に雷が落ちて以来、縦長の巨大な穴が開いていて、今日もひしゃげた天井の亀裂から青空が見える。固くて回すのにコツが要るレバーを体重をかけながら捻ると、今日は雲が少ない場所を飛んでいるのだろう。太陽で熱せられた熱いお湯が降り注いできて、思わずあちちと声が出た。

 僕は暖かいお湯で身体を流し、特に手の指や爪の間をいつもより念入りに洗う。整備油がこびりついているからだ。僕の就いている仕事では、特に気をつけなければいけない部分でもある。


 びしゃびしゃのまま半裸で裏口から甲板に顔を出すと、洗濯係のおばちゃんが笑いながら、干せたばかりのタオルをこちらに投げてくれた。身体の半分くらいもある大きなタオルに顔を押し付けて深呼吸すると、太陽の良い匂いがする。僕はこの匂いが昔から大好きだ。何度も何度も洗いすぎてゴワゴワになったタオルで、わしゃわしゃと乱暴に頭と身体を拭いて、仕事用の清潔なシャツに着替えた。


 艦内は僕と同じく仕事に向かう人でごった返しているだろうから、僕は甲板の上を真っ直ぐ空に向かって走り、甲板のはしっこからそのままえいやと飛び降りた。すると次の瞬間、ガン!と小気味の良い鉄の音が足元に響いた。

 古い作業用通路が僕一人の重みで派手にぐわんと揺れる。

 赤錆だらけのこの通路は、当然ながら立ち入り禁止だ。


 ひし形の網状になった通路を歩きながら足下を見れば、美味しそうな白い雲とその切れ間に覗く青い海が直接見える。

 この景色もタオルの匂いと同じくらい大好きなものの一つだ。まるで自分が身体一つで空を飛んでいるみたいな気持ちになりながら、ガンガンガンと大きな音を立てて、艦の外周を沿う作業用通路を駆ける。丸窓から外を眺めている住民達に手を振りつつしばらく走ると、はめ殺しの窓が壊れた部屋が見えた。


 この窓を通って艦内へ戻るのが、僕のいつもの通勤ルートだ。本当はちゃんとした通用口もあるにはあるんだけど、僕の仕事場からは遠い上、閉鎖されているはずの通用口から出る所を、制服組に見つかるリスクを考えると使う気にはなれない。制服組はこの艦を管理運営している人達の通称だ。いわゆるエリート層だけが就ける仕事で、しらゆりの全人口の三パーセントが制服組だ。彼らはしらゆりの操縦や保守管理から、一般乗務民がトイレで使うペーパの量や髪の伸びるスピードまで管理していると言われている。勿論後者は冗談だ。……トイレについてはあながち冗談でもないけれど。


 部屋を抜けて廊下に出て、身動きが取れないくらいにごった返す人の群れに飲まれながらも、僕はようやく仕事場に到着した。ドアの前には既に、周辺の居住ブロックの住民達がずらーっと並び、少しイライラとした表情で何かを待っているのが見える。


「こら、バカ坊主!一体今何時だと思ってんだい」


「ごめんっ! 最近あんまり寝れてなくてさ」


 僕を認めるなり大声を出すその声に、手を顔の前で合わせながらそう答えた。


「まったく! いいからさっさと厨房入りな。今週は懐国記念かいこくきねんで合成肉が出んだから、気合入れるんだよ」


「もちろん、頑張らせていただきますっ」


 食堂係のリーダーをしているタツキおばさんに急かされて、僕は休む暇もなく厨房へと入った。一年ぶりの肉料理。調理班の一員としての腕が鳴る。

 懐国記念とは、この艦の住民達が生まれた国を忘れない為に出来た習慣だ。

 毎年訪れる懐国記念日の前の一週間、艦はゆっくりと母国の空を旋回し続ける。(僕達空の上で生まれた世代にとって、母国と言われてもあまりピンとこないけれど)食堂のメニューが豪華になるのもあって、皆が楽しみにしている。


 合成肉から滲み出る油の、あの何ともいえない良い匂いがしてくる頃。昼食配給を知らせるブザーが鳴って、食堂の外の列がゆっくりと動き出す。周辺の居住ブロックだけでも三桁近い人がいるから、一斉に来られると、簡単にはさばききれない。今日も厨房内の横一列に並んだフライパンは何度も何度も振られ、配給された分の合成肉のチューブは、一本残らず使い切られた。ちなみに賞味期限が半年も前に切れているのは、僕達だけが知っている秘密だ。


 肩と両腕が悲鳴を上げる頃、調理班の仕事はようやく終わる。さあお待ちかね、食事の時間だ。

 僕達の仕事は、他よりもハードな分、一般乗務民の倍の量まで食べる事を許可されている。まあ、これくらいの役得がないと割に合わないだろう。疲れと空腹でヘロヘロになりながらも、合成肉と食用じゃがいものメインディッシュを乗せたお盆を持ち、広い広い食堂のはじっこの席に座る。すると、配膳清掃班の仕事を終えたティアが、同じくヘロヘロになりながら僕の前の席に座った。ちょうど一人分の量が載った御盆をテーブルに置き、ふうと大きなため息をついた彼女は、こちらに少し真剣な表情を向ける。


「……ねえ、トルタは怖くないの?」


「怖いって何がさ」


「そんなの言わなくても分かるでしょ」


 少し伏し目がちにティアが言う。


「そりゃ怖いよ、でも僕達はいつか必ず死ぬだろ。それが結果的に雲の上になるか下になるか、ただそれだけの事じゃないか。」


「トルタは強いんだね」


「ティアの方が強いよ。不安を隠したり誤魔化したりしないで、今日という日を普通に過ごしてる」


 そう、ティアは強い子だ。自分の弱さをしっかりと分かっている。


「僕なんかほら、偉そうな事言っても口だけだからさ。こうやって目先の欲求を満たして誤魔化しちゃうんだ」


 僕はお盆から溢れるくらい山盛りの肉を指さした。


「貧乏性」


 そう言ってくすくす笑う彼女の笑顔に、心から救われる心地がした。


「トルタ、この後って暇?」


「いや、また整備室に戻るつもり」


「また空力車いじりだ」


「そう、あれは僕のライフワークだからね」


 誰も見向きもしないようなアンティークを修理し始めて一年。終わりのこないように思えたライフワークも、浮動エンジンの修理を終えて最終工程に入りつつある。


「ふうん、あれでどこに行くつもり?」


「どこって……」


 何か試すような表情で柔らかく微笑むティアの前で、僕は言い淀んだ。余暇の全てをつぎ込んでいた空力車の修理。完成とは、つまり彼(空力車のことだ)を空に飛ばせる状態にすることだ。しかし、僕は彼が宙に浮いた後のことを考えていなかったことに今更気が付いた。

 宙に答えを探していると、ティアが驚きをあらわにする。


「呆れた、まさか本当に何も考えてなかったの」


「作るのに夢中だったんだ、それに……」


 あの空力車を飛ばすにしたって、行き先なんてものがあるはずない。僕達の世界は縦三キロ、横六キロの長方形の中に収まっている。

 せいぜい制服組の監視を受けながら、甲板の上をふらふらと回るくらいのものだろう。もしかすると、飛行許可すら降りないかもしれなかった。


「行きたいところがあれば、どこへだって行けば良いのよ」


 ティアは僕の目をまっすぐ見て言う。彼女が何を言いたいのか、そしてこの後に何を口にしようとするのか、長い付き合いだからよく分かる。


「私は、下の世界に行ってみたい」


 彼女は、はっきりそう言った。


 下の世界は、かつては今想像するあらゆることが叶う夢のような世界だったと大人達から聞かされている。

 同時に、今では大気汚染と病原菌の蔓延する死の世界になってしまったとも。

 だから僕達の世代の人間は、誰もが一度は下の世界へ行くことを想像し、そして諦める。

 なのにティアは、彼女は眩しいくらいまっすぐな瞳を僕に向けてくる。


 僕は何も言えなくなって、合成肉をひとすくい口に運んだ。

 ご馳走の味は、ほとんど分からなかった。

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