第1部 第3章(6)輜重

 悟郎が朝食を摂り終えた後、時間どおりに幸乃がやってきて、退院手続を済ませる。

 その間、悟郎はロビーの椅子に座り待っていた。

 幸乃が手続を終え、病院を出ようとしているところに、椎名が見送りにやってきた。

「いつでも戻ってきてね」

 椎名がいたずらっ子のような笑みを浮かべて言い、そして、悟郎を抱きしめた。

「戻ってきませんよ」

 悟郎も笑いながら答える。そして、軽く抱きしめ返した。

「ご武運を」

 椎名が悟郎の耳元で囁いた。

「ありがとうございます。椎名さんもお体に気をつけて」


 椎名が見送る中、陰陽局が用意した車両で、悟郎が今後生活の場とする陰陽局の寮へと移動する。もっとも、病院と寮は兵部省が管轄する同一敷地内にあるので、車に乗っていたのは数分だった。

 その間、幸乃は終始無言だった。悟郎の方から話しかけることは特段なかったので、彼は黙ったまま、流れゆく外の景色を眺めていた。

「ついてきてください」

 幸乃はぶっきらぼうに言うと、一人ですたすたと歩いて行ってしまった。ここに来て悟郎は幸乃が何やら不機嫌のようだと気づいた。とはいえ、心当たりがないので、弁解するでもなく幸乃の後ろを追いかけていった。


「ここが小野さんの部屋になります」

 悟郎に用意された部屋は三階にあった。ベッドに机、椅子、クローゼットのみが置かれた簡素な部屋だ。寮というので、悟郎は二人部屋や四人部屋などを覚悟していたのだが、個室で安心した。

「昼食の時間になったら呼びに来ます。それまで荷解などをしていてください」

 時計はなく、また、それ以外に時間を知らせてくれるテレビやラジオなどもなかったので、今が何時か悟郎には分からなかった。荷解といっても、悟郎が持っているのは稽古に出かけるとき背負っていたバックパックだけだ。片付けるにせよ一〇分とかからない。本も特に持ってなかったよな。どうやって時間を潰そうかと考えていた。ふと、部屋の入口を見ると、幸乃が立っていた。

「あれ?」

 何でまだいるのだろう? 悟郎には分からなかった。幸乃本人にも分かっていなかった。

「小野さんて、女たらしとか、すけこましとか、女の敵とか、色狂いとかって言われたことがありますか?」

 随分と人聞きの悪いことを聞いてきた。けれども、悟郎は言われたことも心当たりもなかったので、

「え? ないけれど?」

 と答えた。

「そうですか。失礼します」

 そう言った後、幸乃がため息をつくのが見えた。何なんだろう?



 幸乃が呼びに来たとき、悟郎は上半身裸だった。

「何をしているんですか!?」

 気恥ずかしさもあって、幸乃は責めるような口調になってしまった。頬が赤い。

「何って、筋トレやストレッチをやっているんだけれど…」

 二、三日、体をろくに動かしていなかったので、気持ちが悪くて仕方がなかった悟郎は、腕立て伏せや腹筋、背筋等々を飽きることなくやっていた。

「早く服を着てください!」

「何を怒っているの?」

 悟郎は気になっていたことを聞いてみた。

「怒ってません」

 その言い方が怒っているんだけどな、何なんだろう? 悟郎には見当がつかなかった。


 食堂は、寮から歩いて数分のところにあった。寮は人が出払っていて静かだったが、食堂は大勢の人で混み合っていた。おかず、白飯、汁物などが置かれているところから各自好きな量をよそっている。午前中の仕事を終え、皆くつろいだ表情をしている。

 悟郎も幸乃とともに列に並び、順番におかず等を取っていく。どうやら悟郎に腹を立てているようだが、一緒に並んで食事を取り、隣に座って食事を摂るあたり甲斐甲斐しいと言える。

「しかし、こう食べてばかりで、動かないと太るな」

 悟郎は幸乃が淹れてくれたお茶を飲みながらつぶやいた。

「良かったですね。各種備品を受け取ってからになりますが、体を動かせますよ」

 幸乃が妙に冷たい笑顔で悟郎に言った。

 

 輜重部で、服やブーツ、腕時計、歯ブラシ、石けんなど身の周りのものを受け取った。その後、寮内の各施設を見て回り、リネン類の使用方法やルール等を学ぶ。


 そして、ようやくお待ちかねの体を動かす時間、悟郎の腕が試される時間がやってきた。

 悟郎は体を動かしたくてうずうずとしていたので、この時間が待ち遠しかった。

 一方、試す側では、西方の儀式で生き残ったという悟郎の噂は、既に広まっていた。それ故、悟郎の腕試しはかなり気合の入ったものになった。


 しかし、剣術でも、体術でも悟郎に敵う者はいなかった。やられ放題では面目が立たないとして師範クラスが出てきそうな雰囲気になった。しかし、取り返しがつかないことになりかねないので、悟郎は「流石に疲れました」と言って固辞した。

 状況的には逃げた格好になるのだが、誰も悟郎が逃げたとは思わなかった。

 病院以降ずっと不機嫌だった幸乃も「すごい! すごい!」と喜んでいた。

 ご機嫌取りのためにやった訳ではなかったが、結果的にご機嫌取りができたのなら良かった。結局、何で彼女が怒っていたのか分からなかったが、よしとしよう。悟郎はそう思った。

 腕試しが終わるころには、日が暮れかけていた。


 機嫌の直った幸乃とともに食堂で夕食を摂る。

 寮に戻って、風呂に入った。一番の新参者である悟郎の順番は当然ながら一番最後である。冷たいというほどではなかったが、随分とぬるくなっていた。同じ時間帯に入った者の様子を窺っても誰も熱い湯を足そうとするものはいなかったので、不文律というものだろう。悟郎は素直に従っておいた。一緒に風呂に入っている間も、寮長に命じられた風呂掃除をしている間も、誰一人悟郎に話しかけてくるものはいなかった。

 名蔵なら何も考えずに話しかけるんだろうな、と悟郎は友人の顔を思い浮かべた。


 部屋に戻ると、幸乃が中で待っていた。机の上には輜重部で支給され、これまでのことを書きかけていたノートが開いたまま置いてあり、幸乃はそれを読んでいた。

 わぁっと叫びながら、悟郎は慌ててノートを閉じに行く。しかし、幸乃はにやりと笑い、悟郎が奪おうとするのを拒み、読み続ける。幸乃も風呂に入りたてなのだろう、石けんのいい香りが悟郎の鼻腔をくすぐった。幸乃を意識してしまった。幸乃もそれに気づき、お互い気まずい雰囲気となった。

「悟郎さんて、女たらしとか、すけこましとか、女の敵とか、色狂いとかって言われたことがありますよね?」

「ないってば! 人聞きの悪い!」

 午前にしたやりとりの焼き直しをした。そして二人で笑い合った。


「そうそう、早速ですが、明日、現場に出ます」

 ひとしきり笑い合った後、幸乃が告げた。

「え?! チュートリアルとか受けていないけれど」

「それは明日の午前と午後とで行います。現場に出るのは夕方からなので、まだ時間はあります。大丈夫ですよ、悟郎さんなら。それに、比較的安全な配置につきますので。詳細はまた明日お伝えしますね」

「それと…」

 幸乃は手に持った書類ケースから紙に包まれたものを取り出し、

「遅くなってすみません。万理の遺髪です」

 悟郎に両手で差し出した。

 悟郎も両手で受け取る。

 言葉が出ない。目頭が熱くなり、鼻にはツンとした痛みが走った。一〇日に満たない付き合いだったが、一生忘れることがないだろう。

「ありがとう」

「私の方こそ。万理のことを思ってくれて」

 幸乃の目にも涙が浮かび、そして流れ落ちた。

「葬儀はもう済んだの?」

「はい。悟郎さんが病院にいる間に」

「そうか」

 悟郎は誘われなかったことにわだかまりを覚えたが、同時にほっとしている自分がいるのにも気づいた。

 二人はしばらく無言で万理の死を悼んだ。


「明日は初の現場なので、今日はもう寝てくださいね」

「そうするよ」

 おやすみの挨拶を交わし、幸乃は悟郎の部屋を後にした。

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