役割のない夢の中では3

 医院長はあの食欲の権化の悪行を知らない。そうでなければ、一緒に食事をしようなどと軽く誘ったりはしないだろう。


 俺はなお首を揉みつつ笑った。


「恐れを知らねぇなぁ」


「知っちまったら探究心は満たせないっすねぇ」


 恐ろしいことにばかり首を突っ込まねばならない探究とは、冒険と同意ではないか。


 そう考えるとのそのそと歩いている医院長は、なかなか外に出ないがかなりの冒険家になる。この医院で一番探究心が旺盛で、危ない橋もよく渡っていた。


 この王子様と一緒に食事というのも、医院長の探究心からくるものだ。

 吸血鬼なんて珍しい化け物を観察せずにはいられないのである。


「じゃあ、遠慮なく飯たかりに来るわ」


 本人がいいといっているのだから、財布の中身が消えてしまっても問題無い。

 王子様は腹を満たし、俺は身の危険が遠のく。実にいい話だ。


 俺は足取りも軽く医院長についていく。


「あっしのおごりっすか? なら、研究費で落としたいとこすねぇ」


 面会終了時間と目的地があるので、医院長はいつもと違って同じ場所を行ったり来たりして考え事をしなかった。


 医院長は俺が希望した犬もどきがいる部屋へと足を向けていたのだ。

 のんきに世間話をしていたけれど、抜け目無いことである。


「落ちねぇと思うぞ。あの王子様、食うからなぁ……」


 魔術も使っていなければ、大蛇の鱗から作られた鱗灯りんとうや蝋燭も少ない廊下は少し不気味だ。


 もともと医院の中は暗い。光源がすくないせいもあるが、建物の密集する場所にあるからだろう。昼に合わせて街灯を光らせる街中にあってもその光が届かないのだ。


「そんなに? それは興味深いっすねぇ。ますます行きたくなってきたっす。やすい店を探しておくとしましょうか」


 街灯がポツリポツリと消されていく夜が来ればさらに暗い。どの建物より先に濃い影が入り込み、室内に光を灯す。


 その光が少なく弱いために、いつまでたってもこの医院は明るくならない。

 室内はましであるが、廊下は一種の陰湿さまで感じる。


 そんな廊下を二、三度曲がるとある部屋で医院長は足を止めた。

 そして扉をあけ、しばらくその中を眺める。


「……それで、犬もどきにはなんの用なんすか」


 医院長は部屋の前から退くと、いい笑顔で部屋に入れと俺を促す。

 俺は頭をわずかに揺らし、部屋の中に入り、鼻で笑う。

 そこには何もなかった。


「普通、それは先に申請書に書くべきことじゃねぇの? あんな使いもしねぇ長い名前つけてる場合じゃねぇよ」


 犬もどきどころか寝台もなく、一部壁も床もない。

 根こそぎ何かに持って行かれた。そんな印象ばかりがあった。


 もちろん、こんな話をしている場合でもなかった。


「いやぁ……せっかくイナミさんが来てるんだから、直接聞きたいでしょ? まぁ、書かれたところで簡易なものなんで、詳細は聞くことになるっすが……それにしても静かにやられちまいましたねぇ」


 医院長はハハハと軽く笑ったものの、この事態を軽く見ていないようだ。部屋の状態を改めて確認すると、回れ右して隣の部屋へと急いだ。


「聞くだけならほかの犬もどきでもいいんだけどよぉ……このもどきが特別だったって可能性は?」


 俺も同じように隣の部屋へと向かう。

 個室ではあるものの、賓客を泊めるための場所ではない。狭い部屋の隣はすぐそこだ。


「ないと思うんすよねぇ。特に深化した様子もなけりゃあ、いつもどおりの畜生具合っしたし」


 ならば他もやられている可能性がある。

 隣の部屋の扉を開けてみると、案の定、そこも根こそぎやられていた。


「……昼間の事件と何か関係あると思うか?」


 ‪あまりにいい時機に持っていかれている。‬

 ‪あの騒ぎに騎士たちが気を取られ、こちらに気を向けないようにした。そう考えることもできる。‬


 ‪ここは薄汚れた建物の中にあっても、女王の息のかかった研究機関だ。‬警備も堅いと考えるだろう。

 ‪クレムナムにきたばかりの連中ならそうするかもしれない。‬


「昼間というとでかい犬が出たとかいう……あれ、逃げられたとかでこっちに来るもの来てないんすよねぇ……待ってたのに」


「逃げ……あの状態でか!」


 この医院に来たのは、あとを騎士たちにまかせ、人目につかない場所で人になってからだ。


 しかも王子様の食事に少しだけ付き合ってもいる。

 犬が逃げ出す時間は十分にあった。


 犬が逃げてから姿を変えたのなら、見つからない可能性もある。

 すると現場付近で探し回り、ここまで来れないこともあるだろう。


 それほど現場とここは離れている。

 そうなると俺たちが警戒するような騒ぎも伝わってこない。


「いやぁ、しかし、本当にすっきりやられちまいましたねぇ……それにもしかしなくても、イナミさん関わってたんすか?」


 俺の驚きを耳にした医院長は、すっきりしてしまった部屋から目を離さず口を開いた。その声にはこの事態に対する興味と楽しさが滲んでいる。

 さすがは冒険家だ。医院が少々壊れたところで怖いものを知ることはない。


「最後まで関わっちゃあいないが……誰か、助けにでも……?」


 協力者がいたのなら現場からここまで逃げるのも、難易度が下がる。

 けして簡単ではないが、出来ると断言できるだろう。


「イナミさんが関わってここまでやらかすんですかい! こりゃあ楽しくなってきたすねぇ……!」


 気分は上々、クレムナムの娯楽はすべてここにある。医院長は気分も軽く、身体も軽く、喜色満面でくるんとこちらを向いた。


 それに比べ目があった俺は、面倒事がさらに面倒になったことに口が歪むのを止められない。


「楽しかねぇよ」


 首のこりがひどくなったような気がして、俺は首をならし、頭の下あたりを揉む。


「ったく、せっかく変身して俺の毛で首を刺して……」


 そう、今、俺がもんでいた場所あたりに王子様が俺の毛を刺した。

 俺はその場所に手を当てたまま、凄まじい既視感に襲われ声が揺らぐ。

 首についての既視感は、それだけか。


「首を刺したんすか。そりゃあよく動きましたねぇ」


「そう、だから、王子様が魔術を使って痺れさせたんだ……が」


 たとえば足のしびれが切れても歩けないほどではない。麻酔も量次第では、感覚はなくなり鈍くなるが動ける。


 その上、時間が経てば次第に麻痺は消えていく。ただし、舐めてかかれば大怪我をする。

 もしも、魔術の効きがそれほどでもなく、効いたふりをしていたらどうだろう。


 時間が経過すればかなり、動けるのではないだろうか。


 その状態で、人に戻ってここまで来たら……首に違和感が残るかもしれない。


「……なぁ、今日、誰か重傷者が入ってきたか? 軽傷でもいい」


「いいえ、あっしは聞いてないっすし、今日は誰も診てないっすねぇ。今日はあっし以外の医者はいねぇんで、でかい犬がこっちに搬送されるのワクワクして待ってたんすけどねぇ」


 医院長が誰も診察していないというのなら、あの二人はいったい何故この医院に来たのだろうか。


「くそっ……」


 俺は違和感を拭うように首をさする。

 あの感じの悪い、野盗顔の男もしきりに首をさすっていた。

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