第5話 歌う人魚の末裔の土地
「し、敷地の中に森…!」
シルヴィアを追いかけて入ったのは森の中だった。さっき門をくぐったのだから、ここは当然ソルデッド家の庭な訳で。
敷地の中に森。ソルデッド家半端ない。
「森と言う程大したものじゃない。もっとすごいものがこの先にあるんだぞ」
シルヴィアは慣れた様子で進んで行く。道は一応舗装されているのだが、それでも歩きにくい。
「あの、護衛のひと置いてきてるんだけど、いいのか」
シルヴィアが走って行ってしまったから、護衛の皆さんが置いてきぼりになったのだ。
「大丈夫だ。ここはうちの敷地内だから、滅多なことはないよ」
本当かなぁ…。シルヴィア、結構天然な感じだから心配なんだが。
シルヴィアは青いロングスカートを軽やかに翻しながら、森の奥へと進んで行く。俺も置いていかれないように、彼女を追いかけた。
やがて開けた場所に出た。
人間界とは微妙に違う木々に囲まれた、見渡す限りの澄んだ、湖。
「湖!?」
敷地に湖!
「湖ではなくて入江だよ。この辺りの海もソルデッドの領だから」
海まで持ってるのか!?ソルデッド家すごすぎる、これが貴族か…。
さあっ、と明るい薄赤色の空から光が射す。雲の裂け目から、日光――いや、太陽のない魔界だから、日光ではないのだろうが――光が射す。そして辺りに、夢のような、七色の光が。
「…虹だ」
「うんうん、今朝は雨が降ったようだから、きっと見れると思っていたんだ」
シルヴィアは嬉しそうに頷く。
「すごい、見せたかったものってこれなのか?」
「ふふ、これだけじゃないぞ、宙矢」
シルヴィアはいたずらっぽく笑う。宝物を見せる子どものように、その目は輝いている。
「ほら宙矢、始まるぞ!」
シルヴィアは興奮気味に入江を指差す。
底が見えそうな程澄んだ水のなか、七色の光に包まれて。自在に舞う影が見えた。
「なんだあれ…!」
入江の向こう側、海の方からいくつもやって来る影は、水面下を遊泳したあと、岩礁の上に姿を現す。
銀色の髪の女のひと――だが、薄絹のような着物を纏ったその姿、下半分がひとではなかった。
「…人魚だ」
濡れた青い鱗が、光を受けて煌めいている。
隣でシルヴィアが静かに言う。
「彼女たちはセイレーンさ。驚かさないように、静かにしてくれ」
セイレーン。聞いたことはある…ような。
「セイレーンは水の精で、歌うのが好きなんだ。そして私の祖先でもあるんだよ」
「祖先…!シルヴィアの…」
そうだ、あの人魚、シルヴィアに似ている。銀色の髪も、頭のひれも。
すうっ、と、岩場の上のセイレーンたちがその麗しい口を開く。
そして湖は、セイレーンたちの合唱祭の舞台に変わる。透明な水のステージ、七色のライト――その中で歌う、人ではない美しいもの。
「歌ってる…」
聞いたこともない、人間には出せそうもない音。旋律も人の音楽とはかけ離れ、理解できないはずなのに。
本能のようなものが、これは美しいのだと告げている。
聞き惚れる俺たちには気付かずに、水辺の精たちは高らかに歌う。
もはや聴覚以外に集中できない。ほんの少しの恐怖を感じながら、美しいという感情に侵されていく。
美しい。惹かれずにはいられない程――
「宙矢!」
腕を捕まれる感覚で夢から覚める。
足先が水に触れていた。
「え…っ」
後一歩進んでいれば、湖に滑り落ちていた?
俺はぞっとして後ずさる。
「ごめん宙矢、忘れていた。セイレーンの声は人には強すぎるのだったな…」
シルヴィアは申し訳ない、と肩をすくめた。
強すぎるっていうのは、つまり、
「…魅了?」
シルヴィアは頷く。
「そう、魅了だ。魔族には、綺麗だと思わせるくらいの影響しかないのだが。宙矢は半分人間だから…」
シルヴィアの表情が、曇っているのに気がついた。
「…ごめん宙矢。危ない目に合わせてしまった。そんなつもりはなかったんだが」
シルヴィアの輝いていた目が、決まり悪そうに地面を見ている。
「その…、本当にすまない。私がもう少し気がついていれば」
「い、いや大丈夫だって!シルヴィアは、この綺麗な光景を俺に見せたかっただけなんだろう?」
シルヴィアが天然で若干抜けていて、でもとても良いひとだというのは、この数時間でよく分かった。彼女に悪気はないはずだ。
「珍しいもの見せてもらって嬉しいよ」
「ほ、ほんとうか?…良かった、うん、宙矢は優しいな。とっても可愛い弟だ!」
「えっ…、ちょっと可愛いは止めて欲しいな…」
可愛いは、男としてはちょっと遠慮したい。
しかし、やっぱりここは魔界なんだな。
魅了の力を持つ水の精とか、元いた人間の世界じゃ絶対見られなかっただろう。
「…あれ?」
セイレーンたちが、いつの間にか歌うのを止めている。
湖の方を見れば、セイレーンたちは一斉に、シンクロして水面に飛び込んで帰っていくところだった。
「あ、あれ?驚かせちゃったかな」
「…?いつもはもう少し遊んでいくのだが」
シルヴィアも首を傾げている。
俺にもシルヴィアにも分からなかったが。
セイレーンたちは危険察知に長けていたのだ。
どーーーーん、と。
間近に滝でもあるような、とてつもない轟音。
さっきまで穏やかに
湖から吹き上がる水柱が見えて、
迫り来る水流の中、俺はシルヴィアの手を逃した。
「宙矢ー?…あれ?」
時刻は午前九時。魔界中心部、荘厳なる王宮の窓のひとつを覗き込む、白い片翼の天使がひとり。真っ白い
「宙矢?どこ行っちゃったんだろ…?」
部屋の主はいなかった。
「宙矢ー、宙矢ー?」
王宮中を探すも、朝賀宙矢は見つからない。
「え!?ほんとにどこ行ったんだ宙矢!?」
王宮の廊下を右往左往しながら、リエルは
「ま、まさかまた誘拐とか?あり得るかもしれない、宙矢は王子だし可愛いしちょっと危機管理甘いし、あああこんなことなら魔界にいて宙矢についておくんだった――」
「…あの、リエルさま?」
神衣を引っ張られ、リエルは彼女の存在に気づく。
小さな妖精の羽を持つ、メイドの少女。
「あ、ビスカちゃん!宙矢見なかったかい!?」
「はい、宙矢さまならつい先ほど、シルヴィアさまに連れられてソルデッド家に向かいました。…いいなあ宙矢さま、ビスカもガルディさまに会いたかった!」
ビスカはむう、とちょっぴり頬を膨らませる。
対してリエルは安心したように溜め息をついた。
「シルヴィアちゃんかあ。まあそれなら滅多なことはないだろう。うん、じゃあ俺は宙矢を迎えに行って来るよ、ありがとうビスカちゃん」
「あ、はい!ふふん、ビスカはプロフェッショナルメイドですから、これくらいお安いご用ですっ」
ビスカは
赤い。まるで血のように赤い、空だった。夕方というわけではなく、魔界の空はいつだってこの色だ。昼は明るく、夜は暗くはなるけれど。
生まれたときからこの空を見てきた俺には、この空が普通なのだが、彼女には珍しいらしい。残念なことに、気に入ってはいないようだ。
豪華な調度品が揃ってはいるけれど、個人の趣味を感じさせない部屋は、城下町が良く見えるバルコニーがついている。あまり自分の意見を言わない彼女が唯一、望んだものだった。
そのバルコニーで赤い空を見上げるのが、彼女の日課。何が楽しいのか俺には全然分からないのだが、彼女は暇なときはいつもそうしている。
かちゃ、と俺がティーカップを置くと、その音に反応したかのように彼女が口を開いた。空を仰いだまま、ぼんやりと呟く。
「どうして、魔界の空は赤いのかしら」
「……どうしてと言われてもな。空の色に意味などないだろう」
「…でも」
彼女はゆっくりと振り向いた。その顔は逆光でよく見えない。
「青いほうが、きれいだと思うのだけど」
「まあ、人間界の青い空はきれいだったが。魔界の空も負けてはいないと思うがな」
彼女はまた振り返って、空の彼方を見つめる。その背中は光に包まれて、今にも消えてしまいそうだった。
「…青いほうが」
よく聞こえなかったが、多分彼女はこう言った。
「白い翼に、良く似合うわ」
「………い、おーい、大丈夫か?ま、まさか死んじゃったのか?どどどうしよう、そこまでするつもりなかったのに」
頭上からの声が、赤い空の幻影を掻き消した。
(…なんだ今の。夢?)
目を開けると、そのかわいらしい声にふさわしい、金髪の少女の姿があった。布を切って縫い合わせただけのようなシンプルすぎる白いワンピースに、くるくるの肩までの金髪。無邪気そうな大きな瞳は安心したように細まった。
「よかった、生きているな?痛いとこないか?」
「え、うん、大丈夫…」
体はびしょびしょだが怪我はない。それはいいのだが、状況が飲み込めない。
そこは洞窟だった。四方どこを見ても、ごつごつした岩肌しか見えない。道幅は結構広いので閉塞感はないが、真っ暗だ。少女が首から下げた透明な玉がほんのり光っているおかげで、周りはどうにか見えるけど…。
というか、俺はシルヴィアと入江にいたのではなかったか?確かその後、入江の水が何故か噴き上がって……、それでここまで流された?
そしてこの子は誰だ。周りにシルヴィアの姿はないし…。
「あの、君は?」
「私か?私は、メ……はっ!」
少女は突然口を両手で押さえた。
「どうしたの?」
「な、名前は…教えちゃだめなんだった。言わない、言わないぞ」
ああ、怪しい人に名前を教えてはいけない、と。しっかり教育されているようだ。
「俺は宙矢。朝賀宙矢だ。これでも一応九番目の王子だから、怪しい者じゃないよ」
「…王子っ!?」
少女は目に見えて慌て始めた。
「王子……どうしよう…、ハザに知られたら…」
「あの、それで君の名前は?」
「えっ……」
少女はしばらくうんうんと悩んだ末、遂に言った。
「……メルだ。メル」
「メルか」
この様子だと本当の名前かどうかは分からないが、とりあえず彼女はメルというらしい。
「メル、銀髪の女のひと見なかったか?」
「ああ、シルヴィア王女だな。見てないぞ」
「え、シルヴィアのこと、知ってるのか?」
メルは明らかにしまった、という顔をした。出会って数分で分かるとはすごいな、どうやらメルは隠し事が下手なようだ。
「え、ええとその、うん、知ってるぞ。名前と顔だけだ」
「…そういえばメル、ここってソルデッド家の中だと思うんだけど、メルはここの使用人か何か?」
「えっ…と、その」
メルは決まり悪そうに目を逸らす。
「し……忍び込んじゃった」
「……だめだよ、メル」
「ごめんなさい…」
…この子、怪しいな。ずぶ濡れなところを見るに、俺と一緒に流されたんだろうけど、ものすごく怪しい。
(…でも、悪い子には見えないな)
一瞬、あの謎の噴水現象に関係しているのかと思ったけど、メルにそんなことができるとは思えない。迷いこんだ近所の子ども、だろうか?
「メル、とりあえず俺はシルヴィアを探しに行く。一緒に行こう」
「………」
メルは眉をひそめて俯いた。
「メル?」
「…行けない。わ、私は、シルヴィア王女に会うわけには…」
「?シルヴィアに会っちゃいけないのか?」
「そうなんだ。理由は言えないけど、私は宙矢と一緒には行けない」
「…?」
メルは顔を上げる。何かを決心したかのように唇をひき結んでいた。
「…ごめん、宙矢!」
「え、」
カッ、と、メルが提げた透明な玉が強く光った。
「メル、何を…!」
辺りは白い光に染まる。
…しばらくして。
洞窟に再び闇が戻ったときには、不思議な玉を持った嘘をつけない少女、メルの姿はどこにもなかった。
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