Ⅹ.孵らざるアダムの卵たち

 小鍋いっぱいの牛乳にカツミレの茶葉を大匙二杯。暖炉の火でじっくりと温め、最後に蜂蜜を垂らす。こうするとカツミレの苦味が和らいで、小さな子どもでも飲みやすくなるのだ。

「熱いから気をつけてくださいね」

 湯気を立てるカップを手渡すと、男はこくりと頷いた。

 湯上がりの黒髪は生乾きで、いつもより癖が強そうにもつれている。両手で杯を持ってふうふうと息を吹きかけている姿は、まるで幼子だ。

「……甘い」

 ひと口牛乳を舐めた男は、ぽつりと呟いた。

「蜂蜜が入っているから」ぼくは男の肩からずり落ちた毛布を掛け直してやった。「甘いほうがお好きでしょう?」

 男は黙って杯に口をつけた。ぼくはそばにあった丸椅子に腰かけ、暖炉の前の敷物に座りこんだ男のつむじを見下ろした。

 暖炉の上には大鴉がちょこんと止まり、くつろいだ様子で羽繕いをしている。 こうして見ると、ただの鴉みたいだ。

 かすかに薪が爆ぜる音。

 火明かりが男の肌の上で波打っている。時間が止まったような、奇妙なほど穏やかな空気だった。

「久しぶりに、味がした」

 男が言った。ぼくは眉をひそめた。

「ずっとまともに食事を摂っていなかったせいですよ」

「そうではないんだ」男は力なく首を横に振った。はらはらと前髪が額に散る。

「何を口にしても、味がしなかったんだ。麺麭パンをかじれば砂を噛んでいるようで、スープをすすれば泥水を飲んでいる気分になった。そのうち食事そのものが苦痛になって……参拝者が持ちこんだ酒や菓子は味がしたから、そればかり……」

 ぱちん、と薪が爆ぜた。俯いた男の、ほっそりとした青白い首筋に、ぼくは無性に噛みつきたくなった。

「毒でも入っていたのでは?」

 意地悪く言い捨てると、男はぴくりと肩を揺らした。 

 ぼくは火掻き棒を手に取り、燃え滓を隅のほうへ追いやった。

「最近のあなたからは、ずっと死骸の臭いがしました」

「死骸……?」

 顔を上げた男が呆然とくり返す。ぼくはわざとらしく鼻を鳴らした。「ええ。腐った肉の臭いです」

 今の男からは石鹸と薔薇水の香りがする。

「参拝の方から贈られたとおっしゃっていた霊猫香を使うようになってから、です」

 みるみるうちに男の貌が青ざめる。痩けた頬がひくりと震えた。

「……だから私のことを避けていたのか?」

「それも理由のひとつです。本当は、娼婦の真似事をするあなたを見ていたくなかった」

 暖炉の上で大鴉がぴたりと静止した。食い入るように凝視してくる眼を一瞥し、ぼくは火掻き棒を握りしめた。

「参拝者といっしょに告解室へ入っていくあなたの背中を、ぼくがどんなにみじめな気持ちで見送っていたか考えもしなかったでしょう?」

 胸の奥底にひた隠しにしていた感情を刃にして振り上げる。男は息を呑み、詰まらせたような声を洩らした。

 がらりと火掻き棒を転がし、ぼくは確かな害意をこめて男を睨んだ。

「ルッ、ルネ」

 男は苦しげに喘ぎ、ぼくの名前を呼んだ。喉元までこみ上げた罵倒を押しとどめ、言葉を選ぶ。

「ぼくに裁きを求めるのなら――告解を」

 みどりの瞳がさざめき、ぐっと歪んだ。

「……わかった」

 男は血色の悪いくちびるを牛乳で湿らせ、視線を炎の中へ投じた。

 再度、薪が爆ぜる。「〈小さき天使〉を知っている?」

「……いいえ」

「幼くして天に召された子どもの葬儀で弔歌を捧げる少年ボーイ・ソプラノだ。かれらは小さなころから教会付属の音楽院で教育を受け、声変わりを迎える前に去勢手術を施されてカストラートになる。男でも女でもなく、人間でもない存在――だから〈天使〉と呼ばれた」

「きょせい?」

 男は片頬を歪ませ、自らの下腹部――両足の付け根を指差した。「男性としての機能を奪われる施術だよ。不思議なことに、声変わり前に去勢されると、少年期の声質のままでいられるんだ。昔の教会には、カストラートの若者が大勢いたそうだ」

 息を詰めて男を凝視すると、「私は違うよ」と成人男性らしい声で苦笑した。

「私ではなくて養父だ。正しくは、カストラートのなりそこないだったらしい」

「……先代の神父様、ですか?」

 男の瞳が暗く翳る。深淵のようなまなざしを煙らせ、「そう」と頷いた。

「私がこの教会に連れてこられたときには、もう頭の禿げ上がった老人だった。なのに声だけ奇妙に甲高くて、癇癪持ちの子どもが喚いているみたいに耳障りだったよ。音楽院では優秀な〈天使〉だったのに手術に失敗して……男としての人生ばかりか歌い手としての将来も奪われたと、来る日も来る日も怨嗟を吐いていた」

 未来のカストラートとして音楽院に送りこまれた少年たちのほとんどは、身寄りも行く宛もない孤児や捨て子だった。かれらが陽の当たる世界へ戻るためには、人間としての尊厳を神様へ捧げなければならなかった。

 けれども、すべての〈天使〉が歌い手として大成するわけではなく――医術が未発達だった当時、先代の神父様のように歌声という翼をもがれてしまう少年たちは数えきれぬほどいた。そもそも、現在は非人道的であるとしてカストラートの育成は固く禁じられているという。

「そんなの……あんまりです」

 思わず呟くと、男は淡く笑んだ。「私も同感だ。だから養父は……絶望し、憎悪し、狂うしかなかったんだ」

 コトリ、と杯を床に置く音。

 男が肩から毛布を落とす。火明かりに浮かび上がる体の線は男性らしく、それでいて胸がざわつくほど儚い。

「ルネ。幼少期から抑圧され続けて成長した人間が自分よりも非力な存在を前にしたとき、どんな行動を取ると思う?」

 こくッと喉が鳴った。「わかりません」と答えると、男は口の端を吊り上げた。

 亜麻布リンネルの襯衣の胸元がゆっくりと開かれる。青白い膚、心臓の真上で銀の十字架が揺れていた。

「自分が味わった以上の苦痛を相手に与えようと考える」

 ふわりと襯衣が滑り落ちた。剥き出しの上半身が反転し――眼前に現れた背中に絶句する。

 真っ赤だ。

 白い画布に鮮血を塗りたくったような、いちめんの瘢痕ケロイド。おびただしい鞭打ちの条痕、焼き印の形に引き攣れた火傷、いびつに抉れたり盛り上がったりしている箇所は刃物で斬りつけられたのだろうか?

 両の肩胛骨から腰まで左右対象に広がる赤錆色の疵は、まるで焼け爛れた翼のよう。

「なん、ですか。これは――」

「養父や、かれの支援者パトロンから賜った〈施し〉だよ」

「施し? 施しですって? これのいったい何が!?」

 男は肩越しに振り向くと、物憂く睫毛を伏せた。

「鞭打たれ、痛みの洗礼を受けたぶんだけ、私が背負う罪は雪がれるのだとかれらは言った」

 ぎゅうと細い躰を抱きしめ、男は続けた。

「私の母は貧民窟スラムの娼婦だった。父親はわからない。私が四歳のとき、行きずりの客といっしょに冬の運河に飛びこんで死んだんだ」

 嗚呼、とぼくは呻いた。

 娼婦が生み落とした父無し子。その母は、夫ではない男と自ら命を絶った――このひとは、生まれながらに神様の教えに背いてしまっているのだ。

「この教会はね。孤児院とは名ばかりの、男娼専門の娼館だったんた。私のような出自の男の子ばかり集められて、養父や支援者たちの慰み者にされた。どんなに泣き叫んでも許されず、逃げだすこともできず、私たちは踏みにじられた」

 淡々と――怒りも悲しみも乾ききった声で、男は語った。「夜の礼拝に訪れる参拝者は、みんな顔を隠しているだろう? 養父よりも前の代から、ここに来る客はなんだ」

「万が一、顔を知られたら立場が悪くなる方々ということですか?」

「うん。最近は堂々と顔を見せる参拝者もいるけれど……昔はね、けして口には出せないようなお歴々がいらしたものさ」

 たとえば、政財界の要人。たとえば、高位の聖職者。正義と秩序の守護者の仮面を被りながら、力なき幼子の血肉をすするけだものども。

 吐き気がして、それ以上に憤りが胸を焼いた。

「なぜ、こんな場所が作られたんですか」

 男は、ふ、と息を洩らすように笑った。「さあ? ……しいて言えば、必要悪だからではないかな」

「必要――悪?」

「どんな聖人にも、切り捨てられない悪性があるとして。公には認められない、だからこそ秘密の受け皿が求められた結果だと思う。私はここしか知らないけれど……きっと、似たような施設はいくつもあったのではないかな」

 神様の教えですら濾過できない人の闇。凝りきった罪業を贖う仔羊生贄の役目を背負わされた子どもが、大人になって別の子どもを仔羊にする。

「そんなの、ただの都合のいい欺瞞じゃないか」

「……ルネ」

「どうして神様は無能なんですか。悪魔みたいな糞ッ垂れを地獄へ引きずり落とすのが神様のお役目でしょう? 悪いことをしたやつに罰が下るのは当然じゃないか。それなのに、どうして赦されるんですか!」

 雪より白い、男の両腕に包みこまれた。素肌の胸はひやりとして、震える小鳩のようにトクトクと脈打っている。

 水晶と黒琥珀の珠飾りが頬をくすぐる。ルネと、押し殺した声がささやいた。

「でも、ルネ。ここでしか、私たちは生きられなかった。心も躰もめちゃくちゃにされて、ごみのように打ち捨てられても、罪を重ねることでしか生きていけなかった」

 ぼくは歯を食いしばって男の腕にしがみついた。

 仔羊になる道しか選べなかった少年たちの苦しみを、父の代替品としてしか母の愛を得られなかったぼくが否定するなんて、絶対にできなかった。

「泣かないでくれ」

「泣いてなんかいません」

 みっともなく洟をすすりながら言い張ると、男はおかしそうに笑った。

「不思議だ。あなたはお父さんそっくりなのに、かれとは違うことを言うんだね。あなたのお父さんは……涙脆くて、やさしすぎるひとだった」

 細い指先が眦を這う。かつて男が薔薇輝石のようだと比喩した瞳の奥底で、だれかを見つめながら。

泣き虫ウサギラパン・プルラールのルネ。私たち兄弟は、かれをそう呼んだ」

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