Ⅶ.心と口と行いと生きざまもて

 真昼の礼拝堂は薄暗く、饐えた腐臭が充満していた。

 冷たく湿った闇へ踏みこむと、猛烈な吐き気が胃を押し上げる。ぼくは口元をスカーフでぴっちりと覆い、物置部屋から引っ張り出してきた携行燈カンテラを高く掲げた。

 灯を落とした礼拝堂の内部は黄昏のようだった。聖壇の上の彫像は影絵のごとく滲み、夜の礼拝で見上げた神々しさはどこにもない。

 不気味な異形を睨み、ぼくは奥を目指した。

 今ごろ神父様は私室でぐったりと寝こんでいるだろう。夜な夜なの礼拝は神父様を激しく疲弊させ、ここ数日は日没を過ぎないと起きてこない。まともに食事を摂れていないせいで痩せ細り、白い肌はますます青ざめて病人の態だった。

 もう少しぼくが長じていれば、白痴美とはああいうことかと痛感したはずだ。このとき、神父様は霊猫香に練りこまれた〈魔女の軟膏〉と呼ばれる毒性の媚薬に冒されていた。

 教会を覆う腐臭の正体こそ、〈魔女の軟膏〉の刺激臭だった。本来、蜂蜜のように甘い香りに感じられる臭気に対し、ぼくの心身が拒絶反応を起こしたのは〈魔女の軟膏〉のだったからだ。

 即効性・依存性ともに強力な〈魔女の軟膏〉には、性交渉可能な成人――第二次性徴を経た男女にのみ効果が及ぶという但し書きがついていた。まだ初潮を迎えていなかったぼくは媚香に毒されることなく理性を保つことができた。

 淫蕩な翳りに覆われた告解室の前に立つと、引き絞られた心臓が痛いほど胸を打った。唾を嚥下し、真鍮の把手ドアノブに手を伸ばす。

 わずかに軋みながら扉が開いた。腥い闇がむわりと立ち上る。

 こめかみの鈍い痛みを噛み潰し、ぼくは携行燈の光を投げこんだ。

 棺桶のような小部屋はあいかわらず陰鬱で、古びた寝椅子と奥の壁に掛けられた肖像画もそのままだ。揺れる灯りが額縁の中で清らかに微笑む『白い薔薇』を照らしだす。

 父の遺作を前に、ぼくは目を凝らした。

 携行燈を近づけると、油彩特有のざらざらとした光沢が波打った。額縁の細かい装飾から肖像画の隅まで見回したが、引っかかる箇所はない。

 落胆を堪えきれず、ため息が洩れた。

 ――テオドール氏に託した骨片は、父のものではなかった。

 父を探し出したいというぼくの懇願に、テオドール氏は険しい顔をしながらも頷いてくれた。くれぐれも危険を冒さないよう念押しされた上で、鉄柵の外から手を尽くすと約束してもらえたのだ。

 それから四日後の今朝方、かれは驚くべき報せを携えてきた。

 骨片を知り合いの医師に調べてもらった結果、成人していない男児のものだと判明したというのだ。

 茨の下に埋められているのは、教会からいなくなった孤児の少年たちだった。

 では父と――先代の神父様はどこに消えたのか?

 肖像画に何か手がかりがあればと考えたのだが、神様はやさしくないようだ。俯けた視線が床を掠めた。

「……?」

 礼拝堂の床は黒っぽい板張りになっている。告解室も同様にみっちりと床板が敷き詰められているのだが、ちょうど肖像画の真下――壁際のいち部分だけ色が違う。

 聖典とほぼ同じ大きさの四角形。床板を切り抜いて、あとから別の板をはめこんだような切りこみ痕がある。

 ぼくは息を呑んで屈みこみ、切りこみ痕に指を引っかけた。

 カコン、と板はあっけなく外れた。

 ぼくはお仕着せの胸元を握りしめ、床下を覗きこんだ。

 やはり四角形の小さな穴だった。中に収められたものが灯りに反射する。

 ――宝石箱キャスケットだ。

 大きさは、ぼくの両手で持てるくらい。ずいぶん古びて変色しているが、蓋や側面を覆う蔓薔薇の彫りこみは繊細で美しい。よくよく見ると、薔薇の花に埋もれて小さな天使が喇叭ラッパを吹いたり頬杖をついてまどろんだりしている。

 ぼくは携行燈を横に置き、おそるおそる宝石箱を取り出した。金属の装飾のせいか、ずっしりと重い。

 蓋を開けようとしてみたが鍵がかかっている。どうしようかと戸惑っていると、礼拝堂の扉が開く音が響き渡った。

 心臓が止まりそうになった。

 宝石箱を抱きしめ、背後を振り返る。

 告解室の扉は、ほんの少しの隙間を作っていた。ぼくは息を殺し、じっと耳をそばたてた。

「――……」足音と、話し声が聞こえる。

 神父様と、もうひとり、知らない男のひとの声。

「どうか、お帰りください」

「昼間のあなたはつれないのですね。あんなにも熱く愛をささやいたくちびるで、まるで野犬のように僕を追い払おうとするのだから」

 くつくつと喉を鳴らして笑う声に肌が粟立った。口調はやさしいのに、するりと心臓の裏側を撫でられるような寒気を覚える。

 神父様と来訪者は告解室のほうまで来ず、扉近くの参列席のあたりで話しはじめた。ぼくは止めていた息をゆっくりと吐き出し、慎重に扉の隙間に近づいた。

「つれないことを言いながら、僕の贈りものをお気に召してくだすったようですね。今も、ほら、蜜のような香りを振りまいて僕を誘惑されていらっしゃる」

「……お心遣いには、とても感謝しています。ですが、まだ陽の高いうちからいらっしゃるのは、お控えください。今宵も礼拝を執り行うですので、また改めて――」

 苦々しく抗議する神父様と向き合っているのは、かれよりも背の高い男のひとだった。

 逆光になって顔はわからないが、身形はよく、声には若々しい張りがある。

 会話の内容から、夜の礼拝の参拝者が押しかけてきたのだとわかった。贈りものという単語が棘のように突き刺さる。

「おや、ここでは昼の参拝を禁じているのですか?」

「そう……いうわけでは……」

「ではいつものように、あなたの御慈悲を僕にいただけませんか。その美しい声で、僕の心に安息をもたらしてほしいのです」

 神父様が短く声を上げた。参拝者の腕が伸びて、ふたりの影がぐっと重なる。

「んッ……」

 粘着質な水音、獣のような切れ切れの息遣い。

 目を逸らして耳を塞ぎたいのに体が動かない。瞬きを忘れた瞳がひりひりと痛み、鼓膜の内側で血流が渦を巻き上げている。

 喘ぎながらもがく神父様を呑みこむように参拝者の影が覆い被さった。ぎ、ぎ、と床板のたわむ音が杭となって打ちこまれる。

 ……今すぐあの男を殺せるのなら、悪魔に魂を売り渡してやる。

 どす黒い憎悪が氾濫を起こし、ぼくは瘧にかかったようにぶるぶると震えた。

「……っ、おやめください!」

 息も絶え絶えになりながら神父様が参拝者を突き飛ばした。

「いい加減に、なさってください。このようなことをなさるのでしたら、しばらく参拝をお控えいただかなければいけません」

「何をそんなに気にしておられるのですか? 今更、街の者の目なんて……ああ、もしや、あの赤毛の侍童ですか?」

 男が笑いながら尋ねると、神父様の肩がびくりと跳ねた。

 ハ、と喉の奥からひくつくような声が垂れ落ちる。

「珍しい髪色だから、よく目につきますよ。ずいぶんとかわいがっておられるようだ」

「……あの子は、関係ありません」

「最初は『お嬢さん』かと思いましたが――なるほど、

 ダンッ! と、神父様の拳が参列席の背もたれを殴りつけた。

 静寂が翻る。口をつぐんだ参拝者へ、神父様が激情を滲ませて呻いた。

「どうぞ、お帰りくださいますよう」

「……やれやれ、今日のところはおとなしく退散しましょう。夜の聖母のご機嫌まで損ねたくはありませんので、ね」 

 参拝者はわざとらしく両手を挙げてみせた。「ですが」言葉を切り、愉しげに声を弾ませる。

「僕も気の長いほうではないので――あまり焦らされると、噂を流してしまうかもしれませんよ? たとえば、旧王都の大聖堂に出入りしている商人にとか」

「……、……」

「ふふ、そんな顔をなさらないでください。単なるたとえ話ですよ」

 凍りついている神父様の頬に音高く口づけし、参拝者は「それでは」と礼拝堂を立ち去った。

 参拝者が出ていってしばらくして、ずるずると神父様は参列席に座りこんだ。うなだれた影の上で陽射しが真白く光る。

「……お赦しください」

 掠れた声で、神父様は呟いた。

「どうか、憐れみください。罰ならば、罪深きわが身に。いくらでも、いくらでも、お与えください。お裁きください。どうか、罪なきひとを、お救いください。どうか……」

 あまりに弱々しい口調だった。

 この世のすべての罪を贖う聖者のように、神父様は打ちひしがれていた。たまらず告解室から出ていきそうになったぼくを、かすかな呼び声が引き止めた。

 それは、ぼくの――いや、父の名前だった。

「あなたを殺した私への、これが罰なのか。あなたは死してさえ、私の望みを許してくれない……」

 宝石箱が歪むくらい、腕に力が入った。

 神父様は長く祈ったあと、足を引きずるように礼拝堂をあとにした。

 再び閉ざされた闇の底、ひとりぼっちになったぼくは声を引き絞って泣いた。

 乞食芝居のような悲劇だ。

 ぼくが恋したひとは、ぼくの父を殺した男だった。ぼくが持って生まれてくるはずの幸福は、あのひとの手によって摘み取られた。

 ならば、何を憎めばいい? だれを呪えばいい?

 嵐のような苦しみも悲しみも、全部全部、あのひとを糾弾する矢に変えて番えればいいのか。愛を乞うたこの手で、あのひとの胸に復讐の剣を突き立てろというのか。

 ――嗚呼。ぼくこそが、あのひとの救い主になりたかったのだ。

 浅ましい女の願いを抱いて、ぼくは血まみれの赤ん坊のように慟哭した。

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