XI.ファム・ファタルは夜を語る

 シュルリと紐ほどく音。

 古い写生帖スケッチブックを開くと、劣化した紙の黴臭さが立ち上った。くっついてしまっている頁同士を男の指がぺりぺりと丁寧に剥がしていく。

 黄ばんだ紙の上で、力強い鉛筆の線で描かれた男の子が笑っている。その下には、球を追いかけて走り回る少年たち。

 頬いっぱいに詰めこんで食事をする少年、書物を膝に広げたまま居眠りをしている少年……どの素描も少年モデルの一瞬を生々しく切り取っていた。

 見せたいものがある――杯の中を空にした男が大事そうに持ってきたのは、一冊の写生帖だった。孤児院を訪れるたび、少年たちと交流を重ねながら父が描き溜めていったものだという。

「この子はアルベール。球蹴りがいちばん上手だった。カミーユとクレールはそっくりな双子で、いつもいっしょ。煙突掃除夫をしていたフランソワは木登りが得意で、よく私の面倒を見てくれた。食いしんぼうのエティエンヌ。物知りで読書家のドニ……珍しく居眠りしているところだ」

 男の指がひとりひとり少年を指差し、歌うように紹介していく。萌す春の森の瞳はいとおしそうに綻んでいた。

 白い指先を追いかけながら、ぼくはちらりと暖炉の上の大鴉を見遣った。

 茨の下で眠る子どもたちの化身は、視線に気づくと首を傾げてみせた。つぶらな一対の眼は無機質に黒光りするばかり。

 男が慎重な手つきで密着した紙を剥がす。ふわりと開いた頁に、目が釘付けになった。

 紙面いっぱいに描かれているのは、窓辺に頬杖をついて外を眺めている少年の横顔だった。   

 くるりと上向いた濃い睫毛、まろい頬を波打ちながら縁取る黒髪。ふっくりとしたくちびるを尖らせた表情は、小天使クピドのように愛らしい。

 見間違いようもない――『わたしの白い薔薇』と題された肖像画の、だ。

「この子は……」

 思わずこぼれた誰何に、男は嘆息するように笑んだ。「ミシェル・ブランシュ」

 あかがね色の火に染まった男の眸が、ぼくを見つめている。ミシェル、と口の動きだけで反復すると、男は頷いた。

「そう。私だよ」

 はだけた襯衣の胸元で十字架が揺れている。男――ミシェルは、片手で鈍い輝きを握りしめた。

「娼婦の私生児こどもに天使の名前が与えられるなんて、とんだ皮肉だと思わないかい?」

「……あなたの名前は、おかあさんが?」

「他にいなかったからね。若くて学もなかった母は、由来なんて識りもしないで名づけだんだ。男児でも女児でも使える、ありふれた名前を」

 確かに『ミシェル』という名前は珍しいものではない。ぼくの『ルネ』と同じように、文字の綴りは違えど男女ともに汎用される名前だ。

 ……きっとミシェルの母は、綴りの違いすら知らなかったのだろう。文盲だったぼくの母が、女性名と男性名における『ルネ』の綴りの違いについて理解していなかったように。

 ぼくの身辺調査を行ったテオドール氏によると、戸籍上ぼくの名前は男性名の綴りで表記されているのだという。ひとりでぼくを産んだ母が男児だと届け出た時点で、自動的に男性名の表記で登録されたらしい。

 たったひと文字の違い。それだけでひび割れるほど、人間性は硝子細工のように脆い。

 骨張った指が鉛筆の線をやさしくたどる。

「ルネ……あなたのお父さんは、美しくて素敵な名前だと褒めてくれた。聖典で語られる原初の天使には、性別がないんだ。男でも女でもない、地上のあらゆる汚濁を超越した存在――私は、かれらの有り様に倣うことを祝された、特別な子どもなのだと」

 ふと、母の昔語りがよみがえった。画家の卵だった父は、旧王都の大聖堂の天井画を描く栄達を夢見ていたのだと。

 ぼくの脳裏に、見たことのない巨大な円形の天井が浮かび上がった。淡水色のそらを背景に、少年にも少女にも、若者にも乙女にも見える天使たちが無邪気に舞い遊び、白い薔薇の花を雪のように振りまく一幅の画が――

 空想の画布は、とろけた牛酪バターのようにあっけなく切り裂かれた。

「あるとき、養父の支援者のひとりが私たちを題材にした人物画がほしいと言ってきたんだ。亡き女王陛下ラ・レーヌの宮廷では、見目のよい貴族の子女が天使や異邦の神々に扮した肖像画が流行したんだそうだ。それを真似て、私たちを可憐でみだらな妖精ニンフに仕立てた淫画を作れとね」

 心臓が潰れたように胸が痛い。ぼくはたまらず首を横に振った。

「とうさんは、そのために雇われた?」

「ああ。結婚を約束した恋人がいて、新しい家族のために金がいるのだと言っていた。……養父に命じられて、はじめてかれの目の前で裸になったとき、鉛筆を握りしめたまま声も出せない様子で泣いていたよ」

 喉が乾いた音を洩らした。おそろしい気持ちで視線を上げると、ミシェルが痛みを堪えるような顔でぼくを見ていた。

 勢いよく薪が爆ぜる。取り戻せない過去が灰となって降り積もる。

「恋人に子どもができたんだとわかった日、嬉しそうに何度も何度も話していたよ。画を完成させて報酬を得たら恋人を迎えにいくんだと……大泣きしながら、幸せそうに笑っていたんだ」

 ルネ――とミシェルがささやく。父が遺した、唯一の形見である名前を。

 羽ばたきが空を滑る。大鴉がぼくの肩に飛び移り、ミシェルが驚いた様子で身を引いた。

 大鴉が哀しげに啼き、硬いくちばしを頬に寄せてきた。ぼくはいちど瞑目し、 押し開いた眸をミシェルに向けた。

「かあさんは、とうさんは気が弱いけどやさしくて、誠実なひとだって言っていました。とうさんの写生画を見ればわかります。とうさんは、あなたたちを描こうとした。馬鹿正直にあなたたちと向き合って……画のなかですら踏みにじられるあなたたちを放っておけなくなったんだ」

 ミシェルの表情が歪む。苦鳴を耐えるように眉根を引き絞り、青年はうなだれた。

「……私がいけないんだ。『助けて』と、私がルネに縋ってしまったから」

 大鴉が吐息を震わせるように啼いた。まるでミシェルを庇うように、弱々しく。

「私の愚かさが、あのひとを地獄に引きずり落としたんだ。あなたや、あなたの母親からルネを奪い……挙句に殺した」

「でも、あなたの手を取ったのは、とうさんだ」

 写生帖の頁をめくる。どの頁にも、母の姿や、教会の外の世界は描かれていない。

 それが答えだった。だれかの恋人でも父親でもなく、画家としてのルネ・ギスランが命と魂を捧げるべき場所を見出だしてしまったのだと、叫びのような筆の痕に突きつけられる。

「きっと、あなたはとうさんの運命の相手だったんだ。とうさんが描くべき、描ききらなければいけないひと」

「ルネ……」

 冷たい雨に打ち震える雛鳥のようなミシェルに、そうっと手を伸ばす。もつれた黒髪が落ちた頬に触れると、小さく肩が揺れた。

わたしの白い薔薇モン・ローズ・ブランシュ

 みどりの瞳がこぼれ落ちそうになる。ぼくは失敗したみたいな笑みで答えた。「あるひとに教えてもらいました。告解室に飾ってある肖像画の題名だと」

「……ルネが」ミシェルがぽつりと呟いた。

「そう、ルネが、私を呼んだんだ」

 父の〈恋人〉の痩せた手を、ぼくはしっかりと握った。

「私は……本当は、薔薇が嫌いだった。庭の薔薇は、すべて養父が植えたものだ。おぞましい悪魔のような男だったくせに、染みひとつない真っ白な薔薇に執着して……」

 ミシェルの指がわななき、ぼくの手をきつく握りこむ。細く尖った喉仏がひくりと震えた。

「――最初はフランソワだった」

 風もないのに写生帖の頁がパラパラとめくれる。

 煙突掃除夫だった少年の絵姿が現れた。くしゃくしゃの癖毛が取り巻く玉子型の顔。小刀で切りこんだような双眸――外套インバネスコートのかれを彷彿とさせる面差しに柔和な笑みを浮かべ、頬杖をついた姿勢を取っている。

「いちばんの仲良しだったフランソワは、養父の暴力から何度も小さな私を庇ってくれた。そればかりか、私や年少の兄弟を守ろうと養父に対して反抗的になっていって……それが引鉄だった」

 ミシェルの瞳が揺らぎ、涙の海に水没する。「フランソワは」と、震える声が呟いた。

「あなたと出会った日のような、冷たい雨が降る夏の朝だった。隣で寝ていたはずのかれがいなくて、同室のエティエンヌがいっしょに探してくれたんだ。『寒いからぼくが庭のほうを見てくるよ。ミシェルは他の部屋を回って』と言われて……しばらくして、庭からエティエンヌの悲鳴が聞こえた」

 ミシェルは顔を片手で覆った。打ち震える肩を、大鴉が黙したまま見つめている。

「フランソワは満開の夏薔薇の下で倒れていた。全身傷だらけで……裸だった。血で真っ赤に染まった腹に、雨で散った薔薇の白い花びらがこびりついて……まるで……かれの死すら汚そうとする悪魔の呪いのように見えた」

「ミシェル」

「私とエティエンヌは、泣きながらフランソワを薔薇の茂みの根元に埋めた。ずぶ濡れになって戻ってきた私たちを見て、養父が嗤った。『煤まみれの鴉でも、死ねば肥やし程度にはなるものだ』」

「ミシェル!」

 思わず腕を掴んで揺さぶると、ミシェルは顔を上げた。濡れた頬を歪め、くしゃりと笑う。

「その次はカミーユ。激しく折檻されたクレールを庇った『罰』を受けた。カミーユに続いて、クレールもすぐに……」

 ドニ、アルベール、エティエンヌ――兄弟の悲惨な死に様を語り、そのたびに土を掻いて墓穴を掘ったとミシェルは告げた。

 強烈な眩暈と吐き気がした。

「どうしてそんなこと……」「私たちがルネを愛してしまったから」

 ミシェルは潤んだ眸を伏せ、永遠に時を止めた少年の笑顔を撫でた。

「養父に支配されていた私たちの心に、ミシェルという希望の光がひと筋、射しこんでしまったから。もともと狂っていた養父が壊れるのは簡単だった」

 薔薇のつぼみの剪定するかのごとく。子どもたちの命は悪魔の指に摘み取られ、冷たい土の下に葬り去られた。

「ルネ」ミシェルの額が肩に触れる。「養父は私たちの〈神様〉であることで、矮小な自己を保っていた。けれどね、私たちが待ち望んでいた〈救い主〉は……あなたのお父さんだったんだよ」

 きつく巻きつく腕に、ぼくは胸を切り刻まれながら青年の頭を抱きかかえた。「でも……とうさんは、あなたたちを救えなかった」

 吐息をこぼすように笑う気配。何もかも過ぎ去ってしまったと知り尽くした声で、ミシェルは言った。「寒い、寒い夜だった。冬薔薇が雪のように庭を白く染めていた」

 ミシェルを含む生き残りの少年は、全員礼拝堂に集められた。

 かれらを待ち受けていたのは、おどろおどろしい山羊の面を被った黒衣の人びと。煌々と燃える燭火に照らされた、慈愛に満ちた悪魔の微笑――

「〈魔女の夜会サバト〉という悪魔崇拝の儀式だよ。仔羊に擬した子どもを悪魔に捧げて、男も女も入り乱れて姦淫に耽るんだ。生贄の子どもの血を混ぜた葡萄酒を飲めば、奇蹟のごとき力が手に入ると信じられていた」

 ミシェルたちの身に何が降りかかったのか、言葉にせずとも明白だった。耳の奥で、変声期すら迎えていない少年たちの叫びがごうごうと渦を巻く――

「そこに」ミシェルは呟いた。「ルネが現れた。山羊の被り物で顔を隠して〈夜会〉に潜りこみ……葡萄酒に、絵の具を……」

 絵の具の原料には毒性を持つものがある。絵描きであった父は、けして人が摂取してはいけないそれらを熟知していたはず。

 だからこそ――選んだのだ。罪を犯しても、愛する少年の望みを叶えることを。

 清婉な天使の姿をした、破滅の運命ファム・ファタルを。

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