Ⅸ.誰ぞ駒鳥を殺したる
鴉が唄っている。
嗄れた鳴き声は、さえずりと言うには可憐ではない。年老いた泣き女の慟哭のように陰鬱で不吉な響きだ。
だが鴉の唄は、夜の終わりを告げる薄明かりとなって枕辺に射しこんでいる。
いつもとは違う匂いがする敷布から顔を上げ、ぼくはあくびを洩らした。
はじめて目にした神父様の寝顔は乳飲み子のようにあどけない。薄く開いたくちびるから洩れる寝息はかすかで、蝋人形の天使がうたた寝をしているかのようだ。
黒髪はくしゃくしゃで、着たままの法衣には皺が寄ってしまっているけれど、起こすにはあまりに忍びなかった。肩からずり落ちた掛布を引っ張り上げ、ぼくは室内を見回した。
書斎と寝室を兼ねた神父様の私室は、泥棒が入ったあとのように雑然としていた。年代物の立派な
入室の際には気にする余裕もなかったが、改めて見回すとかなりひどい。
泣きじゃくる神父様を寝台まで引きずり、なんとか落ち着かせようとしているうちに眠ってしまったのだ。何度か意識が浮上したが、ぐずる神父様に放してもらえず、一日寝台の上で過ごす羽目になった。
両手を上げ、強張った全身をぐうっと伸ばす。空腹感よりも喉の渇きを覚え、寝台脇の小卓に置かれた水差しから杯に水を注いだ。
生温い水で喉を潤すと、ようよう意識がはっきりした。
墓場からよみがえったルネ・エカラットの最初の朝だ。
ぴかぴかに磨いた鏡に洗いたての顔を映したような、不思議なほどさっぱりとした気分だった。
なぜか胸元まで外れている襯衣の釦を留め、寝乱れた髪を手櫛で整えて結い直す。寝台の下に転がっていた編み上げ靴に両足を突っこみ、鴉が唄う窓辺に近づいた。
窓掛けを開けると、うっすら曇った硝子のむこうに林檎の樹が立っていた。花も実もない枝に鳥の形をした闇が止まり、黒光りする眼で窓の中を覗きこんでいる。
――ネバーモア?
声にせず呼びかけると、大鴉は愛嬌のある仕草で首を傾げた。グァ、と短く鳴くと、林檎の枝から窓下にひょいと着地した。
真っ黒なくちばしがコツコツと窓硝子を叩く。慌てて窓を開けると、朝の外気が冷え冷えと流れこんできた。
「おまえ、どうしたの」
手を伸ばすと、大鴉は人懐っこく指先にくちばしをこすりつけてきた。念のため窓の外を探してみたが、
ずっと姿を見せなかったのにどうして――ぼくはハッとして、胸が潰れるような思いで大鴉に尋ねた。
「ぼくが、あなたたちを見つけたから?」
グゥア、と大鴉は喉を鳴らした。
茨の下で眠る孤児の少年たち――行き場のない魂の集合体こそ、
『スーリ』をお人形と嘲ったかれらもまた大人の愛玩だった。おそらくは、先代の神父様の嗜好性の犠牲となったのだ。
滲みかけた涙を瞬きで振り払い、ぼくは問いかけの体で確認した。
「でも、まだ終わってはいないんだね?」
大鴉は低く唸った。
そう、ぼくはかれらを見つけただけだ。かれらが本当に望んでいるのは、かれらを貶めた悪魔の所業を暴き出し、アダムの息子として弔われることなのだから。
そして――かれらの『弟』の救済を。
大鴉はぴょんと跳ねて部屋の中に入りこむと、神父様の枕元に上がった。青黒い隈が浮かぶ寝顔を凝視し、くちばしの先で神父様の額に接吻する。
それは確かに、深い愛惜に満ちた、兄が幼い弟に触れる仕草だった。
「あなたは、このひとのにいさんなんだね」
ぼくは寝台に腰かけ、黒くて小さなつむりを撫でた。大鴉はか細く鳴くと、何を考えたのか掛布の中に頭から潜りこんだ。
「あっ、こら!」
驚いて大鴉を捕まえようとすると、かれはもぞもぞと掛布から這い出してきた。ホッとしたのも束の間、くちばしに何かを咥えている。
チャラ、と金属がこすれる音。
鈍く光る、くすんだ銀の
「だめだよ。いくらなんでも、罰当たりな――」
大鴉の口元で十字架が揺れる。その拍子に、小ぶりな飾りがちらついた。
どくりと心臓が波打った。
急かすように大鴉が十字架を揺らす。ぼくは唾を飲みこみ、そっと手を伸ばした。
差し出したてのひらの上へ、チャラリと十字架が落とされる。
十字架の根元には色褪せた深紅のリボンが結びつけられ、真鍮製の鍵が括りつけられていた。
ぼくの小指よりも小さな鍵には、繊細な薔薇の彫りこみが施されている。揃いの意匠、ぴたりと嵌まるはずの鍵穴を、ぼくは知っていた。
「宝石箱の……?」
呆然と呟くと、大鴉は鍵をつついて肯定を示した。
十字架と鍵は人肌の温みを帯びていた。神父様の命のひと雫を両手で包みこみ、ぼくは首を横に振った。
「これは、きっと大事なものだから」
今の神父様から鍵を奪い取ることは簡単だ。でも、それは不誠実な行為でしかない。ぼくが街の悪童に一生懸命稼いだ日銭を貪られたように、このひとを打ちのめす暴力でしかない。
……そもそも、神父様がおそれている過去を暴き立てようとしている時点で、言い訳なんてしようもないのだ。ぼくの愛、ぼくの正義は、間違いなくあのひとを傷つけることになるのだから。
――それでも。
「ぼくから話すよ。とうさんの画のこと、あなたたちのこと、宝石箱のこと……テオドールさんのことも。ちゃんと話して、神父様の口から教えてもらいたい」
少しでも神父様がぼくを想ってくれているのなら、ぼくの言葉に耳を傾けてくれるかもしれない。できる限り愛するひとに対して誠実でありたいという願いに、大鴉は何も言わなかった。
「ん……」
神父様が声を洩らし、もぞりと身動ぐ。大鴉は軽やかに跳躍し、ぼくの肩に飛び乗った。
ぼくは急いで十字架を掛布の下に押しこんだ。ほぼ同時に神父様の瞼が震え、くろぐろとした睫毛がゆるゆると持ち上がる。
朝露にしっとりと濡れた若葉を思わせる瞳がぼくを映し――柔く綻んだ。
内側から澄んだ光が射すような、無垢な表情に心臓を鷲掴まれる。
「おはよう」
「お、おはようございます」
なんだか口調までいとけない。神父様はうふふと笑った直後、両目を見開いた。
「……鴉?」
肩の上の存在を思い出し、ぼくは「ひぇ」と間抜けな悲鳴を洩らした。当の大鴉は何食わぬ様子で小首を傾げてみせている。
「ええっと……のっ、野良犬にちょっかいを出されてケガしていたところを助けてあげたら、すごく懐かれて! 実はこっそりご飯をあげていたんです! ねっ?」
とっさに同意を求めると、大鴉はグァア、とひと声鳴いた。神父様はぼんやりと大鴉を凝視していたが、それ以上は追及せずに起き上がった。
あちこち跳ねた髪の下から、複雑そうな笑みが覗いている。
「あなたは不思議だ」
「へ?」
「巣から落ちた
そろりと頬をなぞられ、くすぐったさに首を竦めた。雪白の指が耳元に垂れた毛先を掬う。
「風切り羽を切り落として、籠の中に閉じこめたはずだったんだ。でも結局、さえずることしか知らない駒鳥は私のほうだった」
「神父様」
翳りを帯びたまなざしが伏せられる。雛罌粟色のくちびるが低くささやいた。
「違うんだ」
「何が、ですか」
「私は……
ぼくは息を呑んだ。
「それどころか、洗礼すら受けていない。何もかも、ぜんぶ嘘なんだ」
男の声は自嘲するように笑っていた。聖職者を騙るなんて、普通に考えて鞭打ちどころでは済まないような大罪だ。
「……なぜ、そんなことを?」
ふ、と吐息が揺れる。はだけた法衣の胸元で銀の十字架が光っていた。
「ルネの――きみのお父さんの、そばにいたかったから」
ぎゅうと心臓が引き絞られた。ぼくは目の前の男を見据えた。
俯きがちに、男は続ける。
「神様の許へ行ってしまったかれのそばにいるためには、神様のしもべになるしかなかった」
「とうさんは」
目頭に火が点いたようだ。皺が寄るほど法衣を握りしめ、詰まりそうな言葉を押し出す。
「ぼくの、とうさんは……死んだの?」
男の、みどりの眸が、浮上した。
長い長い束の間の沈黙。「私が殺したんだ」ひどく冴えた、声だった。
嗚呼、と、喉の奥で呻きが膨れ上がる。軋むほど奥歯を噛みしめ、ぼくはうなだれた。
――とうさん
顔も、声も、てのひらの温みすら知らない父よ。今こそぼくは、永遠にあなたを喪った。
堪えきれなかった涙が溢れ、ぱたぱたと敷布に小さな染みを作った。背中に腕が回され、寒さに震えるひとに縋りつかれるような抱擁に捕らわれた。
肩の上から大鴉が逃げたのか、ばさりと羽音がした。
「ルネ」
父と同じ、ぼくの名前を、父を奪った男が口にする。睦言を交わすようにやさしく、祈るように切なく、深く染み入る声で。
「愛して、いるんだ」
「とうさんを、ですか」
「……あなたを」
ひゅう、と喉が鳴った。
喜びと憎しみと悲しみでぐちゃぐちゃになった感情が氾濫する。涙をこぼしながら打ち震えるぼくの頬を両手で押し包み、男は言った。
「どうか罰を――私に」
「ぼくに、あなたを裁けと?」
「あなたになら殺されてもいい。あなたの手で地獄へ落とされるなら、本望だ」
なんて勝手。なんて傲慢。腹立たしさのあまり眩暈がした。「ふざけるな!」
「ル――」
「死ぬなんて許さない。償いたいというのなら、ぜんぶ話せよ! どうしてぼくとかあさんが苦しまなくちゃいけなかったのか、どうしてとうさんを殺したのか、ぜんぶ教えろ!」
声の限り怒鳴り散らすと、かれはくしゃりと顔を歪めた。
小さな男の子じみた泣き顔には、呆れるような歓喜が滲んでいた。
「あなたが望んでくれるのなら」
小卓の上に止まった大鴉が、物憂げに啼いた。
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