地上にたどり着く日6
「っ……、回れ回れ風よ巡れ、吹け、飛ばせ!」
魔術師は王子様がやったことをすぐに気づいたのだろう。いち早く風で霧を飛ばす。
息ができなくなったことにより床の上で悶え苦しみ、震えるだけになった犬野郎を見ればこのままだとどうなるかは明白だ。
肺が損なわれるのは痛い。けれど、クレムナムの化物は肺がなくなったくらいで死ねない。
生きていたときの習慣で息をし、息ができなくなると
床の上でとうとう動かなくなった犬野郎も、まだ息をしないで動けるということを身に染みて知らないのだろう。
「少し、足りない」
犬野郎が前に出て大量に霧を吸ったことと、魔術師の対処が早かったこと、彼らの立っている場所……それらすべてのおかげで、魔術師と熊男は肺に穴を開けただけで済んだらしい。
浅く速い苦しそうな呼吸をし胸を押さえ咳き込んでいるが、まだ立っている。
王子様がいうとおり、少し霧が足りなかった。
「この身は狼の一滴、呪いの血、クレムナムの命水。我が身に近きこの霧は血の霧、クレムナムの呪い、狼の血。いまだ我が身であるならば、集え、形作れ!」
王子様が化物だと実感するには十分すぎる呪歌である。謡うことで、まだ自分のものである霧で腕を一本作り上げたのだ。
霧があっという間に集まり、右腕を作った王子様を魔術師と熊男はどういう気持ちでみたことか。想像は難しい。
ただ、熊男がようやく諦めた。
「あれはもう殿下ではない」
諦めが悪かったのは魔術師だ。
「だが殿下は殿下だ……!」
おそらく理想と現実の違いだろう。魔術師は熊男より王子様に近しく現実の王子様を知っており、熊男は理想の王子様しか知らなかった。
熊男にとって化け物になった王子様はもはや王子様ではない。
熊男は拳を握り、その場で数度跳ねると走り出す。
「待っ……!」
しかし魔術師にとっては、王子様は今も王子様でしかなく、化け物であっても王子様は変わらず魔術師の知る殿下だった。
熊男を止めようと魔術師の開いた口が、固まる。ヒュッと息を吸う音がしたかと思うと、急に吐き出すような、喉に何か詰まっているような咳を繰り返す。
「混ざれ混ざれ奥まで混ざれ、内腑を食らえ。溶け滲み混ざった霧よ、呪いの血よ、毒よ」
王子様が片腕しか作らなかったのは、犬野郎に使ったからというだけではない。まだ、使えると踏んだからだ。
油断していた魔術師は、叫ぶことにより霧というには薄すぎる毒を吸いすぎた。
「殿……か……」
身体を守るように丸めながら、魔術師は跪く。
熊男は目を大きく開き、後退してやり過ごそうとした王子様との間合いを一気に詰める。
振り返らずとも魔術師の状態を苦しげな咳と、切ない声で気づいたのだ。
「我らは勝手に信じ勝手に期待した! しかしこれは、あんまりだ……!」
熊男の嘆きは、鋭い一撃となって王子様の顎下に
掠るだけでも王子様の頭は揺れた。
フラフラと後退する王子様の顔に横からもう一撃、拳が迫る。
相棒の危機に床に転がっているだけというのはさすがにまずい。
俺は思い出したように、呪いを紡ぐ。
『この身はクレムナムの呪い。剣の呪いは未だ解けず、仮の使い手も未だ呪われる』
熊男を後ろから襲うような軌道で剣は仮の主人へと飛んだ。
不意の一撃であったが、真っ直ぐと仮の主人へと向かう軌道は単純である。熊男は図体に見合わぬ身軽さで剣を避けた。
そうして熊男が剣を避けてくれたおかげで、王子様は拳を受けずに済んだ。
「……俺たちは、化け物だ」
大きくもなく小さくもない王子様の声が、荒れた人魚屋にこぼれる。
それはずっと曖昧にしてきた王子様の答えだった。
とうとう床に蹲った魔術師が苦しそうに顔を上げ、熊男が拳に力を入れる。
奴らはずっと地上に帰ることを望み、生き返ることを信じ、王子様の同意を得ようとしてきた。
これは王子様のはっきりとした拒否だ。
「だから、止めなければならない」
頭を小さく振りつつも、王子様は剣の柄をしっかり持ち、構える。
片腕を使ってしまい、思うように剣を振ることができないのだろう。王子様は仕掛けなかった。
「それが王子としての最後の仕事だ」
俺が王子様に強要しただけならば、王子様もここまで奴らを痛めつけたりしない。
自らが化物であるということを示すために、必要以上の残酷さを見せたのだ。
熊男は決心するようにもう一度拳を握りなおすと肘を引いた。素早く正面から王子の懐に入るように踏み出し、王子様の腹に向け拳を突き出す。
「光れ走れ天の子よ、叫び嘆き我が敵を
王子様も一歩も引かず前に出ると、構えた剣を盾に短く唱える。
熊男の拳は剣に当たり止まり、呪文が短く威力は低いが至近距離で避けづらい雷の魔術は熊男に直撃した。
「それ……も、だから……そ……」
熊男は体を震わせすべて諦めたかのように傾ぐ。
熊男は諦めたはずの望みが声に乗ったのは悔しさだろうか。
最後まで地上に帰りたいとはいわなかった王子様は、すっかり動かなくなった奴らを見てため息をつく。
そして人魚屋の狭い階段を見つめた。
まるでその先に地上があるようだ。
おそらく王子様のその姿を、人は寂しいというのだろう。
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