鱗街に息継ぐ化け物の悪癖3

 まぶしさと疑いで目を細めた俺などなんのその。王子様は机と椅子、嵐のほとんどを担う皿と魔術をひょいと避け、嵐の中心で怒鳴り続ける男に近づく。


「この腕は狼の血が一滴ひとしずく、クレムナムの甘き水。ならば、溶け滲み、霧となり肺を汚す」


 王子様は解法かいほうを口にすると左腕を振る。そうすると左腕は一瞬にして掻き消え、その場に赤い霧がうっすらと漂い始めた。

 すると怒鳴って男が急に激しく咳き込んだ。


「赤……っ、き、り……っ? じゅ、か……!」


 男は苦しそうに口と鼻を押さえるが、咳は止まらない。

 王子様の使った呪歌じゅかのせいだ。


 呪歌とはもともと呪詛返しの一種で、自らにかかった呪いを解き不特定多数に返すというかなり迷惑な呪法でもある。それをクレムナムの人々はさらに迷惑な呪法へと進化させ、解法という呪文を唱えて様々な手段へと変えた。


「まったく……食事の場では静かにといわれなかったのか?」


 自らの腕を毒霧に変えて男を苦しめているというのに、王子様はいやに優雅だ。おそらく顔のよさと生まれのよさ、ついでにしなやかで均整のとれた身体の仕業だろう。


 もはや崇めることしかできない芸術も、苦しんでいてはゆがんで見える。

 男は咳き込みながら、手近にあった皿を投げた。

 王子様はその皿を残った手で捕らえ、机に置くとため息をつく。


「こんな大きな鱗皿うろこざらは貴重だというのに」


 こんな状況で優雅が過ぎると腹立たしいもので、傍観しているだけの俺は犯人の代わりに舌を打つ。


 呪文も唱えられず集中も乱され、男は魔術を使えない。おかげですっかり店内は静かになっている。俺の舌打ちは激しい咳込みをすり抜け王子様に届く。

 王子様はこちらを向いて何故と首をかしげる。


「気にすんな。それより逃げてるぞ」


 咳き込んでいて王子様を睨みつけるしかない男は、腹が立てども分が悪い。じわりじわりと後退していた。


「吸い込んだのなら逃げられない。まだそれは俺の左手だ」


 毒にしては咳込むだけで進行が随分遅いと思っていればなんともひどい呪歌である。


「今は少し吸っただけで人体に影響はない。大人しくするなら……」


 喧嘩をしていたら横槍がはいり、急に脅されたとくれば警戒しない奴はいない。

 男の場合はもっとひどかった。


「……っ、ね」


 王子様は死んでからクレムナムにきたし、死んだ自覚があり、今も生きていると思っていない。

 しかしクレムナムに来たばかりの連中とようやく目覚めた連中は、だいたい生きていると思っている。たとえ思っていなくても人間だったころの習慣を引きずる。


 ‪だからいわれても鼻で笑いたくなる悪態をついてしまうのだ。‬


「ここに来たのなら、それより効果的な暴言があるんだが」‬


 王子様は俺と同じようなことを考えたのだろう。ただし、俺と違って苦いものを飲み込むようにいう。

 王子様とてまだここに来たばかりなのだ。化け物の自覚はあれど、人間が恋しいのだろう。


「一応忠告はした。少し苦しんでもらう」


 王子様がそういうと男は急に息をつめ、もがき始めた。口を押さえるのはやめ、喉をかき、床に転げる。しばらくもしないうちに男は動きをとめた。


「……霧のせいか?」

「少しの間だけ、息を吸えなくした」


 本当になんとも残酷な呪歌である。人の中にはいって、内側から人を損ねることができるのだ。もしもこれを人間に仕掛けていれば、あっけなく命の火を刈り取れただろう。


 しかしこの呪歌をかけられたのはクレムナムの住人だ。息ができないくらいで動かなくなったりはしない。内臓が傷つけられれば動かなくなるかも知れないが、その内臓すらない住民もいる。


 けれど、あの男は霧を吸った。つまりまだ息をしている。息をしなくてもいいと気づいておらず、習慣で息をし続けている可能性が高い。


 そういった者たちは大抵、息が止まれば苦しいものだと思っているし、死んでしまうものだと思っているのだ。


 思い込みはクレムナムにおいても恐ろしいものである。身体が思い込みに反応して、一時的にそうなってしまうからだ。


「ああ……来たばかりなんだろうなぁ」

「そうだな。俺もそうだが……きっちり死んで化け物になったから魔術もあまり使わなくなった」


 王子様はため息をつき男に近寄る。そしてその襟元を掴み持ち上げ無事な椅子に座らせた。意外と雑である。


「あら、力持ち」


 王子様は外見からすると片手で簡単に男を持ち上げるように見えない。

 皿を両手に持ち待機していた店主が思わず声を上げてしまったのもわかる。


「すまない、縄はあるか?」


 王子様がそうやって店主のいるカウンターに顔を向けると、店主は皿を落としハッとした。

 暴れる客ばかり注視していて、今更王子様の顔の良さに気づいたようだ。

 カウンターの向こう側でガシャンと皿の割れた音がした。


「やだ、いい男! 縄ね! すぐ持っていくわ!」


 縄もいいが皿の心配もしてやってほしい。鱗皿は陶器より安いとはいえ、それなりに値がはるのだから。


「それにしても何でこんなことになったんだ……?」


 男の腕を椅子の背に回し、王子様は店内を見渡す。

 壊れた椅子に、欠けた机、散乱している皿……男が静かになっても店内は変わらず荒れている。魔術が飛び交わないだけましといったところだろう。


「人間に近い形をしている連中に多いのは人型至上主義で、店主の姿を見て怒った。ここに来たばかりの新人に多いのは地上に帰りたいが帰れないので八つ当たり」


 嵐はおさまったと判断し、俺はまだ壊れていない椅子を一脚起こすと、それに座る。

 そしてこの手の飲食店でよく見かける問題客を挙げた。


 この二つはクレムナムの酒場でよく見かける手合いで、酔ってはどうにもならない話でその場を荒らす。この国において後者は同情の目で見られるが、後者は嫌われる。


「店主の姿に……さっき見た限り美しい女性だったが」

「あら! 口も上手いだなんて。いいわーいい子連れてきたわね、あんた」


 縄を手に持ちずるずると尾を……蛇と同じ下半身を引きずりながら、ラミアである店主はいい笑顔で親指を立てた。


 店に初めて来た奴はカウンターに隠れた店主の下半身がなんであるかを知らない。

 だからたまに、人型主義の連中がカウンターから出てきた店主を見て騙されたといって騒ぐのだ。


「知り合いだったのか」


 王子様は連中と違って人型であるか否かは騒ぐに値しないらしい。平然と店主から縄を受け取り、男の腕を拘束し始めた。


「たまーに来るだけなんだけど、よ」


「こんな野盗の集団の副団長の一人みたいな顔した男、一回で覚えちゃうし、厄介事はつい頼んじゃうでしょ、せっかく怖い顔をしているし、私の住処のご近所さんだし」


 店主はこの店に住んではおらず、なんと俺が暮らす集合住宅で暮らしている。そのせいでよく顔を合わす。自然と知り合いになってしまった。

 だから俺の夜狩人らしい生活も店主は見知っているのだ。


「そんな理由で安く働かされる俺はたまったもんじゃねぇよ」


 やれやれと肩を落とした俺に、店主は……ラミアのレミアは拾った皿を縦にして俺の横っ腹を突いた。結構痛い。


「あら、金欠のときはありがたくて拝むほどじゃないの? あんた結構かつかつよね、夜狩人の例に漏れず」


 ‪伊達に遊んで暮らしたいとぼやいてはいない。‬

 ‪現在ままならないのは、小心者であるからうまく仕事を放って置けず働いてしまうだけである。‬


 ‪そんなわけで働いた分だけ報酬を遊びに投資し、どう生きるか考える日も少なくない。‬


 ‪「ならもうちょっと安くしてくれ」‬

 ‪

「お世辞の一つでも使えるようになってから出直して来なさいよ。その点、このいい男は満点。夢が見れる容姿! 関わりが薄そうな芸術性! ちょっと呪いが怖いくらいはクレムナム流の愛嬌よ」‬


 ‪切実なお願いもレミアにとっては一蹴する程度でしかなかった。‬

 ‪下半身は蛇なのに蹴ってくるとはなかなか難しいことをしてくれたものだ。‬


 ‪俺がわざと悲しい顔をして見せると、レミアは皿拾いに戻り知らんふりをした。‬


「それで、今日は何にする?イナミは何もしてないからおいといて、いい男には安くするわよ」‬


 ‪しっかり俺からは正規の値段で食べろと明言したレミアは、しかし、この後この言葉を後悔することになる。‬


 ‪まさか、王子様が指を何回か折り返した末に四本指を折った状態だとは俺も思っていなかった。‬

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