地上に辿り着く日3

 すると医院長は待ってましたと嬉しそうに口を開いた。


「それでっすね、今回は薬を大量に入手できたとかで、あっしも仲間に誘ってくれたんすよ。薬をチラつかせながらね?」


 まるで客を捕まえるために薬を与える売人のようだ。


 犬もどきが路地裏にたむろしていた連中ならば、さもありなん。連中はつらい現実から逃げるために薬を多用していた。そういった手口も抵抗なく使う。


「なかなか性質が悪ぃな」


 もしもその手口で連中を犬もどきにしたというのなら、なるほど、薬物は有効な手段である。

 何せ普段から飲んでいるものだし、連中も積極的に仲間を増やしたことだろう。


「まったくで。しかもあわよくば増産でもさせたかったんしょうねぇ。渡されたぶつは魔術薬っしたから……おや、どうかしやしたか?」


 魔術薬ということばを聞いた瞬間に王子様が真っ青な顔を上げ、立ち上がった。

 ぎこちなく医院長のほうをむき、王子様は何度か息を吐き出し、やがて声を吐き出す。


「それは……錬金術、か……?」


 薬物といえば、地上では薬師か錬金術師が調合するのが一般的だ。

 しかし、もう地上にはほとんど残っていない方法がある。


 昔もそれほど数居たわけではないが、現在でも本当に少数のものが使うまじないの技法だ。


「いえ、伝統的な……まじないの類すよ。魔女の作るような、魔術薬っした」


 それを聞くと、王子様は俺たちに背を向けた。


「この不敬には後ほど、いくらでも罰を!」


 叫んで王子様は走り出す。

 俺は王子様が謁見の間を走り出したのを見送りかけ、首をひねる。


 王子様が叫んで走り出す要素がどのあたりにあったのか。


「魔女の魔術薬……魔術……魔術師か!」


 あの真面目な王子様が不敬を働き、まともな挨拶もせず走り出さねばならない事態……それは、この水底にはない。


 王子様は自らの価値を王族であることに見出している。自分自身も大事にできず、今まで大事にしてきた民だった者にもうまく笑えない。


 そんな王子様が焦らねばならないことは、何処にあるのか。

 湖の外、地上の国、かつて王子様の価値があった場所だ。


 それは、この水底にも流れ着いていた。


 そう、たとえ死んでいたとしても、俺から見ればすでに元国民であっても、そいつは王子様にとってまだ国民なのだ。


 地上の、王子様がおいてきたもののひとつである。


「悪い、また後できく!」


 俺は舌打ちをし、王子様を追いかけ走り出す。


「え、イナミさん、ちょ……っ」


「あら、兄様ったら……」


 急に駆け出した俺たちに女王と医院長が驚き声を上げたを無視し、俺はだんだん小さくなっていく王子様の背中を追いかけた。


「なんですぐ気づかなかったんだ……っ」


 魔術は地上にあふれている。

 魔術を学ぶ場所があり、日常生活で使われ、日々研究されているからだ。


 では魔術師という職に就いている人間は多いのだろうか。

 これは否だ。だからといって少ないというわけではない。


 その魔術師の中で優秀といわれる者、ある一定魔術が使え、特殊な技能を持つ者が城にあがることになる。


 どうしても人魚屋に行きたい王子様の知り合いは、城に召し上げられた魔術師だ。

 そうでなければ王子様と知り合う機会はほとんどない。


 城に召し上げられるような魔術師が魔女の魔術薬を作る。ありえないことではない。


「くっそ、あの王子様、足速ぇな!」


 しばらく走った廊下の真ん中、俺は叫んで立ち止まる。

 王子様の背中はあっという間に見えなくなった。


 いくら謁見の間からまっすぐ走れば外に出られるとはいえ、扉がいくつかある。昼間、そのほとんどは開かれているが、それでも一つ二つは閉まっていた。


 おかげで俺は見事に王子様を見失ってしまったのだ。

 俺は眉間に皺を集めながら、頭を抱える。


 あの反応から考えるに、王子様はその魔術師が魔女の魔術薬を作れると知っていた。


 走っていって、止めるのか問いただすのかはわからないが、あの王子様のことだからこちらが悪いようにはしないだろう。


 しかし、俺は王子様を追いかけねばならない。

 その背中が見えなくても、王子様に追いついて冷静になれといい含めなければならなかった。


「あの状態でどんだけ理性が持つってんだよ、あの王子様は……」


 夜者でさえ餌にしようという食欲の持ち主に、空腹で知人を襲わせたとあっては深化しんか待ったなしである。


 そうなると王子様は実に厄介な夜者になるに違いない。

 食欲のまま食らいつき、その高い能力を遺憾なく発揮する。あっという間に鱗街の人は食い散らかされるだろう。


 けれど、いつまでたっても腹が減ったと自己申告をして餌を遠ざけるような王子様に、それは酷なことだ。


 理性を失い、我を失い、食い散らかした後に、不意に擦り切れた自我が瞬きをする。すると最低最悪の化け物が嘆き、深化が進む。


 人の手に負えぬ災厄の出来上がりだ。

 すると、それを消滅させるのは俺の役目になる。


「そんなんつまんねぇし、あんまりだ」


 たかが数日、されど数日。


 王子様の空腹に脅かされ、時に助け、時に一緒に駆けずり回り、昨日から今日にかけては夜を徹して一緒に仕事をしてしまった。


 仲良くやってきたつもりだし、黒い冗談だっていい合う。


 ちょっと前には踏み込んだ話までしたというのに、そんなあっさり深化したから消滅させろだなんてふざけんなとしかいいようがない。


「化け物だって少しくらい情ってもんがあらぁ」


 俺は抱えた頭を小さく振って、再び城の出口を目指して走り出す。

 王子様は見失ってしまったが、その行き先はわかる。


 王子様の知り合いがどうしても行きたがった人魚屋だ。

 それくらいしか王子様にもあてがない。


 そうなると王子様は転移屋を使うはずだ。金はないが騎士の権力を使えば転移をしてもらえるし、一、二回ならつけてもらえる。


 大蛇に飲み込まれる方が速いし安いのだが、その手段は俺がいるから使える手段だ。

 弟はけして親しくもない王子様のために口を開かない。


 俺は目的地を決め、駆ける速度を上げた。

 目指すは人魚屋、使うは弟だ。


 転移屋は大蛇の頭より城から遠い場所にあるし、緊急でなければなかなか手続きも面倒くさい。


 転移屋で捕まえるとなると城下街の転移屋の仕組み上、ぎりぎりで間に合わない可能性がある。


 しかし、それを使わず弟に頼めば難なく人魚屋の手前で王子様を捕まえることができるだろう。


 しかし考えてみればこのままでは、食べるものもなく、俺は王子様を応援だけするか餌になるかの二択になる。


「原液で大丈夫かどうかの確証もなけりゃ、少しで腹いっぱいになるとも限らねぇのに」


 俺は、せめて何か食べるものを手土産に人魚屋に向かうべきではないかと狼らしい唸り声を上げた。


 王子様の理性がどれだけもつか、また、俺が与えた白花紅の焼き菓子がどれほど王子様の腹を慰めたかしだいだ。


 俺は白花紅の力を信じ、方向転換する。

 ここから角をいくつか曲がって城の隅にある厨房に足を向けたのだ。


 王子様でなく、食い尽くすでもないのなら厨房もいくつか食べ物を恵んでくれるだろう。そう思ったからだ。


「どうか、白花紅あたりがごろごろありますように」


 あの果実はほとんどが水分である。つまりクレムナムの水分を多分に含んでいて、王子様の腹を満たすのにいい。そのまま噛り付けばいいのですぐに食べられる。いいこと尽くめだ。


 ただ、水分であるのでいくつも持ったら重たいし、形も丸くて拳一つ半ほどの大きさなのでかさばる。この際そこには目をつぶろう。


 いいにおいで美味しそうなのは、王子様と同じくこの時間までろくに食っていない俺も堪えるが、俺は数十日食わずとも生きていける化け物なので我慢する。


 だから、王子様には顎が疲れてもがりごりかじって、なんとか理性を保ってもらいたい。

 王子様のためにも、俺のためにも。

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