望むるも一夜にて水底に沈む2

 そうして犬を観察しながら近づいてみると、なるほどただただ巨大である。


 巨大でありながら痩せているため動きは素早く、騎士たちは逃げ惑う人々を守り、犬のあぎとを武器で弾いていた。


 それも長くはもたないだろう。

 何故なら圧倒的に夜者たちの数が多いからだ。小物だけなら残らず退治できると思うが、大物もいるとなると手が足りない。


 妹が急に俺たちを呼び出したのもこのせいだ。


「王子様、上まで乗せてやるから首の後ろあたり……刺せるか?」


 あの犬はいつもの犬と同じで人に戻る可能性がある。ならば急所を切って血を流すような……クレムナムで得た水分を失うようなことをしては、消滅してしまう。


 その点刺すだけなら急激に水分を失うことはない。


 すこし面倒だが、ここにはここの法がある。夜者を消滅させることは問題ではない。


 けれど人を消滅させるのはいささか問題がある。


 それにこの犬がいつもの犬と同じであるなら新しい手がかりだ。逃したくない。


「わかった、動きを止めたいんだな。だが刺すとは……何で?」


 俺の提案にいい返事をした王子様は新人にしてはクレムナムの化け物をよく知っている。急所を刺しただけで消滅したりはしないが動きは止まるのだ。


 俺は懐からナイフと小瓶を取り出し、返事をする前にナイフだけ王子様に投げ渡す。

 そして人がいないのを確認すると、手元に残った小瓶を一気に煽った。


 苦いような甘いような……薬剤らしい微妙で複雑な味が舌をなぞり喉を撫でる。

 やたら冷たく感じる小瓶の中身、毒薬は即効性だ。


 喉を通り過ぎたと思うと、急に胸のあたりで熱になりじわりと広がる。


 熱は広がった場所留まると穴を無理矢理ねじあけるような痛みとなり、俺は足を止めた。


「それで、俺の毛でも切って……即興、で頼む。切る、じゃなく、刺す、ことだけ……考えて、作って……くれ」


 痛みでとぎれがちな俺のことばは少し説明が足りない。そんなお願いでも、王子様には理解するに足るようだ。


「詩は俺の得意ではないのだが……善処する」


 王子様はきっと真面目な顔をしてナイフを握っているだろう。


 俺の視界はすでに滲んで歪み、出所のわからない汗が流れる場所だけ教えてくる。


 俺の世界は急激に落ち、痛いのか寒いのか熱いのかわからぬうちに膨張した。


 ここはなんだこれは誰だ背中が気持ち悪い腕は脚は顔は身体は、俺はなんであるか。


 人間か人か化け物か夜者か。

 俺は四本の足でしっかり地面を踏み固める。


 俺は俺だ。

 クレムナムの女王とクレムナムを囲う大蛇の兄、クレムナムの命水の源流にして、巨大な狼、呼称はイナミというちっぽけな化け物だ。


 あの犬がこちらに気づく前に、俺は巨大な狼へと変身した。


『まぁ……ざっとこんなもんか。やっぱ、尻尾だけだとあの犬のがまだでけぇなぁ』


 本体は自慢の尻尾を切り落とした情けない格好にまでなっているのに、あの犬に勝てない大きさとは……悲しいことである。


「たかだか大きさ程度でこの毛並みには勝てるわけではない。またこの極上を堪能できるとは」


 毛並みは自慢できるほどふわふわの汚れもない灰色であるが、あの犬との差が毛並みだけといわれたようで複雑だ。


 せめて人の形をしていた時に凶悪だといわれた顔は、狼になると凛々しいだとか歴戦のだとかいわれたりしないのだろうか。


 訴えるために喉を鳴らすと、ナイフを握りしめた王子様は眉尻を下げ、ハッと口を開いた。



「この毛を切るだなどと……!」


 姿形に無頓着な芸術作品は、今更俺の顔が狼だろうと更に凶悪になろうと関係ないらしい。


 大好きな毛皮を自ら傷つけなければならないことにおののいた。


『さぁ、乗った乗った。早くしねぇと変身解けちまうし、あのワン公が食いでのありそうな俺に噛り付いちまう』


 毛皮を剥がれるわけでもなく、一部をほんのちょっぴり切ってもらうだけの俺に恐れはない。

 王子様の戦慄せんりつは俺にとっては小さなことだ。


「しかし」


『変身する過程でどうにかなるから、早く。ほら、ワン公こっち向いちまっただろうが!』


 いくらあの犬が人々を口に入れようと必死で、まとわりつく騎士たちが邪魔でも、突然巨大生物が現れたら気がつく。


 たとえその狼が自身の半分であっても、人よりよほど目につく大きさだ。

 すると俺を見つめて犬が急に動きを止め、口を開く。


 熱い視線とよだれの汚さに、俺はここでも自らの悲しい宿命を感じずにいられない。

 あの犬も俺を食べ物と認識していたのだ。


 俺はお前らを化け物にした原因であって、食い物ではないと吠えてやりたい。


「なんだあのよだれは! 美味そうなのは美味そうだが、美味そうだし絶対美味い! あとで一口」


 王子様も犬の様子には憤慨したものの、俺という餌が美味そうだということには同意した。


 俺は一体どれほどこの王子様におびえなければならないのだろう。


 王子様の腹は一体いつ救難の声を上げるのか。恐ろしさを吹き飛ばすためにも俺は吐き捨てる。


『早く乗って帰って大人しく中酸実なかすみでも食うんだな!』

「せめて芋にしてくれ!」


 せめてというが、王子様は芋が嫌いではない。脅し文句としては微妙だ。

 俺は伏せて王子様が乗ってくるまで待ちつつ、尾で地面を撫でる。これこそ『せめて』もの抗議だ。


「ほら、乗ったぞ……っ」


 俺の抗議はもちろん、中酸実を避けるため俺に飛び乗った王子様にはみえない。虚しい抗議だ。


 俺は気を改め、食欲を満たすために騎士たちと交戦する犬を見据える。


『しっかり捕まっておけ、一度目より動く』


 一度目は怪我人も乗せていたし、激しく動くと騒がれると思い、静かに移動した。


 今回はそんなことをしていては、犬にかじられかねない。


「ああ、まかせてくれ」


 先ほどまで中酸実くらいで慌てていたというのに、王子様はいつも通りのいいお返事をくれた。


 それを合図に俺は一声高らかに吠えると駆け出す。


 美味そうだ美味そうだと目をつけられても、たかだかでかいだけの犬や出来たての化け物に食われてやるいわれはない。


 やけっぱちにあの犬を見下ろしてやろうと心に誓うと同時に地面を蹴った。


 道を無視し頑丈そうな集合住宅に着地し、三歩もせぬうちに、更に遊技場へと飛び移る。


 飛び移るたびに足元に街は広がっていくようだが、それでも妹の城はまだ高く遠い。


 弟が頭を下している場所は低いが、弟の果てはどこにも見えない。


 それに比べればやはりあんな犬は可愛いものだ。

 俺は一際強く時計塔を蹴ると犬の背の上を飛ぶ。


 犬は間抜けなことにこちらを見上げて騎士に後れを取っている。


『今だ、飛び降りろ!』


 俺がそういうやいなや、王子様は俺から飛び降りた。


「この手にあるは狼の毛、クレムナムの命水の結晶。ならば形はあらず、長く伸び鉄よりも固くなる。先は鋭く、針がごとく」


 王子様は未完成な呪歌をうたいながら犬の背へと落ちる。


 未完成な呪歌はしかし、王子様が切ったであろう毛束から、きらりとした何かに変容した。


 大きな針のようなそれを、落下の勢いをそのままに、王子様は犬の首に突き刺す。

 なんともいい位置まで王子様を運んだものだ。


 俺は自画自賛しつつ、くるりと宙で反転して地面へと下り立った。


『動きは止まっても、戻らねぇ……か?』

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