第1部 第3章(5)コーヒーとイチゴミルク

「本当にいいのですか?」

 陰陽局局舎を後にして幸乃が悟郎に尋ねた。幸乃は言外に、考え直したらとの意を込めた。

「それ以外に道はなさそうだからね。ありがとう、気にかけてくれて」

 幸乃に悟郎は微笑みかけながら言った。幸乃の良心がさいなまれる。

「ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします、先輩」

 幸乃の心を知ってか知らずか、悟郎はおどけて大仰に言い、ぺこりとお辞儀をした。

 気丈に振る舞ってはいるが、本当は心細いのだろう。右も左も分からない世界に放り出され、殺し合いをさせられ、心を、体を休める間もなく、今度は仕事を押しつけられる。心細くないわけがない。私が守ってあげなければとの思いを、幸乃は新たにした。

 

 悟郎は幸乃とともに病室に戻った。医師の診察を受け、問題が何も見つからなかったので、明朝退院することとなった。手続きや準備がありますので、と幸乃は日が暮れる前に帰って行った。

 悟郎担当の看護師、椎名が食事を運んできてくれた。

「どこも具合が悪くないのに、ベッドの上でご飯を食べるというのはどうにも落ち着かない」

 悟郎が愚痴をこぼす。椎名はそれに微笑みをもって答えた。

「おかわりをお持ちしましょうか?」

「え? いいの? 病院の食事っておかわりできないかと思った」

「食べ過ぎはよくありませんが。食べ盛りですものね。何をお持ちしましょうか?」

「ではお言葉に甘えて、ご飯とお汁と焼鮭と…」

「もう一食お持ちしますね」

 椎名が笑いを堪えながら言った。


 食事を終え、しばらく休んでから風呂に行く。そうすると、後はもう寝るまですることがない。けれども、ベッドに横になっても眠れそうにない。

 散歩にでも行こうかと思い、病室を出る。病棟を出るのは無理だろうから、病棟内をうろうろとする。他に入院患者はいないのか、病棟内は静まりかえっている。

 何か気が滅入るな、戻ろうかな、と思ったところ、椎名と出くわした。

「眠れないの?」

「ええ。あまり体を動かしていないので」

「じゃあ何か飲もうか?」

「え? いいですよ、そんな自分で…」

 言いかけたところで財布を持っていないことに気づいた。万理から返してもらった私物の中に財布はあったが、持っていたとしても向こうのお金は使えないだろう。万理のことや儀式のこと、向こうのこと等を思い出したら気が滅入ってきた。

「そんなつれないこと言わず、お姉さんにおごられなさい」

 悟郎の反応を見止めて、椎名が冗談めかして言った。

「…それでは、お言葉に甘えて。ご馳走になります」


「何にする?」

 談話スペースにある紙パック飲料の自販機を前にして、椎名が悟郎に聞いてきた。

「それでは…コーヒーを」

「了解」

 自販機からパックを取り出し、椎名が悟郎に手渡す。

「私は…と」

 椎名はイチゴミルクを選んだ。自販機から取り出し、手近な椅子に座る。悟郎はその向かいに座った。

「どうぞ、召し上がれ」

「いただきます」

 何か話をしなくては、と悟郎は考える。おごってもらっているのに、黙々と飲んでいては流石に気まずい。

「椎名さんは…」

 何を話すかまとまらぬまま悟郎は話し始める。

「イチゴミルクなんですね」

 椎名が吹き出しそうになるのを堪える。堪えたがためにむせてしまい、咳を繰り返す。


「気管に入るところだったよ」

 目元に浮かんだ涙を拭いながら、椎名は言った。

「すみません」

「いいよ、いいよ。ようやく何か切り出すかと思ったら、イチゴミルクって言うから可笑しくて」

「すみません。見かけとのギャップが。可愛らしいなって思ったので」

「えええ?! 口説いているの?」

「違います! 違います!」

 悟郎は慌てて否定する。あたふたとする悟郎を見て、椎名は声を出して笑った。


「ありがとうございます、気を遣ってくださって」

 椎名は紙パックを弄びながら、

「悟郎くんってそういうところ可愛げがないよね。そこが可愛いのかもしれないけれど」

 椎名の矛盾した言葉に戸惑いながらも、悟郎は続けた。

「椎名さんは僕の事情をどれくらいご存じなのですか?」

「ん…。おおよそは聞いているし、君の体の傷を見て分かることもある」

「何だかおかしいんです。傷の治りが早すぎるし、何人も何人も人を殺しているのに、千道さんだって僕が殺したかもしれないのに、元のところに戻れるかどうか分からないのに、あまり現実感がないんです」

「最初のは私の口から言えることは何も…。後のは、悟郎くんはびっくりして、緊張しているんだよ。頑張って、頑張って、踏み留まっているんだよ、何とかしようって。悟郎くんは大丈夫だよ、だって、目が生きているから。

 仕事柄、普通の人が直面するよりも何倍も多くの人の死に立ち合うのだけれど、すごい重傷で助からないかもって人が助かったり、反対に、危険性の低い手術のはずなのにあっけなく死んでいったりするのよ。すると、段々分かってくるの、大丈夫かどうかって、もちろん、口にはできないけれど。あ、今、口にしちゃった…。まぁ、いいか!

 やっぱりね、目が生きている人は違うよ。それでも、死んでしまうことはない、とは言わないけれど。それでも、やっぱり目が生きている人は違うよ。

 あれ?! そうすると大丈夫じゃないのかな?」

 椎名が首をかしげる。

 その可愛らしいさまを見て、悟郎は笑った。


「あれ? そう言えば、ここの支払ってどうなっているのですか? 一人部屋って高いんじゃ?」

 三〇分ぐらい他愛のない話をしていただろうか、悟郎は唐突に疑問を口にした。

「そんな細かいことはいいじゃない?」

「細かくないですよ。旅先で病気になって病院に行ったら、何十万円もしたって話あるじゃないですか。僕、こちらの保険証持ってませんし」

「やっぱり細かいじゃない。まぁ、でも真面目に答えてあげる。ここは兵部省管轄の医療施設なの。私も看護師ではあるけれど、同時に兵部省の職員でもあるの。兵部省医務局局員。

 話が逸れたわね。ここの支払については気にしなくて大丈夫よ。陰陽局から書類が回ってきているから、あちら持ちね」

「そうですか。とりあえず、支払ができずに債務奴隷に転落ってことはなさそうですね」

「…」

「何で黙っているんですか! 債務奴隷あるんですか?」

「冗談! 冗談! 債務奴隷はないわよ。ちょっと捕まって、ちょっと負債分+罰金分強制労働をさせられるだけよ」

「…」

「冗談! 冗談! ちょっとからかっただけ。そんな怖い顔をしないでよ。

 あ! もうこんな時間! そろそろ部屋に戻りましょうか?」

 椎名はばつが悪そうに、露骨に話をそらす。立ち上がり、空の容器を捨てながら悟郎に言った。

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