意識の散歩

 散歩をしている。俺じゃない。誰かだ。あそこを歩いている誰かだ。PCから目を離して窓から見下ろすと、見覚えのある初老の女性。

 日曜にこの窓からよく見る女性だ。

 犬を連れていることもある。今日は連れてない。何故だろう? ……そういえば昔、俺も犬を飼っていた。変な名前の犬だった。大きな身体の犬だった。大好きだったが、俺よりも姉に懐いていた。俺のことは認めてくれなかった我が家の自尊心ほこり高き愛犬。

 祖父が『ジガ』と名付けた犬。


 女性は緑道をゆっくりと歩いていく。

 よく散歩なんてする気になるなぁ、と不思議に思う。子供のころから思っている。


 祖父も散歩が好きだった。

 目的なく、かといってフラフラと所在なくうろつくといった風でもなく、はっきりとした足取りで終点なく歩き続ける。

 俺はそれが不思議だった。目的がないのに明確というのが理解できない。一度だけ、祖父の散歩に着いていった。

 そこで祖父に訊いた。祖父は笑った。

「理解できないのは、まだ自分が曖昧だからだろう。けれど、お前は散歩に向いた人間だよ」

 なんでと訊いた。

「お前はよく気付く割に、普段はぼんやりしているからな」

 よく解らなかった。

 祖父は気儘に歩き続けた。この道は通ったことがないというだけの理由で、その道に踏み入り、面白い名字の表札があると言って、その道を選んだ。

 祖父はハキハキとした足取りで、「ここはどこだ」と迷いながらも歩き続ける。

 俺は途中で見かけた珍しい名字の由来を考えることに没頭しながら、淡々と祖父の後に着いていった。

「ほら、またぼんやりと考え事をしている」

 祖父が、ふと俺に向けて言った。

「そういうところが俺に似ているから、お前は散歩に向いているんだ」

 よく解らないけれど、それはなにか嬉しかった。


 窓から空を見上げると、天気予報に反して、どうにも雲の色が悪い。夕映えしつつもこのあたりだけ散歩には向かない天候となりそうだ。

 陽光と雨の気配。奇妙な空模様。

 なんだか姉の結婚式を思い出す。

 

 子供のころの姉は「晴れは好き、雨は嫌い」と明瞭はっきりとした性格で、何事も明確にしたがった。無意味なこと・目的のない行動を嫌った。

 そんな姉は祖父のことが好きで、「とうさんよりおじいちゃんが好き」と明言して、親父を密かにへこませたりした。

 姉は、よく祖父の散歩に同行していた。あの性格の姉がなんで散歩を好きなのか俺には理解できなかった。

 結婚式の日。雨の予報のその日。俺は姉が水面下で不機嫌になるだろうと予想しながら、式場に赴いた。

 久々に会う姉は、予想に反して機嫌が良かった。家族の特性で、それが表面的なものではなく本当のものであると解った。

 二人だけで話すわずかな間が、式の後にあった。

 とはいえ、姉弟仲が格段いいわけでもなく、おめでとう以外に話すべきことも見つからず、俺は思いついたことを口にした。

 なんで散歩が好きだったのか。

「散歩は嫌いだったけど」

 姉は答えた。

「おじいちゃんは好きだったから」

 俺は納得した。

「今は散歩も好きだけどね」

 式場の外の落ちる日と雨を背に、姉は穏やかに笑った。

 

 緑道をなぞる初老の女性の後ろからランドセルを背負った子供たちが走っていった。鬼ごっこをしているらしい。追って追われて。女性は子供たちにそれとなく道を譲った。

 大して広くもない道での混雑を眺めていると、さらにその背後から子犬を連れた少女がやってきた。

 俺はその犬に見覚えがあった。

 それで俺は「ああ、よかった」と安堵した。

 

 ある日、いつものように母さんと散歩から帰ってきたジガは体調を崩し、一週間後に亡くなった。最期の一週間。姉は決意したようにジガに近づかず、逆に俺は執拗なまでジガの隣にいた。

 それでもジガは俺に懐く素振りは見せなかった。それまでと同じく、「なんだ、お前は」といった瞳で俺を見ていた。最期の最期まで、それは変わらなかった。


 小型犬を連れた少女は祖母らしき女性に合流した。そして傘を渡す。折りしも雨が降り出した。女性が広げた傘の下、二人と一匹は道を引き返してくる。

 雨に晒された少年たちも賑やかに道を引き返してくる。

 それぞれが家に帰っていく。

 それぞれの足取りで帰っていく。


「親父の名付けた犬は、最期まで親父に似ていたな」

 俺と同じくジガから常に不信そうに見られていた父さんは言った。

「弱っても意見を変えなかった。頑固だ」


 雨が入らないように、俺は窓を閉めた。雨粒を後目に、夕暮れだけが部屋に入り込む。今日もまた散歩を好む人の感覚は解らなかった。

 

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