第1部 第2章(7)靄

 死体の中に隠れていたのか、男は悟郎がふらついた隙をついて悟郎の頭部目がけてけりを放った。

 辛うじて悟郎は左腕でガードするが、ミシリと嫌な音がした。刀の間合に持ち込もうとするが、男は追撃を悟郎に加える。顔面を強打され、悟郎は仰向けに倒れる。気が遠くなる。しかし、ここで意識を手放せば、確実に殴り殺される。悟郎は意識を手放すまいと必死に堪える。

 悟郎が幸いだったのは、太刀を手放さなかったことと、倒れたことによって男との間に距離ができたことだ。


 悟郎はここにきて初めて男の姿をまじまじと見ることができた。男は得物を持っていなかった。のみならず、上半身は裸、下半身はボクサーパンツという正気を疑うような格好をしている。手にはバンデージを巻いており、それでは得物を握れても、うまく操ることはできまい。 肌が浅黒く、彫りの深い顔立ちをしているので、外国人かもしれない。あるいは、悟郎と同様に召喚されてきたのか。顔には乾いた血がこびりついている。


 グラップリングが不得手なのか、太刀を持っている悟郎を警戒してか、遠巻きに足を目がけてけりを放つ以外、攻撃を加えて来ない。

 少し休ませてもらおう。

 悟郎は相手が攻撃を加えてこないのをいいことに、太刀を持つ右手で相手を牽制しながら、呼吸を整える。

 けりを受けたとき、左上腕の骨にひびが入ったようだ。ズキズキと痛み、太刀を握れない。長引かせれば、腕の痛みで意識が朦朧としてくるかもしれないので、あまり長くは休めない。


 観覧席から罵声が浴びせられる。主に悟郎に対してだ。

「いつも万全な態勢で臨めると思うな」

 師匠が口癖のように言っていたのを思い出す。

 槍がない、疲労が蓄積している、左腕が痛む等々不利な点を挙げていけばきりがない。しかし、重傷は左腕、左太ももの傷はまぁ何とかなる、槍はないが、太刀がある、短刀がある、棒手裏剣も残っている。


 上体を起こし、左腕をついて立ち上がる。鋭い痛みが悟郎を襲う。これで左腕は完全に折れただろう。

 男が間合を詰め、今度こそとどめを刺そうと拳を放ってくる。左腕が言うことを聞いてくれないので、左の防御が甘くなる。太刀も片手では思うように振るえない。また、懐に入られてしまっているので、利点を活かしきれない。

 男が顔面を狙って拳を振るう。悟郎は半身になったが躱しきれず、拳が左頬をかする。

 相手の頭が近づいてきたので、そのまま頭突きを食らわせる。相手は頭がむき出しなのに対し、悟郎はテッパチを被っているので、その分悟郎が有利だった。相手は堪らずに上半身をのけ反らせる。そこに悟郎は太刀の柄頭で相手のこめかみを殴った。

 

 こめかみからミシリと音がした。男がうめき声を上げ、よろける。

 好機とばかりに悟郎は右手の太刀で男を袈裟切りにする。しかし、片手では力不足で、男の骨を断つことはできなかった。矢継ぎ早に腰だめにして腹部を狙う。

 狙い違わず、悟郎の太刀が男の腹部を貫き、鍔で止まった。男が苦痛のあまり苦鳴を上げ、暴れ、拳を振り回す。

 振り回した拳が悟郎の目元をかすめる。手打ちだったので、大した威力はなかった。しかし、当たり所が悪かったのだろう、目の前が突然靄がかかったように白くなった。

 しまった! 

 心臓が跳ねる。このまま、離れてしまったら、相手のいい的だ。逃すまいと、悟郎は右手を太刀から放し、男の腰に抱きつき、押し倒す。相手の腹に刺さったまま抜けない太刀が邪魔だったが、男を逃さないように馬乗りになって、ひたすら殴打を加えた。殴りに殴る。短刀を逆手で抜いて、ひたすら刺した。下から物音がしなくなったものの、恐怖から短刀を振るうのを止められなかった。

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