Ⅷ.紅薔薇の魔女

 告解室から持ち出した宝石箱を開けることはできなかった。

 鍵穴に針金を入れてこねくり回してみたけれど、ぼくに泥棒の才能はなかったみたいだ。とりあえず持ち出したことが神父様に知られないよう、布切れでくるんで衣装箪笥の奥に押しこんだ。

 問題は、宝石箱の鍵の在処だ。

 念のために告解室じゅうを調べてみたけれど、床下の隠し穴以外に不審な箇所は見つからなかった。孤児たちが暮らしていた僧房はもちろん、ぼくの私室を含めた教会全域を探し回ったが、焦燥感が灰のように降り積もるばかり。

 あとは――神父様の私室だけ。

 ぽちゃん、と盥に張った湯が跳ねた。

 盥から顔を上げたぼくは、垂れ落ちる水滴を拭い取った。

 濡れて重みを増した頭髪を固く絞る。足元の盥の湯は、血のように赤黒く濁っていた。

 薄暗い沐浴室には靄のように湯気が立ちこめ、髪の染め粉を洗い落とすだけで汗だくになってしまった。ぼくは盥の湯を入れ替えると、ぺったりと肌にまとわりつく下着シュミーズを脱ぎ捨てた。

 麦藁のような薄い金茶色の巻き毛がうねりながら胸元まで流れ落ちる。青白い躰は女性らしいまろみをまだまだ成していないが、どう見ても少女のものでしかない。

 水面に映りこんだ褪紅色の瞳がぼくを見る。

「さよなら、『スーリ』」

 ほんのいっとき、やさしい夢を見せてくれた女の子へ別れを告げる。だれよりも愛された、きれいなお人形にしかなれなかった『わたし』へ。

 湯に浸した手拭いで躰を清めたあと、ぼくは用意しておいた着替えに袖を通した。

 神父様から与えられたお仕着せではなく、街の少年が着るような洗いざらしの襯衣シャツと吊りズボン。僧房に残されていた孤児のものを拝借した。

 生乾きの髪をうなじで括れば、十年間男の子として生きてきた『ぼく』が現れる。いちどは死に、茨の中で息を吹き返した子ども。

 沐浴室を出たぼくは、神父様の私室へ向かった。

 日没を過ぎ、すでに部屋の主は礼拝堂にいるはずだ。夜が明けるまで神父様は戻ってこない――この好機を逃すわけにはいかない。

 神父様の私室は居住棟の端に位置している。他の僧房と同じように、戸口には古びた飴色の扉があった。

 扉に耳を当て、室内にだれもいないことを確認する。息を詰めて真鍮の把手を回そうとして――がちん、と硬い音がしただけだった。

「えっ……」

 どんなに動かそうとしても把手は回らず、扉はびくともしない。把手の下には、鍵穴がぽっちりと小さな口を開けていた。

 他の僧房は施錠なんてされていなかったのに。呆然として立ち竦んでいると、ずり、と引きずるような足音が聞こえた。

 へどろの臭気よりもひどい腐敗臭がどろりと広がる。

「……スーリ?」

 心臓が止まりそうになった。

 油が切れた鉄葉ブリキ人形のようにぎこちなく振り返ると、廊下の壁に凭れかかった神父様がこちらを見ていた。

 黒い髪はぼさぼさで、法衣の釦が外れて青白い喉仏が剥き出しだ。充血した眸がぼくを映し、ひくりと波打った。

「その髪、どうして」

 苦い嘔気を飲み下し、ぼくは神父様を睨んだ。

「……神父様こそ、なぜここに? 今は礼拝のお時間でしょう?」

 神父様は答えず、見開いた瞳を震わせるばかりだった。

 痩せこけた白貌は血の気を失い、今にも倒れてしまいそうだ。もしかしたら体調不良で礼拝を取り止めたのかもしれない。

 とにかく神父様を横にさせなければと思い、ぼくはかれに尋ねた。

「神父様、部屋の鍵をお持ちですか?」

「鍵……」

「そうです。すぐに部屋でお休みになられたほうが――」

 黒い腕が蛇のように伸びた。

 襯衣の胸倉を掴まれ、背中から扉に押しつけられる。肺を潰さんばかりの力に息が詰まった。

 鼻の先が触れ合いそうな距離で、みどり色の瞳がぎらぎらと煮え滾っていた。

「ッ、は、な……」

「あなたも」

 ざらついた掠れ声は、狼が唸るよう。

 ぼくは男の手に爪を立て、浮き上がった両足をばたつかせた。

 どこにこんな力が残っていたのか――あるいは、激情がかれを駆り立てているのか。

「私を、見捨てるのか」

 神父様のまなざしに、怒りにまみれた絶望を見た。

 息苦しさに喘ぎながら、ぼくは(嗚呼)と理解した。

 かあさんと同じ表情かおだ。

 地獄に置き去りにされ、行き場のない感情を代替品ぼくに注ぐことでしか自分自身を守れなかった――報いも救いもない愛を抱えて、空の棺の前で泣き伏している。

 ぼくは、かあさんを愛したかった。救いたかった。とうさんの身代わりではなく、ぼく自身が救いたかったのに。

 ――今度こそ、このひとを愛し抜くと決めた。

 爪の先が血に染まった両手を男の頬へ伸ばす。

 浮き出た頬骨をなぞると、うっすら赤い線が走った。神父様が、ハ、と呼吸を震わせる。

 ぼくは微笑んだ。

「あなたが、求めるのならば、いくらでも」

 神父様の手から力が抜ける。

 そのまま崩れ落ちたぼくは、激しく咳きこんだ。ようやく呼吸が落ち着いて顔を上げると、蒼白になった神父様が立ち尽くしていた。

「わ、わた、しは、何を」

「神父様」

「ち、違う。違うんだ。ただ、私は、あなたに……あなた、を」

 骨張った両手で顔を覆い、かれは膝を床につけた。

 ああ、とも、うう、ともつかない声が洩れ、こぼれ落ちそうな両目は潤んでいる。ぼくはうまく力の入らない手で法衣の裾を引いた。

「ぼくはもう、あなたの愛玩スーリにはなれません」

「ッ」

「弱くてかわいそうな、あの子のままではあなたを抱きしめられないからです」

 神父様のくちびるがわなないた。

 薄赤い筋の上を涙が伝う。場違いなほど、それは美しく透明だった。

「神父様。ぼくの、本当の名前をご存じですか」

「あなた、の?」

 神父様は泣きながら、幼子のように首を傾げた。ずりずりと膝を詰め、法衣を手繰り寄せて、ぼくは虚ろな瞳を覗きこんだ。

 今からぼくが行おうとしていることは、復讐なのかもしれない。

 かれにとって、ぼくは過去の亡霊にも成り得る。この名前は呪詛にも糾弾にも聞こえるだろう。

 それでも。

 ――それでも。

 ぼくは、かれに告げる。かれの〈神様〉に成り代わろうとする、罪深き魔女の名を。


「ルネ」


 ひゅうと男の喉が鳴った。

 逃げようとする躰を力いっぱい引き寄せ、その心へ刻みつける。

「ルネ・エカラット。あなたの目の前にいるのはスーリでもルネ・ギスランでもない。ぼくは、ルネ・エカラットだ」

「あっ、ぁ」

「あなたが何者で、ぼくの父との間に何があったかなんて、どうでもいい」

 嘘だ。

 人間、追い詰められるといくらでも強がられるらしい。整理のつかない感情は溶けきらない泥雪のようにぐずぐずとわだかまっているけれど、ぼくの最優先事項は目の前の男を屈伏させることに尽きた。

 ぼくらの時間は死者の永遠に比べてあまりに短く、有限なのだから。

 法衣の膝に乗り、限界まで伸び上がる。中途半端に開いたままの口を力任せに塞ぐと、がつッと前歯が当たった。

ッ!」

「……………!?」

 思わず顔を離すと、神父様の顔がぶわっと紅潮した。

 下手くそな接吻の拍子に切れてしまったのか、薄いくちびるの端に血が滲んでいた。それがなんとも悔しくて舌で舐め取ると、神父様が思いだしたように瞬いた。

 法衣の腕がぐっと腰に巻きつく。あっという間に体勢が逆転し、神父様はぼくを扉に押しつけて覆い被さってきた。

 熱く濡れた口づけが、額に、こめかみに、瞼に、鼻筋に、頬に、口端に、顎の下に降り注ぐ。ぞくぞくするような感覚に声を洩らすと、いっそう激しく肌をなぶられる。

「し、神父様、ちょっ、ちょっと待って」

「いやだ」

「話を、聞いてくださ……ひゃッ、どこ触って」

 襯衣の裾から潜りこんできた手には、さすがに慌てた。ぼくは両手で神父様の頬を叩き、「いい加減にしないと、嫌いになりますよ!」と怒鳴った。

 不審な動きをしていた手がぴたりと止まる。なぜか泣きそうな顔で凍りついている神父様に、 ぼくは眉をひそめた。

「落ち着いてください」

「……謝るから、嫌いにならないでくれ」

「とりあえず放してください」

「いやだ」

「いなくなったりしませんから。このままだと、話すどころか、あなたが休めません」

「いやだ」

「いい加減にしろよ、この野郎」

 神父様はぐすぐすと泣きだした。ぼくはうんざりしながら、うなだれた黒い頭を撫でた。

「スーリではなくなったぼくは信用できませんか?」

「そんなこと、は」

「なら、言うとおりにしてください」

 肩口にぐりぐりと額をこすりつけてくる。ぼくよりも小さな男の子みたいな態度に、呆れ半分愛しさ半分の笑いがこみ上げてきた。

 両腕を神父様の首に回すと、大きな背中がびくりと震えた。

 ――このひとは、ぼくを失うことに怯えているのだ。

 それはなんとも狂おしく、充足感に満ちた悦びだった。

 眩暈がするほど幸せで、ぼくは笑いながらぼろぼろと涙を流した。

「あなたを嫌いになるなんて、無理ですよ」

 顔を上げた神父様は、驚いたように息を呑んだ。

「あなたがどんな悪人でも、ぼくはあなたが好きです。あなたをどれだけ傷つけて苦しめても、ぼくはぼくのまま、あなたのそばにいたい」

 神父様は――ぼくを呼んだ。

 ほとんど吐息めいた、か細い声で、ぼくの名前を。

「ルネ」

 嬉しくて泣き笑いながら頷くと、かれはきれいな顔をぐしゃぐしゃにして、ぼくを頬に指先を這わせた。

 温かい、人の手だ。長年の庭仕事で皮膚が硬くなったてのひらに頬を預け、ぼくは目を伏せた。

「……愛しています」

 祈りにも似た告白は、雪どけのような口づけに溶けて消えた。

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