月光奏鳴曲 ( ムーンライト・ソナタ )

日野 哲太郎

第1話



           いかがお過ごしですか?

           ときには空想という小鳥を

           常識という鳥籠からはなしてみる

           のも

           よいものです。

           さて

           翼をひろげた小鳥は

           どのような歌をさえずるでしょう

           か?

           お楽しみに!


              *


  わたしは爪を噛みながらつぶやきます。


  もういいかい?・・

               ・・「マアダダヨー」

もういいかい?・・

               ・・「マアダダヨー」

  もういいかい?・・

               ・・「マアダダヨー」

  もういいかい?・・

               ・・「モーイイヨー!」


  ☆サッと舞台の幕がひらかれました。


  ピアニストが「月光奏鳴曲」を演奏しています。

  でも暗くて、ピアニストの顔がよく見えません。

  わたしはやっきになってピアニストの顔を見ようとします。

  幕は開かれているのです。

  ピアノは鳴りひびいているのです。

  たしかに鍵盤のうえには

  川岸をあらうさざ波のようにしなやかに指が波うっています。

  いやいや、まってください。

  あれは、古びた柱時計の音なのでしょうか?

  突然いくつものボンボン時計が

  そろって十二時を打ちはじめたように聴こえてきました。

  でも、このソナタはたしかに「月光」です。

  ききおぼえがあるのです。

  ピアノの音色はシャボン玉に戯れているような儚い光にかがやいて、

  山のてっぺんから麓へと駆けおりるように木魂しながら深くひびきわたります。

  森はさざめき

  河はしめやかに歌い

  梟はrhythmをとるのです。

  このピアニストはきっとりっぱな人物であるにちがいありません。

  青き心のなかを、ひばりのように音は飛翔してゆきます。


  さて、いまは夜。

  あざやかな色彩の夢にわたしは抱かれているのです。

  やすらかなしずけさのなかで、コンコンと音をたてています。


  わたしは、ボールペンで牛乳壜をコンコンとたたいていたのですが、

  どうやらその音が、夜の気安さを呼びさましてしまったらしいのです。

  灰皿の火の子はおおはしゃぎです。

  すきま風までが笑っています。

  どこかに人生を笑わせているものがあるのです。

  血でそまった煉瓦はおどりだし、

  ゆれているカーテンの奥で、窓辺からしのんできたタイケの行進曲が

  ゆるやかに地下へともぐってゆきます。

  安眠をさまたげられた天使は、うるんだまぶたをこすりながら

  胸をひらいてのびやかにあくびをします。

  うつろな時間はひろがり・・

  絵からぬけでたルノアールの裸婦が部屋のベッドで笑っています。

  おどろいた心はこわばって岩のような重量をたもち、

  思い出の糸をたどりながら霧の裏通りをあるいてゆくと、

  濡れた石ただみの路地裏で

  「あの娘」のすがたを彫りこんだ等身大の大理石に

  ぶつかりました。

  彼女は、アングルの『泉』のように壷を肩にかかえて立っていました。

  そこから流れおちる水はしかし透明ではなくて紅いのです!

  その瞳は涙にうるんでいます。

  わたしは、うちひしがれてひざまずきました。


  すると突然、舞台に煙がたちこめたのです。

  たいへんです!

  子馬のしっぽに火がついたのです。

  サイレンがクルクルと回りはじめました。

  おもちゃ箱からガタガタと消防車が出てきて火もとに水をかけました。

  しっぽの火はたちまちのうちに消えましたが、

  おやまあ!

  こんどは子馬がびしょ濡れになってしまいました。

  窓ごしにそれを見ていた笑いじょうごのキラキラ星は

  おかしくてたまらずにプププッと噴きだしてしまいました。

  キラキラ星の口もとからは流れ星が飛びだして

  花火のように夜空をかざりました。

  火事の原因は、たばこの火の不始末でした。

  鉛筆で紙の子馬にしっぽをつぎたしてやると、

  子馬はさっそうとして草原をかけだしました。


  傷ついたレコードの盤の上には、親指ほどの背丈の小人が倒れています。

  これから旅に出ようとするやさきに右足を挫いてしまったので、

  小人は傷ついて不用になったレコード盤の上でからだをやすめていたのでした。

  それにしても、運の悪いときには悪いことが重なるもので、

  カーテンがふわりとおおきくふくらんだかと思うと

  そこにオシャベリカラスが舞いおりてきたのです。

  なにもする事がなくて退屈していたカラスは、

 「看病してあげようカァー」と鳴きながら傷口をつつきました。

  小人は声もなくかがみこみました。

  かすかな涙がビーズの首飾りを切ったようにこぼれおちてゆきました。

  そのまあるい光の玉がレコード盤のなかに吸いこまれていったかと思うと

  こわれた蓄音機がまわりはじめ、

  わすれかけていた『月光奏鳴曲』が、

  夜ふけの雲間からあふれでた月の光のように

  暗闇の拡声器をとおして喨々と流れてきたのです。

  カラスはおどろいて逃げだしました。

  ところが小人は、立ちあがることもできずにうずくまっていました。

  花瓶に挿されたヒヤシンスの花びらからふりおとされただけでも

  たいそう苦しんだのに、

  そのうえカラスのするどい嘴でつつかれて

  小人の足は赤くはれあがっていました。

  これでしばらくは旅に出られそうにもありません。


  しかし、

  その涙をやさしく吸いとってくれたものがあります。

  それは「月光奏鳴曲」のうるわしい調べです。

  蓄音機はすでに回転をとめていたのですが、

  小人の耳にはそれが、カーテンのかなたの星空から

  天のおとずれのようにひびいてくるのが、はっきりと感じられたのです。

  うつくしい心根の小人は、マリア様の胸に抱かれた子どものように

  しだいに心はやすらいできました。そしていつしか

  音に翼をえたかのような旋律を口ずさみはじめたのです。

  それがどことなく哀し気になってしまうのは

  しかたのないことでしたけれども、

  小人は一所懸命に清らに澄みきったアリアを歌いはじめたのです。

  その声は花の心を伝えるようにあたたかく

  その旋律は星にとどくほど気高いので、

  それを耳にした人びとは幼い日々を思い出し

  ゆりかごにゆられている赤ん坊のようにうっとりとしてしまうのでした。

  消しゴムでかきけされてしまいそうな美しい魂の抱擁があります。

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