役割のない夢の中では2
王子様の空腹を放置するということは、すなわち俺の身の危険だ。
こんなところで空腹になられては食うもんも食えず、飢餓感から襲われる可能性がある。それは避けたい。
「必ずヨ!」
受付嬢に軽く手を振り、俺は待合室の隅に退却した。
待合室は椅子ぐらいしかない狭くて暇な場所である。
その椅子も背もたれがなく、座れるだけマシという四角い木の箱だ。
椅子というのもはばかるそれは、隅の方ならば壁に隣接しており、背もたれができる。
座って寝るならそこが最適だろう。
怠惰な行いには積極的な俺にも最適な場所だ。
この医院ではそこが俺の定位置であるのだが、今日に限って他の人がその近くにいる。
「ちょっとスミマセン」
定位置に行くには、そいつらの前を通らなければならない。
椅子と椅子の間は狭く、少々せり出すと通路が埋まった。自然と他人との接触が増える。
他の壁沿いの席に行けばいいのだが、横と後ろに壁があるのは、俺が向かっているそこだけだ。
「あ、ああ……すみません」
俺が声をかけると、せり出して思いつめたように俯いていたそいつが顔を上げた。
ちょっと前にもこんなことがなかったか?
不意に狭く暗い階段が脳裏に浮かぶ。
もしかして、人魚屋の階段で会った奴ではないか。
俺はしげしげとそいつを見つめる。
ずんぐりとした熊のような、人魚屋の階段もそうであるが何よりこの水底が似合わない。陽の下で居るべきだといわんばかりの優しく温かい風貌だ。
あの時は顔がよく見えなかった。けれど背格好と野暮ったい外套、それにこの声と態度がそいつを思い出させる。
そいつも俺に覚えがあったようで、俺を見つめ徐々に目を見開く。
「人魚屋の」
考えていた通り、そいつは人魚屋の階段ですれ違った律儀でいい奴である。
そいつが医院の椅子で項垂れていたのだ。
身内でも消滅寸前かと周囲をそれとなく確認する。
今日も隣に連れはいるが、そいつは疲れた顔で頭の下をかいているだけだ。不幸があったようには見えない。
「あの時はどうも」
見つめあってしまったからには無視をするのもおかしい。
話しかけると、そいつは小さく首を振った。
「いえ……あのあと、怪我などしませんでしたか?」
相変わらず律儀で謙虚でいい奴だ。
人魚屋で騒ぎが起こっていることを教えてくれたこいつは、あの後のことも気になっていたらしい。
俺はハハッと軽く笑う。
「怪我はなかったんだが、王子……連れが」
「あの方がどうかっ……! そう思えば今日はご一緒では!」
あの時もそうだったが、こいつの王子様への反応は過剰だ。今回は急に立ち上がり外套が乱れるのも気にせず、俺の肩に掴みかかってきた。
そんなに王子様の美貌に狂わされてしまったのだろうか。
ただの腹ペコ野郎なのに騙されている。
可愛そうなものを見る目でみてしまったせいか、隣の男が今日もいい奴を止めた。
「おい」
声に苛立ちを感じられるのは、いい奴がいつもこの調子で困っていて、止め疲れたからだろうか。
「あ、いや、だが……」
わかっているが気になるといったところだろう。いい奴と苛立ってる奴の気を休めるために、俺は簡潔に答えた。
「王子様は怪我もねぇし元気だ。食欲が旺盛なだけで」
「食欲が……?」
あの面構えで店を潰すほど食うとは誰も思うまい。
まして美貌に狂わされたのなら現実など遠いものだ。
「よく動き、よく食う」
「そうですか……それはすごく元気ですね」
それでもいい奴の顔に嬉しそうな笑みがにじむ。
元気というだけで嬉しいとは信者の鑑である。いい奴はやはりいい奴だ。
それに比べて横柄に声をかけてくる奴のなんと感じの悪いことか。
会話を続ける俺たちに焦れたそいつから、鋭い舌打ちが飛んできた。
「そんなわけだ。安心しろ」
俺は舌打ちに対して肩を落とし、会話を終わらせる。いい奴も俺の意図を汲み、ずんぐりした身体を出来るだけ小さくして端に寄せてくれた。
「そうですか、ありがとうございます」
そんなに丁寧に礼をいわないでいいのに、やっぱり律儀だ。
ひょろっと長い、感じの悪い男が再び舌打ちする。
希望通りになっただろうに、何がそんなに気に入らないのか。
こちらも定評のある怖い面で対抗してやろうかと不愉快な顔をして、そいつに目を向ける。
そいつは野盗味のある面をしかめ、苛立ちを隠すことなく首をさすっていた。
こんな面ばかり見ていたら王子様の尊顔を拝みたくなるのもわかる。
王子様と合流したら拝んでおこう。
そんなことを思いながら、俺はそいつらの前を通りすぎ定位置へとたどり着いた。
通り過ぎる際にちらっと見えたいい奴は軽く頭まで下げてくれた。本当にいい奴である。
心温まる交流をしたあとは、気持ちよく眠れというものだ。
俺は定位置に座ってぼんやりと待合室を眺めた。
俺が奥にたどり着いたあともあの二人は何かぼそぼそと話していたようだ。何やらもめている姿が半分になった視界にはいった。
起きた時にまだもめていないといい。
◇◆◇
「ヤダァ、爆睡じゃないっすか」
ケタケタと笑われる声で起きる。
あまりいい目覚めではないが、この医院ではよくあることだ。
何故なら、どうかと思う趣味の医院長はすぐに笑う愉快な奴だからである。この医院長、色々癖のあるやつで、控えめにいっても奇人変人の類だ。
「おっはよう、イナミさぁん。面会の時間っすよ」
目を開けるとタレ目が腹の立つ医院長が俺の顔を覗き込んでいた。
「こぉんな近くまであっしを近寄らせるなんて危機感ないっすね」
「お前は危険度が低い。あとは慣れってもんじゃねぇの」
研究大好き実験野郎であるし、自分の欲望には素直な奴だ。普通に考えればかなりの危険人物である。
しかし、俺から見れば王子様より危険度は低い。
「そんなことないっすよ。患者と被検体にはいっつも逃げられるっす」
患者と被検体を分けるあたりに危険度の低さがあるとは思う。だが、俺に限っていえばそこに別の理由を付け足せる。
「弟の身内だ。その性格さえなけりゃ茶くらいは飲みにくるぞ、俺は」
「そりゃあ身内贔屓なことっすねぇ。けど、ありがたいことっす。それで、その身内と茶を飲むんじゃなく、また犬もどきっすか。妬けるねぇ」
医院長はそういいながらふにゃりと笑った。こういったところが少し弟に似ている。気を許すとすぐにいい顔でなついてくるところだ。
「まぁな。ちょいと確かめたいことがあってなぁ。買い物ついでにお仕事してここに来たんだわ」
ここに来るまでの道筋を簡単に説明し、俺は首を揉みながら立ち上がる。どうやら変な姿で寝てしまったらしい。
待合室は来た当初よりも暗くなっていた。動いているものは俺と医院長くらいしかない。
あの二人も用事が済んだのだろう。
「ついでが過ぎませんすかね。それに綺麗な面の面白い王子様がいらっしゃらないようっすけど」
気もそぞろな俺に、医院長は不満を顕にする。
眉間にわずかな皺をよせ、むっとした顔を見せた。
「だから、お前の性格から癖がなくなったら考えるっつってるだろ。なくなったらお前じゃねぇけどよ。王子様はアレだ。空腹だから飯屋がある付近においてきた」
「そりゃあ難しいっすねぇ。この性格直すつもりもないっすし、それをお求めなら素振りを見せることもできないっすからねぇ」
医院長は顎を撫で遠くを見て、歩き出す。医院長の考える時の癖だ。
「なら、今度一緒に飯でも行きましょうかい。難儀な腹ペコ王子様も一緒で大丈夫っすよ。むしろ、一緒でお願いしたいっすね」
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