望むるも一夜にて水底に沈む1
それは大きな犬の夜者だ。
城下街の転移屋から急いで外に出ると、そいつは逃げる人々で騒然とする大通りに立ち鳴いていた。
「大きいな……」
大きさでいえば大蛇である弟の方がはるかにでかい。だが弟よりも小さくとも、ここ最近ではこの大きさの夜者が昼間の街中に出ていない。
普段壁か置物扱いされている巨大生物より、突然現れた見知らぬ小物の方が妙に目立つものだ。
そのせいか王子様も大蛇に飲み込まれたことを忘れ、夜者を見上げて口を開けて驚いた。
「それにしちゃあ貧相だが」
王子様の開いた口を塞ぐため、俺は横から犬の形状を冷静に告げる。
犬は大きいが痩せぎすで毛並みも毛色も悪い。
鳴き終えて大通りを逃げ惑う人々に向けた目はギラギラしており、牙を剥き出しにした口からは涎を垂らしている。
飢えた野良犬を大きくすればああなるのだろうという姿だった。
「やはり、美味しそうにみえるのだろうか」
「やはりってなんだ、やはりって」
理性があるのに食いしん坊な発言をする王子様の方が、あんな野犬よりよほど恐ろしい。
俺の嫌そうな声などなんのその、王子様はしみじみと自身の経験を吐露した。
「腹が減るとなんでも美味そうに見えてくる」
生まれてこのかた人だった覚えもなければ、神々の中であっても弱者だった記憶もない俺でも、王子様の食欲にはこの身が震える。
きっと王子様が俺を原液などといって餌扱いするせいだけではないだろう。
俺はあえて巨大な犬を見上げ、散歩中につけてきた植物のようにはりつく人を見つけえるとそこに話を流した。
「騎士も来てるみてぇだが……手こずってんなぁ」
恐ろしさのあまり、常套手段と化しつつある聞かなかったふりを発動したのである。
王子様も今腹が減っているわけではない。
特に言及することなく、王子様は巨大な犬の足元を見ようと蟹のように横に歩き出した。建物のせいで巨大な犬の足元が見えないのだ。
「ああ、人々を避難することを優先するからな」
妙な動きで巨大な犬の足元を見ようとしていても、騎士の職務を忘れない。
さすが律儀な王子様である。俺の疑問にちゃっかり答えてくれた。
「それにしたって分担制だろ? なんか少なくねぇか」
女王の騎士はもともと数が少ない。
妹が選り好みするせいもあるが、危険な任務につき消滅したり、騎士に足る実力の持ち主が少なかったりするからだ。
だからこうして犬に張り付く連中しか、夜狩りに参加していないこともある。
しかしここは城下街だ。女王の城がある場所で、騎士たちの本拠地である。もっといてもいいはずだ。
「確かに少ないな。それに夜狩人も見かけない」
王子様のいうとおりで、こういう緊急事態が起こった場合、近場にいる夜狩人も召集される。
昼夜逆転している夜狩人が多いので、奴らは昼間の召集にはほとんど応じない。それでも少しくらいは現場にいるものだ。
それが一人も見当たらないとなると、他の可能性が出てくる。
「もしかして足元に何かあるのか?」
その可能性は大いにある。
かつて大きな夜者が出て街を踏み荒らしたときも、そいつよりは小さい夜者が出たのだ。
「かもな。街中であのでかさは久しぶりだ。恐慌状態におちいって夜者になったか」
「そんなことがあるのか?」
ついに怪しい動きをやめた王子様は俺に振り返った。
理性がなくなれば、クレムナムの人は夜者になる。
理性の無くし方が絶望であろうと恐怖であろうと、たとえ喜びであろうとも関係ない。
「一定時間、理性がなくなればもう戻れねぇな」
そのはずなのに、俺と王子様は例外を狩っては医院送りにする。
本来ならあり得ないことだ。
ならば逆に、理性をなくしていないのならばどうだろう。
奴らが犬に変身してもなお人であるのなら、戻ることも可能ではないだろうか。
俺は不意に湧いてきた考えに、舌打ちをする。
「王子様、これが終わったら医院に向かうぞ」
「犬もどきの見舞いにでもいくのか?」
怖い顔の男が突然舌打ちをしてもびくりともしない。王子様の肝ときたら現在はないかもしれないのに据わりきっている。
「ああ。ちょっとききたいことができたんでな」
王子様は改めて巨大な犬を確認し、俺に向き直った。
「どれくらい使っても?」
腕まくりをしだした王子様のなんと頼もしくも恐ろしいことか。
その腕をどうするつもりだ! まさかまた丸々切り離すのか! いや、その前にどのくらいっていった? 腕だけじゃないのかよ!
そう突っ込む前に、俺は慌てて王子様の腕を掴む。
「魔術を使え、魔術を。呪歌は奥の手だ」
俺はすぐ働きたくない遊びたい寝たいなどと、怠惰を口から吐き出す。
けれど王子様に魔術を使えというのは、けして怠けたいからではない。
ひとえに王子様の燃費の悪さに身の危険を感じているからだ。
ついでに必ず行われる適当な工作に付き合いたくない。
正直すぎる俺のことばに、王子様は何度も瞬きを繰り返す。
「呪歌の方が早いぞ?」
早いのはよくわかる。
霧になって体内で暴れられるなど考えただけで、俺でも胃がもやもやする。
「王子様、あんた、燃費の悪さのせいで俺と野菜なんぞ買う羽目になったんだろうが! いいからいくぞ!」
俺は王子様に同意を得ることなく走り出す。
呪歌を使うにしても、こんな遠くからでは王子様の腹が余計に減ってしまう。
「いい加減、王子様はやめないか」
俺に続いて走りながら、王子様は拗ねたようにそういう。
魔術を仕えといったことより王子様と呼ばれることの方が嫌なようだ。
王子様はやたら王子様と呼ばれることに不満を表す。
まだ三日、されど三日……時間が経っても呼び名を改めない俺に、王子様もそろそろ諦めてもいいだろう。
「さっきも王子とか呼ばれてただろう」
「あれは……」
王子様にしては珍しく、いいづらそうな弱々しい声だ。
人間の習慣などそうそう直るものではないと王子様本人もいっていたというのに、『王子様』と呼ばれることを習慣といえない。
王子様の人間らしさを見つけ口の端を上げつつ、俺は王子様がことばを濁したのをいいことに、その話を終わらせた。
「それより奴の足元だ! 見ろ!」
移動し始めてようやく建物の影になっていた巨大な犬の足元が見える。
巨大な犬によく似た……あるいは医院送りにした連中とよく似た犬が複数、騎士や夜狩人と戦っていた。
単体ではさほど強くなくても、複数となれば厄介なようで騎士や夜狩人は犬に手こずっている。
「恐慌状態であれか……っ」
「夜者ってのは
似たような犬ばかり複数存在する。それは今までよりさらにおかしな現象だ。
もちろん犬が群れること自体はおかしくない。夜者が犬の形状で複数いることがおかしいのである。
クレムナムにいる化け物……人は、クレムナムの水で化け物になるのだ。しかもほとんどは死因を引きずる形で化ける。
たとえばレミアは両足の腱が切られた状態で湖に投げ入れられた。
地上に戻ろうと足を引きずるうちに下半身が蛇へに変わった。
たとえば双子は血を抜かれて捨てられた。
血は戻ることなく水で補われ、いつのまにか身体は溶け出しスライム化しはじめた。
あの蛇壁の外からうらめしそうに睨みつけてくる人魚でさえ溺れ死にクレムナムまでたどり着けず魚に
人間も化け物も、ほとんどが死に方を選べない。
そういうわけだから、この水底の国に棲みつく頃には様々な化け物になっている。
そんなクレムナムの化け物たちの中にあって、この犬たちはあまりに多様性がない。
「つまりあり得ないとっ?」
「まぁな!」
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