蛍を見ながら和泉式部を思う
「蛍に興味ある?」
夏のとある日、結城さんと大学構内のカフェで涼んでいたときにそう聞かれた。
カフェの中はエアコンが効いていて、外の暑さと比べて天国のようだ。結城さんは文学部の二年生で、ひょんなことで知り合いになり、時々お喋りをする仲になった人だ。
「蛍ですか?」
「うん。あの光る蛍」
何でも、私たちが通っている大学から北西に五キロメートル程のところに、蛍を見られる公園があるのだそうで、もし良かったら蛍鑑賞会に行かないかと誘ってもらえたのだ。結城さんが所属する文学部日本文化学研究室のメンバーで次週の土曜日に行くので、もし私も興味があれば一緒に車で連れて行ってくれるということだった。
研究室メンバーの中に去年蛍を見に行った人がいて、なかなか良かったというところから、メンバー皆で行こうという話になったらしい。
「蛍って、古典なんかにもよく登場するでしょ。皆で鑑賞に行こうって誰かが言い出したのがきっかけなのだけど、そんなかしこまったものじゃなくて、単なる遠足みたいなものなんだ」
「そんな公園があるんですか。そういえば蛍って生で見たことないな」
「公園内に屋台も出て、縁日気分も味わえるみたいね」
「へえ、楽しそうですね」
どうしよう。蛍を見には行きたいけど、知らない人たちと一緒となると、人見知りの私としてはちょっとしり込みするところである。結論を出すまでちょっと時間をもらうことにした。
蛍といえば印象に残っている歌がある。
もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
後拾遺和歌集にある和泉式部の歌。貴船神社に詣で、御手洗川に蛍が飛びかうのを見て読んだ歌だ。物思いにふけって見ていると、蛍がまるで我が身よりさまよい出た魂のように見える、という状況を歌っている。
日も暮れて周囲は暗く、沈んだ表情の女性が心ここにあらずといった様子で見る先には、見渡す限り一面に無数の光が宙を舞っている。その光は無規則にゆらゆらと飛び交い、闇に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
この歌を知ったとき、そんな情景を思い浮かべ、美しいと感じた。後に知ったが、和泉式部は夫から忘れられつつあることに思い悩んでおり、復縁の祈願をしに貴船神社に詣でたということだった。私は魂が抜け出るほどの恋愛感情を誰かに抱いたことはないけど、そこまで想える人がいるというのはとてもいいなと思ったものだ。ただし忘れられて苦しいというのは経験したくないけど。
蛍の光を魂と見なす前提として、魂は不安定なもの、という思想がある。昔の日本人は、驚いたり物思いにふけったり、場合によっては何もしないでいるだけでも、魂が体から離れていってしまうと考えていたのだ。鎮魂という言葉は今では死者の霊を慰めるという意味でよく使われるが、本来は「たましずめ」と読み、体から離れていく魂を体に戻すことを意味する。
また、蛍の光の方にも、魂を思わせる特徴がある。
蛍が発行する際のエネルギー変換効率は非常に高い。ほとんど熱を生じないことから、その光は冷光と呼ばれる。この冷たい光というのが、魂を連想させると思う。
図書館に行こうかな。和泉式部の歌を思い出したら、貴船神社について知りたくなってきた。
図書館前に着き、通りをはさんだ向こう側に目をやると、学食前の掲示板で千里さんが何か作業をしているのが見えた。
千里さんは学食でアルバイトをしている人だ。この人もまたひょんなことから知り合いになり、時々お喋りをする仲になった。通りを横切り、学食の方へ向かった。
「こんにちは」
千里さんは掲示板に紙を貼り付けようとしていた。紙を掲示板に当てた姿勢のまま、こちらを振り返る。
「やあ、秋月さん。こんにちは」
掲示板にはイベントのお知らせやアルバイト情報などが掲示されている。
大学生になったし、アルバイトをしなきゃいけないなと思っているのだが、入学して夏に至るまで何も行動に移せていない。人見知りから来る行動力のなさが原因だ。社会勉強という意味でもお金を稼ぐと意味でも、した方がいいのだけど。今は完全に親の脛をかじっている状態で、その自立できていないところが少々コンプレックスである。
千里さんが貼り付けようとしている紙を見ると、蛍鑑賞会の案内だった。
「蛍鑑賞会ですか」
まさについ先ほど結城さんから誘われたイベントである。
「うん。主催者から掲示を求められたんだって」
「ちょうどさっき結城さんから誘われたんです」
「へえ。チラシ一枚いる? 後で中の掲示板に自由に持っていけるように置くんだけど」
千里さんの足元には少し膨らんだ封筒がある。その中からチラシを一枚取り出してくれた。お礼を言って受け取る。
中に入ろうかと千里さんが言い、一緒に建物の中に入った。エアコンが効いていて涼しい。ドアから衝立をはさんで正面が学食だ。左に曲がると廊下の壁に掲示板がある。千里さんは「ご自由にどうぞ」と手書きで書かれたクリアファイルを掲示板に留め、その中に封筒から取り出したチラシの束を入れた。
「注意事項がたくさんあるんですね」
チラシには以下の注意事項が挙げられている。
・蛍を捕まえたり、触ったりしてはいけません。
・虫除けスプレーなどを使用しないでください。蛍も虫です。
・懐中電灯や携帯電話の明かり、カメラのフラッシュは使用しないでください。
・感動しても大声を出さないでください。
・鑑賞の順路は決まっています。一方通行となっていますので、順路に従い進んでください。逆行、および、立ち止まることは禁止です。
「水辺だから蚊もたくさんいそうだな。」
「虫除け禁止かあ……」
虫除けの成分が蚊などの害虫に特化しているとは確かに考えにくい。製薬会社も蛍にピンポイントで無害になるようになんてしていないだろうから、虫除けスプレーなんてしていったら蛍も逃げていってしまう。
その他、天候や湿度によっては蛍は現れないとも書いてある。せっかく行ったのに出てこなかったら残念だな。
「見に行ったら、感想聞かせてよ」
「はい、わかりました」
気持ちは、だいぶ行く方向に傾いている。仕事があるからという千里さんとお別れし、改めて図書館に向かった。
図書館にはインターネットができるコーナーがある。パソコンが五台並んでいるが、埋まっていたので少し待つ。
ちょうどパソコンコーナーの前に休憩スペースがあり、新聞紙のラックが置かれているので、新聞を手に取った。
大学生にもなれば新聞も読まないといけないかなとよく思い、家でたまに開くのだけど、なかなか毎日読む習慣がつかない。ニュースもあまりきちんと見ていないので、世間知らずな部分もあり、それもまたコンプレックスだったりする。
新聞をぱらぱらめくって見るが、政治やら経済やらは読もうとしてもやっぱり目が滑る。何かやわらかい話題は……。「昭和の国民的ヒーロー、ミラクルマン復活!」ふむふむ。小さいころにテレビで再放送されているのを見たことがある。
ミラクルマンは宇宙の彼方から地球を救うためにやってきたヒーローだ。額にカラータイマーというのが付いていて、地球上での活動限界時間である三分間が終わりに近づくと、ランプが光りアラームが鳴って知らせてくれるのだ。額のランプはブッダの額にある白毫をモチーフとしており、慈悲の心を表しているとか。その割には地球を襲う怪獣には無慈悲だった印象があるけど。
そんなヒーローの新シリーズが時代を超えて開始され、今のちびっ子に人気だとか。ちょうど昔のファンが親世代となっており、製作者側の、親子ともども取り込もうという作戦のようだ。
地域欄を見てみると、蛍鑑賞会のことが少し書かれていた。公園の蛍は人工的に飼育したものではなく、自生しているのだそうだ。種類はヘイケボタル。ヘイケボタルはゲンジボタルと違って少し汚れた水でも生育できるから、比較的容易に自生するのかもしれない。新聞に載って有名になってしまうと、大勢の人が来園することになって、入場制限やら厳しくなっちゃいそうだな。
そうこうしているとパソコンが空いたので、すかさず確保した。ブラウザを立ち上げ、検索窓に入力。貴船神社、と。
和泉式部の歌の舞台である貴船神社はもちろん京都の貴船神社だ。創建年代は不明ながら、平安の世にはすでに存在した神社で、全国の貴船神社の総本社である。祭神は高龗神。現在は本宮、結社(中宮)、奥宮からなっているが、西暦一〇五五年に遷座するまでは、今の奥宮の位置が本宮だった。隣を貴船川が流れており、それが和泉式部が歌に詠んだ御手洗川らしい。
本宮から奥宮に向かう途中には、その貴船川の支流にかかる橋があるが、その川を思ひ川と呼ぶ。和泉式部がそこで歌を詠んだのにちなんでいつしかそう呼ばれるようになった。そもそもは禊川や物忌川と言って、禊の場だったということだ。
和泉式部もここで禊を行い、蛍を見たのだろうか。
先ほどの歌のエピソードには続きがある。和泉式部が歌を読んだあとに、男の声で次の返歌があったという。
おく山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかり物なおもいそ
奥山の滝の水が飛び散るほどに、深く思いつめたりしなさるな、という意味だ。玉は魂にかかっている。男の声というのは貴船明神、すなわち高龗神の声。
その後、夫である藤原保昌と復縁できたというところで、後拾遺和歌集に書かれたエピソードは終わり。ただ、その返歌は藤原保昌の声だったという解釈もあるようだ。
ついでに二、三調べものをしてから、ブラウザを閉じた。
図書館を出口に向かいながら、ふと思う。それにしても和泉式部はなぜ、水の神様のところに恋の祈願をしに行ったのだろう。
さて肝心の蛍鑑賞会だけど、やっぱり結城さんのお誘いに乗ろう。この機会を逃すと、おそらく今後蛍を見ることはないだろうから。
一人で行くという手もあるけど、さきほどのチラシによると、公園まではバスを乗り継いでいかないと行けない上に、バス停からも十分程度歩かなければならないらしい。出不精な私には少々荷が重い。一緒に行く人たちは知らない人ばかりではあるけど、皆上級生だから、同年代の人たちよりは苦手意識が少ない。
結城さんに連絡し、ご一緒したいということと、学食の掲示板でチラシがもらえることを伝えた。
蛍鑑賞当日を迎えた。夕方五時半に学校の正門前に集合ということになっているが、事前に結城さんと駅前で待ち合わせて正門に向かった。夕方とはいえ初夏であり昼の暑さがまだまだ残っている。正門にはすでに皆集まっていた。初めましての挨拶を済ませたあと、それぞれ二台の車に分乗した。ああ、エアコンが涼しい。
私が乗せてもらった車は、三年生の男性、景山さんが運転する車だった。助手席は空席で、後部座席の右側に結城さんが座り、左側に私が座った。
もう一台の車には四年生の女性、遠野さん、同じく四年生の男性、江島さんが乗っている。研究室メンバーは他にもいるが、都合が悪くて来れず、今日はこのメンバーとなったということだった。
先にあちらの車が出発し、それを追うように景山さんが車を発進させた。正門は南側なので、大学の敷地に沿って北側に回り、そのまま北方向へ向かう。この辺りは歩いたことがないので新鮮だ。
「景山君は去年も蛍見に行ったんでしょ?」
「おう、行ったよ。なかなかきれいで柄にもなく見とれちまったよ」
そう言って景山さんは、がははと笑った。
「蛍はたくさんいたの?」
「去年は結構いたな。こんな近くに蛍がたくさんいるなんてなあ。驚いたよ。屋台もたくさん出てて夏祭り気分も味わえるぞ」
「楽しそうだね」
車に他人と同乗するという慣れない状況で、私は借りてきた猫のようにおとなしく、二人の会話を聞いていた。しばらくして景山さんが急に口調を変えて言った。
「ところで二人とも知ってるか? 神隠しの話」
「神隠し? 何それ」
「昭和のいつ頃か、まだ公園ができる前、あの辺りで神隠しが発生したらしい」
そう言って景山さんは話し始めた。
「蛍の棲む池が、当時からあったらしい。周囲は背丈の高い草や木が生い茂っていて、池ではちょっとした魚釣りなんかもできたりしたもんで、子供も大人もよく遊びに行くような場所だったようだ。人が歩くので、池の周囲はぐるっと獣道みたいに細い道が続いていて、ところどころからは池まで続く横道もできていたとか。
で、あるとき数人の子供が釣りに行った帰りのこと。池から、池の周囲を囲う道まで出てきた。道は左右に分かれているわけだが、一人だけ帰る方向が違ったんだ。一人が左に行き、残り数人は右に行く。そして別れて一歩も二歩も行かないうちに、右に行った子供のうちの一人が、池のそばに忘れ物をしたことに気付き、振り返った。ところが当然すぐそこに背中が見えるはずの、左の道に行った子供の姿がなかったという」
「道の両脇は茂みなんでしょ?そっちに隠れたんじゃないの。もしくは道は曲がってるんだろうから、見通せないところまで猛ダッシュとか。あとは、来たばっかりの、池に続く道に行った可能性だってある」
「別れてから振り返るまで本当に一瞬だったというし、物音も何もしなかったそうだ。忘れ物をした子供も、おかしいと思いながら池に戻ったが、池まで行っても誰の姿もなかった。まあその場から消える方法自体はいくらでもあるのかもしれないが、結局、その消えた子供はその後家に帰ることもなく、行方不明になっちまったという話だ」
「ふうん。そんなことがあったんだ。初めて聞いたな」
「地域の古老から聞いた話だから、実際の話だと思うぞ。当時、池をさらったりもしたんだろうが、見つからなかっただけで、もしかしたら今なお死体が沈んでいるかもしれないな。ちなみに蛍の幼虫は肉食だから、その死体はきっと……」
「ちょっと、やめてよ」
「ちょっと涼しくなっただろ。あ、エアコンつけてるからか」
景山さんはそう言って一人でがははと笑った。
蛍の幼虫は、ゲンジボタルならカワニナ、ヘイケボタルならカワニナの他、タニシやモノアラガイといった巻貝が主食だ。一生排泄をせず、食べたものは全てエネルギーにする。つまり巻貝を分解するのに特化した体となっているのだ。なので巻貝以外のものを食べるとは思えない。いや、もちろん景山さんが本気で言っているわけではないのはわかってるけど。
でも水の底に人知れず沈んでいる死体と、その陰でうごめく蛍の幼虫、あるいはその水の上で飛び交う蛍の冷光を想像すると、何ともいえない幻想的な感じもしてくる。
桜の木の下に死体があるのなら、蛍の飛び交う水の底に死体があってもいい、そんな気がする。というようなことを思い切って発言したら、引かれると思いきや二人とも面白がっていた。
「西行法師になぞらえれば、願わくは蛍のもとにて夏死なんってところね」
「何のひねりもないな」
景山さんが結城さんに即座に突っ込み、結城さんはふふっと笑った。私も少しこの状況に慣れてきた。
結城さんが例のチラシを鞄から取り出した。
「ヘイケボタルなんだね」
「ゲンジボタルに比べて、小型で点滅の速度も速いみたいですよ」
「何で源平なんだ?」
「ええと、ヘイケボタルに関しては、先にゲンジボタルの名前が決まってて、それより小型なので源氏に対比させてヘイケボタルと言われるようになったらしいです。ゲンジボタルの名前の由来は諸説あるようですよ」
先日インターネットで仕入れた知識を早速披露する。ゲンジボタルの名の由来は、光源氏から取ったとか、修験者が蛍を明かり代わりに使用していたところから、あるいは蛍の光る能力を修験者が持つ力と同一視されたところから、「験者」が転じてゲンジボタルになったとか、平家に討たれた源頼政が蛍となって飛び交っているという伝説からきているとか、いろいろあるようだ。
蛍見られるといいねと結城さんと言い合う。蛍が良く飛ぶのは、曇天で湿度が高く、風のない日だそうだ。光りながら飛んで交尾相手を探すので、光が良く見える、月明かりのない曇天、飛びやすい風のない日、が都合がいいのだろう。
今日は湿度は特別高くはなさそうだが、雲が多く、風はない。うん、きっと見られる。
そろそろだという景山さんの声に前を見ると、公園らしきものが見えた。大きな神社を離れたところから見たように、たくさんの樹が密集して生えている、その樹冠が見える。
車はそのまま道を進み、駐車場に入った。駐車場は広く、幸い車は二台とも止められた。
駐車場の脇にあった案内図を見ると、いくつもの広場や、ドッグラン、貯水池に野鳥観察場、多目的室などいろいろなものがあるすごく広い公園だった。蛍のいる場所はふるさとの沢という名のつけられたところで、駐車場からそんなに遠くないようだ。左手に広場を見ながら進み、途中で右に曲がり坂を下っていくことになる。ふるさとの沢は公園の中でも窪んだところにあるらしい。景山さんが教えてくれた。
駐車場からふるさとの沢の反対側には砂利の広場があり、そこに屋台が並び、来園者で賑わっていた。ふるさとの沢まではだいぶ距離がありそうだし、広場と広場の間などには樹がたくさん植わっているので、ここの喧騒が蛍に聞こえるということはなさそうだ。
蛍鑑賞ができるのが夜七時から。現在は六時ちょうどだ。
「それぞれ食べたい物でも買ってきて、その辺で食うかあ」
四年生の江島さんが言い、一旦ばらばらに屋台に買い物に行くことになった。
家族連れやカップルで混雑している中、屋台を物色する。焼きそば、お好み焼き、たこ焼、それにから揚げ串やバーベキューなどなど。から揚げ串やバーベキューは、私が子供のころは見かけなかった気がする。屋台も流行り廃りがあるのだろう。一方でりんご飴とか、食べ物じゃないけどプラスチックのお面とか、そういうのはずっと残り続けている。
やっぱりオーソドックスに焼きそばかな。ソースのいい匂いが鼻をくすぐる。でもたこ焼きも捨てがたい。ふだん焼きそばは食べてもたこ焼きはなかなか食べる機会ないもんな。
あまり悩んで時間かけてしまうと、皆集合した後にのこのこ戻ることになってしまうので、少し考えてたこ焼きを食べることにした。たこ焼きの屋台だけでもいくつかあるが、どこも同じ値段設定のようだ。八個入り五百円。コストパフォーマンスと衛生面は考えないようにして、並んでいる人の最後尾に着いた。
私の前は小さい子供を抱っこした女性だった。子供と正対する向きで抱っこしているので、子供の顔は私のほうを向いている。ただ、その子は顔を母親の右肩にくっつけてぐっすり眠っている様子で、顔は見えない。ピンクのワンピースからのぞく脚には蚊が三匹も止まっている。チラシに記載されていた通り、蛍を見に行く人は虫除けスプレーを使用してはいけないことになっているので、きっとこの親子も後で蛍を見に行くのだろう。この子の靴下には蛍のイラストも描かれているし。と思ったら蛍じゃなくてミラクルマンの額のカラータイマーだった。どうも蛍のことで頭がいっぱいになっている。
「ちょっと、何やってんの!」
突然その母親が大きな声を上げた。見ると、たこ焼きを受け取るときに落としたらしく、屋台の手前側にパックが口をあけて落ちている。たこ焼きも無残にもこぼれ落ちていた。母親は怒りで腕を震わせている。屋台のおばさんがむっとした顔をして言う。
「今お客さんが落としましたよね」
「何言ってんのよ。そちらがきちんと渡さないからでしょ! 代わりの早くよこしなさいよ!」
母親はなおも言いつのる。辺りの人たちの視線が集まっているのを感じ、すぐ後ろの私が一番居たたまれなくてついつい俯いてしまう。
その後少し言い合いが続いたが、最終的に、屋台のおばさんが新しいたこ焼きを母親に渡していた。さっさとどっか行けと言わんばかりの態度を隠そうともしていない。その間子供は寝たまま。子供を抱っこしている母親は体の自由が利かず、たこ焼きを取りづらそうにしている。さっきも、それで落としたんだろうな……。母親が去った後、屋台のおばさんは私に顔を向け、苦笑して見せた。
「お姉ちゃん、ごめんねー。一個おまけしとくからね」
「あ、ありがとうございます」
わあ、やった。単純なのは自覚しているが、たこ焼き一個で嫌な気分が消えていった。四つずつ二列に並んだ八個のたこ焼きの上に、おまけが一個乗っている。輪ゴムで留めてあるものの、おまけが乗っているためパックの口は閉まりきっていない。そこからソースや鰹節や青海苔や小麦粉の匂いが渾然一体となって立ち上ってくる。ああ、いい香り。
さて集合場所に戻るかと思ったが、どちらに行けばよいのか一瞬戸惑う。決してたこ焼きの匂いに惑わされたわけではなく、歩き回っているうちに方向が分からなくなっただけだ。タイミングの良いことに、迷子の放送が流れていた。『……を着た三歳の男の子を、ご両親が探しておられます。お心当たりのある方は……』。私も放送で呼び出してもらおうかなんて埒もない思い付きが頭をよぎりつつ、確かあっちから来たなと思い出しながら歩いて、先輩たちと合流できた。
皆で再び駐車場の方に向かい、ふるさとの沢の近くの広場でレジャーシートを敷いて、買ったものを食べる。周りには同じように過ごしている人たちが結構いる。ボール遊びやバドミントンなんかをしている家族連れ、カップルもいる。まだまだ暑いのに元気だな。だいぶ日も暮れてきて、バドミントンはそろそろ羽が見えなくなるころだ。
先輩たちは卒論の進みがどうとか、次回のゼミの発表資料がどうとか話している。私は結城さんに、たこ焼きを一個おまけしてもらえた話をしていた。
「さっき迷子の放送あったでしょ」
四年生の遠野さんが誰にともなく話し始めた。
「ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃったみたい。お面を買おうとして目を離しちゃったんだって。その子の両親が公園の人に話してるのが聞こえたんだけどね」
「おお、神隠し……」
景山さんが反応する。
「そうなのよ、誰かさんの話を思い出してぞっとしちゃったわ。単なる迷子だといいけど」
遠野さんが景山さんを軽く睨む。どうやらさきほど車で聞いた話を他の人にもしているらしい。迷子、見つかるといいな。
そんなこんなで十九時近くになったので、皆で蛍のいるふるさとの沢に向かった。両側を樹で囲まれた坂道に並んで待つ。坂道を下った先がふるさとの沢の入り口で、そこから蛍鑑賞の人たちの行列ができているのだ。日はとっぷりと暮れ、空はまだぼんやりと明るいものの、地上は街灯がなければ数メートル先も見えないような状況だ。空は雲が多いままだし、風もないまま。道の両脇の樹々はそよとも音を立てず、静かに黒い影を佇ませている。嵐の前の静けさのようなものを感じ、心が浮き立つのを感じる。
しばらくして、行列が動き出した。蛍鑑賞会の開始だ。この先は一方通行で立ち止まらず進むことになっているので、行列の歩みが止まることはなく、私たちも五分ほどでふるさとの沢に到着した。暗くなって良く見えないが、周りを樹で囲まれたスペースに池があり、池の上には手すりのついた通路が渡されている。通路は板でできているようで、下に水が湛えられていると思うと少し心もとなさを感じる。歩きながら手すりの向こうに目を向けると、無数の冷光が宙を舞っているのが見えた。
「わあ、光ってる」
「たくさんいるね」
思わず結城さんとささやき合った。池の上には人の背丈ほどもある水生植物が生い茂っており、まだかすかに明かりが残っている空を背に、シルエットを浮び上がらせている。そしてその水生植物の合間を縫うようにして、ちらちらと点滅を繰り返しながら光が飛び回っている。小さくか細い光だけど、だからこそさまよい出た魂に思えるのかもしれない。周りの人たちも言葉少なで魂が抜け出たかのようだ。幽玄の世界の中、静かに歩を進める。
私の顔の横を通って、一匹の蛍が前方に飛んで行った。私の体から抜け出た魂のように。手を伸ばしかけるが、注意事項を思い出して我慢する。その蛍は池の奥の方へ飛んで行き、他の蛍と混ざっていく。しばらくその光を目で追うが、瞬きをした瞬間に他の光と区別がつかなくなってしまった。
無数の冷光はゆらゆらと宙を舞い、あるいは一箇所にいくつかの光が固まっている。一箇所に固まっているのは、おそらくメスの元にオスが集まっているのだろう。何しろ生物学的に考えるなら、この光はホタルの求愛行動なのだ。ああそうか、和泉式部もそれを知っていたから、なおさら恋に悩む我が身を重ねてしまったのかもしれないな。
通路の終点につき、板の通路からアスファルトへ足を踏み入れたところで、夢から覚めたような心地になる。蚊を払うのも忘れて見入っていたので、おそらく腕も脚も食われ放題だろう。
ふるさとの沢からは、最初に並んでいたのとは別の道から駐車場へ向かうことになる。今度は上り坂だ。結城さんと話をしながら上る。
「きれいでしたね」
「うん、きれいだったね。生き物が光るなんて不思議だな」
「不思議ですよね。発光細胞という発光物質を光らせる細胞と、さらにそれを反射させる反射細胞というのがあるらしいんですけど、それはそれでますます不思議ですよね」
「お? 秋月さんは虫愛づる姫君か」
景山さんの声がした。そばに誰がいるのやら分からないくらい真っ暗だ。
「虫というか、生物学が好きなんです」
「ほお、さすが理系」
「理系は関係ないですよ。理系だから生物学が好きなわけじゃなくて、生物学が好きだったから理系に進んだだけですから」
「その物言いが理系なんだよな」
うはは、と景山さんが笑った。うう、面倒くさい。放っておこう。
坂を上ると公園の事務所の近くに出た。この辺りは街灯が所々にあり、近くの様子は良く見える。
事務所前では誰かが騒いでおり、見てみるとさっきのたこ焼きの時の母親だった。子供がいなくなったと騒いでいる。その横で、事務所から子供連れの夫婦が出てきた。子供は右手を母親に取られ、太ももを掻きながら歩いている。頭にはミラクルマンのお面。もしかしてさっき遠野さんの言っていた迷子かな。遠野さんのほうを見ると、その家族を見て私たちに目配せしている。聞いてみると、やっぱり遠野さんが見た夫婦だということだった。見つかってよかった。子供は眠そうに大あくびをひとつした。
新たに迷子になったらしいたこ焼きの時の子は、この目で見ているだけに気になるが、何をすることもできない。気にかかりつつ、そのまま先輩たちとともに駐車場まで戻った。また車に乗せてもらい、大学前で降ろしてもらう。先輩たちはその後居酒屋で軽く宴会をするということで、私も誘ってもらえたが、辞退した。久々に人と長時間一緒にいて気疲れしたので、一人でゆっくりしたいと思ったのだ。
翌日は日曜日で、土曜の気疲れを回復するためにという口実のもと、一日中ごろごろして本を読んで過ごした。蚊に刺されたところは痒く、掻いたり我慢したりだ。刺されたところを数えると、両の腕と脚をあわせて何と九か所。おそらく私の人生史上最多食われ数だろう。せめて長袖を着て行くんだった。
月曜の午後、私は学食にいた。蛍の感動と腕や脚の痒さを、ここでバイトをしている千里さんに話しに来たのだ。
「どうだった?」
「きれいでした。蛍、たくさんいましたよ。蚊もたくさんでしたけど」
左腕だけで三か所、丸く膨れているのを千里さんに見せ付けてから、鑑賞会の様子を話した。
「でもやっぱり最後の迷子も気になるなあ」
「ふうん。どういうふうに気になる?」
「どういうふうって。あの子は結局見つかったのかなって。神隠しの話を聞いただけに、単なる迷子ならいいけどなと思って。子供の死体なんて、実際にあったら幻想的どころかただ痛ましいだけだし。母親の心情も察するに余りあるといった感じです」
「その迷子の行方なら、ちょっと思うところがある」
「え?」
千里さんがそう言うときは大体、何か私の思いもよらない話が出てくる。
「子供の死体が昨日、市内北部の貯水池で見つかったってニュースでやってたんだ。秋月さんの話を聞いて思ったけど、その母親が犯人かもしれないな」
「へ?」
ただでさえニュースをあまり見ないのに、昨日は一日中ごろごろしてて、なおさらだ。そんな出来事があったのか。しかし母親が犯人とは? 顔にクエスチョンマークをいくつも浮かべる私に構わず、千里さんは言葉を続ける。
「たこ焼きの前にいた子供と、ミラクルマンのお面を持っていた子供が同一人物だったとしたら」
「は?」
「たこ焼きを買っていた母親が子供を殺したのではないかと思われる」
千里さんの言葉の意味を少し考えるが、理解ができない。
「えーと、順番にお願いしてもいいですか。まず、子供の死体が発見されたというのは? お恥ずかしいことですが、ニュースも新聞も見てなくて」
「詳しくは覚えてないけど、日曜日に、秋月さんが行った公園のさらに北方五キロメートルほどの貯水池で、子供の死体が浮いているのが発見されたらしいよ」
「そうなんですか……。それがその、たこ焼きのときの子なんですか?」
千里さんに聞いても分かるはずないのに思わず聞いてしまう。
「いや、違うと思うよ」
「え、何で分かるんですか」
自分で聞いておきながら、回答が返ってきて驚く。
「だからミラクルマンの子供と同一人物だからだよ」
「そう、それ。それはどういう意味ですか」
「たこ焼きの子はワンピースにミラクルマンの靴下を履いていたということだったけど、女の子にミラクルマンの靴下はどうも違和感がある。そして耳元で母親が大声で騒いでもぐっすり眠ったまま目覚める気配もなかった」
「はい」
「一方、無事両親の元に戻ってきた男の子は、ミラクルマンのお面を持っていたことから、ミラクルマンの靴下を履いていてもおかしくないと思う。それから、迷子になれば親恋しさに泣き喚いてそうなものだけど、両親に連れられて事務所から出てきて、眠そうに大あくび、ときた」
何となく言いたいことは分かってきた。
「えーと、たこ焼きの母親が、一度男の子をさらって、何らかの方法で眠らせ、ワンピースを着せる。そして自分の子供のように抱っこしていた、と」
「そうだね」
「それで、男の子を返したけど、男の子はまだ眠気が残っていて大あくびをした。それでそもそも自分がさらわれたことにも気付いていないから、泣き喚きもしなかった、ということ?」
そうそうと千里さんが頷く。
「でも男の子が眠そうにしてたのは、両親と会ってほっとしたのかもしれないじゃないですか」
そんな可能性もあるという話であって、意味のない反論だとは思いながら、つい言ってしまう。
「そうだね。まあいろんな点を総合的に考えての話だからね。
でももう一点付け加えると、男の子が脚を掻いていたという点。たこ焼きの屋台の前で、子供の脚に蚊が止まっていたというから、そこが痒くなったんじゃないだろうか」
ああ、そういえば……。
「じゃあ、母親が子供を殺したというのは?」
「その母親は他人の子を自分の子のように抱っこする必要があった。それはきっと、その公園で子供とはぐれたという状況を偽装したかったんだろう。なぜ偽装の必要があったのか。例えば遠く離れたところで子供の死体が見つかったとしたら、直前までその公園で子供を抱っこしていた自分には犯行が不可能と思わせることができる」
「なるほど」
「今回、発見が翌日になったわけだけど、公園で子供がいなくなった以降、自分が死体発見現場に近づいていないことを周りに見せておけば、やはり犯行は不可能と思わせることができる。死体が水に沈められていたことから、死亡推定時刻も曖昧なものになるだろうし」
聞いていると、実際にそれが正解のように思えてきてしまう。怖い。子供を殺して池に捨てて、アリバイ工作をして。そんな人のすぐ後ろに立っていたというのだろうか。
「なんだか人間不信になりそうです」
私がそう言うと、千里さんが不思議そうな顔をした。
「秋月さんは大丈夫でしょ」
「え? 何でですか?」
「いや、自覚してるだろうけど、秋月さんは一歩引いたところから人と接してるでしょ。通りすがりの人が実は凶悪犯でした、くらいのことで秋月さんは揺るがないよ」
「……大きく外れてはいない気はしますが、人のこと勝手に断言しないでください」
千里さんを軽く睨んで見せるが、千里さんは私を一顧だにしない。
「さて、件の母親だけど、子供を抱っこしているというのを誰かに覚えといてもらう必要があったから、わざと騒ぎを起こさなければならなかった」
「じゃあたこ焼きを落としたのもわざと?」
「わざとかもしれないし、もしわざとじゃなかったとしても、騒ぎを起こす機会を伺っていただろうから、ちょうどよかっただろうね」
見た感じはわざとではないように見えたし、ぎゃあぎゃあ騒ぐ様も演技には見えなかったな。思い返すとやはり怖さを感じる。もし千里さんの言うとおり人間不信じゃないなら、自分の人を見る目のなさにショックを受けているだけかな。
「子供を殺すような親だ。子供を抱っこし慣れてなくて、抱っこしながらだとうまくたこ焼きを持てなかったのかもね。さらに言うと、怒りで震えているように見えたのは、単に子供の重さに筋肉が悲鳴を上げていたのかなと思ったよ。まあそういうことだから、秋月さんが見た以外でも騒ぎを起こしていたと思うよ。」
なるほど……。しばし千里さんの話を振り返る。千里さんも一段落といった感じで黙っている。
現時点でこの話がどこまで本当かは分からないけど、真相はきっとニュースの続報で聞けるだろう。これが本当なら、警察の捜査がこんなアリバイ工作でごまかせるとは到底思えない。素人の私でもそう思う。
「水に死体か。幻想的だなんて、もう思えないな」
水に死体。ふと和泉式部を思い出す。わざわざ水の神様のところに行った彼女は、もしかしたら入水して死のうとでも思っていたのだろうか。
蛍の冷光や滝の水しぶきが雲散するように、体ごと、魂ごと無に還りたいと思ったのだろうか。もしくは豪雨や洪水で恋の相手を殺してくださいとでも神に祈ったのだろうか。
いずれにしろ、水の神様に恋愛相談に行くよりは、そっちの方がずっとしっくりくる。
そう言うと千里さんは少し呆れたような顔をした。
「もっと単純に考えてさ、その苦しい思いを水に流そうとしたっていうのはどうかね」
むむ、なるほど。
「まあ、そういう考え方もありますね」
負け惜しみを言ったみたいになってしまった。
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