第6話 竜の角持つ魔界の王子


メルがいなくなって、辺りを見回せば真っ暗だった。メルが持っていたあの透明な玉が、光を放って周りを照らしていたのだ。

一人になって急に不安になる。さっきまでメルと話していたので聞こえなかったが、こうして一人でいると、はるか上の岩肌から何かの鳴き声が聞こえてくるのが分かる。魔界の、コウモリっぽい生物だろうか。

「…どうしよう」

この洞窟が二方向に伸びているのは、さっき見たので分かっている……が、こうも真っ暗だと足を進める勇気も起きない。

闇に、心が押し潰されそうになる。

濡れた全身が冷え始めて、体が震える。

「…シ、シルヴィアを…、探さないと」

そう、口に出して見たけど、足が震えて動かなかった。

前も後ろも闇色しか見えない。

メルはどちらに行ったのだろう。シルヴィアはどうしているだろう。探さないと――。

…ずーーーん、と。

重低音が、聞こえた気がした。

後ろの方から、心臓に迫るような重い音が。

ずーーーーーーん。

ずーーーーーーーーーん。

聞いていると、気が狂いそうな音だった。体が闇に呑み込まれていくような錯覚さえ覚えた。

近づいてくる。何かが近づいてくる。

ずーーーーーーーーーーーん。

震える足を無理やり動かす。走る。走る。走る。真っ暗な洞窟の中を、目を瞑って走る。

あれに捕まったら終わりだと、俺の直感が言った。

二度と、戻って来れないと。

「…宙矢!?」

その声が、おかしな錯覚を打ち破った。

足を止めて顔を上げる。

前方に、青いぼんやりとした光が見えた。

それに照らされた顔は、

「シルヴィア!!」

「宙矢、良かった!無事だったか」

シルヴィアは走り寄ってくる。

水色の髪もブラウスもロングスカートも、俺と同じく濡れているが、彼女にとってはそれが正しい姿なのだと思わせた。水の中で生きていたものなのだ、と。

「シルヴィア、後ろから――」

と、言って気づく。

重低音はもうしない。ぴちゃん、と水の滴る音がするだけだ。

「どうした、宙矢?コウモリにでも襲われたか?」

「い…いや、えっと。魔界にもコウモリっているんだな…」

…俺が怖がっていただけだろうか?だとしたらちょっと恥ずかしい。

シルヴィアの手に浮かぶ水色の光が岩肌を照らす。ただの洞窟、だった。暗いところに一人きりになって、気が動転していたんだろう。

「宙矢もここに流されたんだな。早く出て体を暖めないと風邪を引いてしまう。急ごう」

そう言ってシルヴィアは、俺の手を引いて彼女が来た方向に歩き始める。その強引さは、今はむしろ頼もしかった。

「シルヴィア、出口が分かるのか?」

その迷いのない足取りを見て訊く。シルヴィアは頷いた。

「ああ、こっちが出口だ。道が広いからね。ここはあの入江のすぐ近くにある洞窟なんだ。やたら広いが一本道だし、迷うことはないよ」

そのシルヴィアの言葉に安心する。

「良かった、シルヴィアはこの洞窟に慣れてるんだな」

「…いや」

シルヴィアはしかし、首を振った。

「ここは立ち入り禁止区域なんだ。だからいつもは入らない。小さい頃にいたずらで入ったことはあるから、出口は分かるが」

シルヴィアは足を止めない。話しながらすたすたと、急ぐように早足で進んで行く。

「…え、立ち入り禁止って、何で」

「その…あまり不安に思わないで欲しいのだが、海水の浸食で弱っているらしくてな。崩落の危険があるそうだ」

崩落。

周りを見れば、固そうな岩ばかり。そんなことがあれば、確実に死ねる。

「だから早く出よう。それに、私はセイレーンの子孫だから平気だが、宙矢は風邪を引いてしまうといけない」

「う、うん。…あの、シルヴィア」

「なんだ?」

「ちなみに…奥の方には何があるんだ?」

さっきの恐ろしい感覚を思い起こしながら言う。今もちょっと、後ろを見るのが怖い。

「何って、何もないぞ。ただの行き止まりだ」

「…行き止まり?」

「うん。小さい頃に行ったことがあるが、本当に何もなかった」

「…なんだ、そっか」

何もないのか。魔界だから、何か恐ろしい生物が住んでいるのかと思った…ほっとした。

とすると、本当に俺が怖がっていただけだということか。

そういえば、と今度はシルヴィアが口を開く。

「さっき、何だかすごい光が見えたのだが。私はそれを見て奥に進んでみたのだけど、あれは宙矢か?宙矢は光魔法を使えるのかな」

「ああいや、それは俺じゃなくて、メルが…」

そこで気づく。そうだ、メルはどこに行った?

「シルヴィア、白いワンピースを着た金髪の女の子、見なかったか?」

「え?」

シルヴィアは目を瞬かせた。

「いや、見ていないぞ。誰だ、それ?」

「ええと…」

返事に窮する。誰と訊かれても、俺もメルが何なのか分からない。


「私はシルヴィア王女に会うわけにはいかないんだ」


メルはそう言っていた。何か事情がありそうだった。シルヴィアに言って、いいのだろうか?

「…いや、何でもないよ。それよりシルヴィア、魔法ってその光の玉のことか?」

俺は話を逸らした。言わない方が良い、と思った。シルヴィアに言ったら、ソルデッド家への無断侵入を怒られてしまうかもしれないし。

シルヴィアが見ていないのなら、メルは洞窟の奥に向かったのだろうが、行き止まりだというなら気づいて戻って来るだろう。

「そうか、宙矢は魔法のことも知らないよな。そうだ、これは私が魔法で作ったものだよ。光魔法があればもっと広範囲を照らせるのだが、水魔法だとこれが限界だ」

シルヴィアの手のひらで揺蕩たゆたっている水色のそれは、確かに良く見ると水の塊のようだった。

「魔法って何なんだ?俺も使えるかな」

うーん、とシルヴィアは唸る。

「何、と言われると難しいな。教科書的な回答をするなら、ある種類の魔力を操ってことを為す術法、ということだが」

「えっと、その魔力っていうのは…」

シルヴィアは嫌な顔一つせずに説明してくれる。

「魔力は魔界に満ちているエネルギーだよ。これがないと魔族は生きていけない。魔力にもいろいろあってね、炎の属性を持つ魔力もあれば水の属性を持つ魔力もある。浮遊魔法のように、誰でもが使えるようにするために属性を持たない魔力もある。ほら、人間界と魔界とでは空気が違うだろう?」

「え、そう…なのかな。良く分からなかったけど」

特に何も感じなかった気がするが。そもそも魔力の感じってどんなのなんだ?

「そうか?人間界は空気が薄い感じがすると思うぞ。ああ…でも、宙矢にとっては、むしろ魔界の空気の方が息苦しいのかな」

シルヴィアが心配そうに俺の方を見るので、俺は慌てて否定する。

「いやいや、大丈夫だよ。何も変わった感じ、しないし」

「そうなのか。人間にとっては、魔力は有害だと聞くが……、宙矢は人間の部分と魔族の部分が、絶妙なバランスで成り立っているのだろうな」

そう言われても、目下のところ魔族っぽい部分というのは、突然生えてきた角以外にはないんだけどな。魔界の空気の違いも分からない。

「ええと、魔法の話だったか。私が今使っているのは水魔法だが、種族によって向いている魔法というのがあるんだ。私たちセイレーン族は概して水魔法が得意。エルディ兄様の家は氷雪魔法が得意だったな。妖精族は大抵、風魔法を使うな」

すごい、何だかRPGみたいだ…、小さい頃やったゲームを思い出す。

「俺は、俺には何が使えるかな」

シルヴィアはちょっと首を傾げる。

「宙矢に魔法が使えるかどうかは分からない。宙矢は半分人間だからね。ただ、父上の素質を受け継いでいるなら、きっと炎魔法が使えるよ」

「…炎?シルヴィアが使っているのは水魔法なんだよな?」

「ああ、私は母上の血が濃いからな。というか魔族はみんなそうだ。魔族は母方の血が強く遺伝する。でも、」

シルヴィアは俺の額を――あの、青色の角をちらりと見て、微笑む。

「宙矢は母君が人間だから。きっと父上の魔力を、私たち兄姉弟妹きょうだいの中で一番純粋に受け継いでいる。その美しい竜の角、父上と同じだ」

…竜の、角?

確かにリエルも言っていた、父さんにも同じ角が生えていたと。

「父さんは…竜、なのか?」

「ああ」

シルヴィアは頷く。そして恐らくはその姿を思って、懐かしそうに目を細めた。

「父上は竜だった。もちろん、平時は人型の姿で、竜の姿になったのは前回の魔石レースのときだけだったそうだけど。海の底のような青い角、深い森を思わせる緑の鱗。遠い昔に滅んだとされる竜族、そのものの姿をしていた」

――無意識に、額の角に触っていた。

父さんにそっくりだという俺の角は、鉱石のように冷たかった。

懐かしそうに父さんのことを語るシルヴィア。

ついこの前、亡くなったという、俺の父さん。

そのひとのことを―――俺は何一つ知らない。

急に指先が冷えた気がした。

俺は何も知らないのだ。

父さんのことも、母さんのことも。

一番そばにいたリエルのことでさえ。

…いつだったか、リエルに両親のことを聞いたことがあった。

あいつは困ったように笑って、いつかきっと会えると言った。

……なんとなく、聞かない方がいいのだと思った。それきり何も訊かなくなった。

知らなくても、このままでいいじゃないかと、そう言って自分で自分を騙し続けた。

…さっきの夢を思い出す。

夢の中の女の人は、青い空がいいと言った。

俺はどちらを選ぶだろうか。

十七年間生きてきた人間界。兄姉弟妹きょうだいたちが生きる魔界。

きっともう知らないでは済まされないのだ。いつかは選ばなければならない。

「…シルヴィア」

父さんと母さんのことを訊こうとして、シルヴィアの顔を見る。

しかしシルヴィアは、

変なものを見たような、またはそう、予想外の事態に出くわしたような、おかしな顔をしていた。

「……シルヴィア?」

「…宙矢」

シルヴィアの声は少し、掠れていた。

「あれが出口だ。あれが出口、なんだけど――」

俺は前方を見る。

暗い洞窟に、丸い光が射し込んでいる。まさしく希望の光、というやつで、でも。

何かおかしかった。

分厚い虫眼鏡を通したように、向こうの景色が歪んでいる。

まるであちらとこちらが、分け隔てられているかのように。

「シルヴィア、何がどうなって、」

「結界だ」

シルヴィアは言った。

「結界が張られている―――さっきの噴水、やはり人為的なものか。……閉じ込められた」

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