第一章

第一節 第一楽章 コンサートマスター譜

 『神之輝かんのきミキ』

 私を私だと証明するものは、小学校一年生まで、この名が刻まれたプラスチック製の名札だけだった。

 孤児院育ちの私には、孤児院の先生と、その中での友だちのような人はいたけど、『ような人』というカテゴリーを越える人は一人たりともいなかった。

 私は、孤児院でもかなり特別な待遇を受けていたようで、食事は他の子たちとは別の、それなりに豪華なものが用意されていたし、カウンセリングの先生も私だけは選ぶことを許されていたし、ほとんど禁止される行動はなかった。しかし、唯一、屋外での遊戯のみ禁止されていた。当時の私にはそれだけが謎だった。

 養子に選ばれるような元気で明るく健康的な、いわゆる『よくできた子』は、孤児院の裏社会では全くそんなことはなく、私を卑下し、言刃ことばで罵倒し、ときには暴力を振るうこともいとわなかった。しかし彼らは表向きはいい子そのもの。私の訴えなど、大人たちの心には到底届くはずもなかった。

 しかし所詮、孤児院の子ども同士でのいじめ。

 その週の頭に養子に選ばれ、週末にはお別れするような間柄である。だから、私へのいじめが当然になることはあれど、派手にエスカレートすることはなかった。

 私の身を案じてくれていた、同じ孤児の年上のお姉さんもいたかな。けれど、結局彼女もいじめそのものを解消はできず終いで、めでたく里親に拾われ、孤児院を去っていった。実は彼女もいじめっ子の主犯たちと精通しており、私の慰め役を演じることで、いじめっ子たちが孤児院生活に飽きないようにしていた、ということは彼女との別れ際に彼女の口から直接暴露された。

 そんな出来事をトラウマとして抱えているからかもしれない。どんなに時間が経過しても、私が孤児院での日々を忘れ去ることができないのは。

 そして私がもうすぐ小学生になろうかというときに、彼らは唐突現れ、私を養子として迎え入れたいと申し出てきた。後に私の義理の両親となる人たちだ。

 孤児院と彼らとの契約や、卒院の準備および決行は、ほぼ流れ作業のように事が運んだため、私が動揺する隙もなかった。

 孤児院としては早く私を手放したかったようで、いつもは少し涙を浮かべながら卒院式を執り行う大人たちも、私のときだけ気色が悪くなるほどの笑顔だけを浮かべていた。いまでもあの顔を思い出しただけで吐き気が襲ってくる。それほど、当時の私にとってのそれは、ショッキングな光景だったのだ。


 孤児院を出てすぐ、小振りなファミリーカーの後部座席に案内され、そのなかで運転席に座る男性が、ハンドルを手に前を見ながらではあったが、言葉をかけてきた。

 「本当に、すまなかったね。君はこれから僕らの家族になるんだよ。早速お父さんみたいなことを言いつけるのは少し不自然かもしれないけれど、君を家族の一員にする上で一つだけ条件がある。」

 この人は五才児になにを言いきかせようとしているんだ、と思った感情の記憶は一度たりとも私の脳内から消えたことはない。 

 「うん。」

 私は外の景色に目を配らせながら、生返事で応える。孤児院で屋外に出ることを禁じられていた私の目には、並び建つ家も、狂い咲き気味の桜も、道路も、町も、全てのものが新鮮に感じられて、お父さんを名乗り始めた男性の言葉など、正直最初のインパクト以降は、自分の中では『どうでもいいもの』に格下げされていた。

 生返事を食らった男性は苦笑いの声を漏らしながら言葉を続けた。

 「いいかい?君は僕らの家族だけれど、君のその名前は全部君のものだから、一生大切にしなさい。」

 「わかったー。」

 私の生返事に彼は咳払いを挟んでもう一度言葉を繰り返そうとしたが、助手席にいた女性に止められた。

 「わたしはこれから、あなたのお母さんになるの。どうぞよろしく、ね?」

 お母さんを名乗る女性のその声は、温もりと優しさに満ちていて、私は幼心おさなごころで孤児院の保母さんたちとは“なにか”違うものを感じとった。

 「はーいっ。」

 『母は強し』という言葉を犇犇ひしひしと感じたのだろうか、運転席の男性がため息を吐く。そして、助手席の女性にだけは真正面からの言葉を返した私に告げた言葉。

 「お母さんは僕の奥さんだからね。たとえ子どもでも奪っちゃダメだよ?」

 「大人げないですよ……、“お父さん”。」

 いま思い返してみても、確かにこのときの彼の言葉は、子どもに向けて発するそれとは違うと言わざるを得ない。

 「あぁ、ごめんごめん。お母さんが僕以外の人に興味を示すことに慣れてなくって。つい口走っちゃったんだよ。」

 「ごめんよ、ミキ。」と続ける男性の声音にはさっきまでのような硬さはなく、力の抜けた気楽な言葉に聴こえた。これもやはり孤児院の大人たちとは”なにか”が違うものだ。

 「ううん、平気。」

 私は彼に言葉を返す。

 しばらく沈黙が続き、外の景色も見飽きてきた頃、助手席の女性が孤児院での話を聴かせてほしいと言ってきたため、良かったことから悪かったことまで、全てをありのまま話した。いつの間にかその女性の顔には頬から顎にかけて、雫の通った跡のようなものができていた。なぜ私の話を聴いてそういったものが流れ落ちるのか、皆目見当がつかない。やはり”なにか”が違うということしか分からなかった。

 会話のネタもそろそろ尽きるかというタイミングで、車は信号機すらない十字路を左折し、その細い路地に入ってすぐに見える、目立つ白塗り二階建ての一軒家の前のスペースに車を停めた。

 車を降りる二人に続いて、私もその地に足をつける。

 「さて、着いたよ。ここがこれから僕とお母さんと、そしてミキとで暮らす家だ。」

 「……ここ、表札には”佐乃守さのまもり”って書いてあるけど、本当にここが私のお家なの?」

 表札の名字と自分の名字が異なることに違和感を覚えた私は、それに指を差しながら男性に問う。

 「あぁ、えっとね、これは僕とお母さんの名字さ。読みは、“さのかみ”。」

 「じゃあ私も、佐乃守さのかみミキになるの?」

 私は胸元に付けっぱなしにしてきてしまった名札を見つめながら男性に訊く。

 しかしその問いに答える男性の声音は、孤児院から出た直後のそれに限りなく近いものに変わっていた。

 「いいや、ミキは神之輝かんのきミキのままだよ。車のなかで最初に話しただろう?君はその名前を一生大切にしなさいって。だから、ミキは僕ら佐乃守さのかみ家の娘だけれど、佐乃守さのかみミキにはなれない……、いや、なっちゃいけないんだ。それでも、いいかい?」

 「んー、よく分からないけど、うん、私は神之輝かんのきミキのままでいいんだね。」

 男性は表情に再び微笑みを取り戻し「あぁ、ミキは本当にいい子だ。」と呟きながら私の身体を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。

 殴られるために、叩かれるためにあるのではないかと思わされることはたくさんあった自分の身体だが、腕いっぱいに抱き寄せられたり、大きな掌で頭を撫でられるというのは初めてで、胸の奥底が少しだけくすぐったく感じた。

 その腕が私の身体から離れた瞬間、私はこの二人と逢ってからずっと引っかかっていた”なにか”の正体に気付いた。

 “あい”。

 私に向けられる言葉も声も表情も笑みも、孤児院時代には、なにか空虚さやわざとらしさや嘘っぽさが感じられた。

 だけど、この人たちは違う。

 私に向けられる言葉にも声にも表情にも笑みにも、心からの愛が込められているのだ。

 「これから、神之輝かんのきミキをよろしくお願いしますっ。おとうさん。おかあさん。」

 晴れて私の両親となれた二人は、潤んだ瞳と一緒に満面の笑みを浮かべ、また、私を強く抱き締めてくれた。


 「ところで、おとうさん。」

 「なんだい?」


 「私と一緒に後ろの席に座ってた女の子は、いったい誰なの?」

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