Ⅵ.死にゆく愛と生ける哀

 まだ固い雪の上に、茶褐色に萎んだ薔薇のつぼみが落ちていた。

 茂みの根元を覗きこむと、ぽとりぽとりとあちこちに散らばっている。ぼくは息を吸いこみ、お仕着せの前掛けエプロンを広げてつぼみをひとつずつ拾い上げた。

 庭じゅうを歩き回った末、前掛けはずっしりと重くなった。綻ぶ前に朽ちてしまったつぼみを埋めるため、奥の茂みの根元の土を掘り起こす。

 あらかじめ用意しておいた円匙スコップの先で土を掻き出しながら、こうしてつぼみの埋葬をするのは幾度目かと考える。

 確か、これで四度目だ。

 花を咲かさずに変色し、断頭台から落ちた首のように転がっているつぼみは日に日に増えていた。庭に広げられた冬薔薇のヴェールも、今は透かし編みのように薄い。

 ぼくは円匙を握る手を止め、庭のむこうの礼拝堂を見た。

 靄のごとく垂れこめた暁闇に包まれた礼拝堂はひっそりと静まり返っている。夜明け前の張り詰めた静寂は、その内側で何が行われているのか知らない人間には厳粛にすら感じられるだろう。

 てのひらの皮膚が円匙の柄にこすれてぎちりと軋む。ぼくは下くちびるを噛み、より深く土を抉った。

 こうして穴を掘って朽ちたつぼみを埋めるたび、自分の恋心を握り潰して土を被せているような気がした。礼拝堂に凝った薄闇の奥、あのひとの肌を何人の手が這い回ったのかと考えるだけで、怒りが吐き気となってこみ上げてくる。

 夜ごと漂う死臭は密度を増し、陽が昇ってからも神父様にこびりついて離れなくなった。理知的なみどり色の瞳は夢遊病者のごとく虚ろになるばかりで、私室に籠りきりになって庭の手入れも満足に行えない日が続いている。

 快楽に溺れる神父様は、まるで何かに駆り立てられているようだった。あからさまにぼくを避けているらしく、ここ数日まともな会話をした記憶がない。

 ぼくは苛立ちまぎれに円匙を振り上げた。突き立てた刃先に何かが当たった。

「……?」

 カツ、カツ、と硬い感触が返ってくる。土の下に小石でもまぎれているのだろうか? ぼくは上澄みの土を掻き出した。

 掘り進めた穴は、ちょうどぼくの指先から手首までの深さだった。土を払い除けると、白っぽいものが見えた。

 ぼくは息を詰め、おそるおそるそれを拾い上げた。

 それは、ぼくの親指の先ほどの大きさの白い小石――のようなものだった。石というよりも乾いた木材の破片めいて軽く、一方の先端が尖った不格好な形をしている。

 薄ら寒い疑念が染みのように滲む。ぼくは更に円匙で土を掬った。

 土の下から似たような白い破片がいくつも現れた。不揃いでいびつな形をしたそれらは……骨だった。

 心臓が耳の奥で打ち震えている。ぼくはその場にぺたりと座りこみ、お仕着せの懐に隠した羽根を握りしめた。

 ――

 とっさにネバーモアを呼ぼうとして、口を引き結んだ。これがかれらとは限らない可能性に気づいたからだ。

 はじめて会ったとき、ネバーモアは『ぼくと同じ名前の友人は若くして亡くなった』と言っていた。かれらが友人と呼んだ、ぼくと同じ名前の父。

 この街に父の墓はない。行方知れずになって十年以上が過ぎているが、だれもが『父は死んだ』としなかったからだ。

 けれど、もしも父が街のだれも知らないところで命を落とし、周囲から忌避されている教会に眠り続けていたとしたら?

 ぼくは震える手で手巾を取り出し、骨片をひとかけら包みこんだ。それ以外はすべて土を元どおり被せ、更にその上につぼみを敷き詰めて穴を埋める。

「『土は土に、灰は灰に、塵は塵に』……」

 死者を弔うことばをくり返し、ぼくは土で汚れた両手を組んで祈りを捧げた。今はこんなことしかできないぼくを許してほしい。

 夜明けはしんしんと燃え上がった。薄雲を透かして薔薇色の光線が走る。

 ……そろそろ礼拝堂に戻らなければ。ぼくは前掛けで両手を拭った。

「そこにだれかいるのか?」

 唐突に茂みの奥から話しかけられた。驚いて振り返ると、茨が絡みつく鉄柵のむこうから人間の手が伸びている。

 ネバーモア――ではない。茂みを掻き分けて覗いたのは、見たことのない男のひとだった。

 神父様より年嵩の、中年に差しかかるころの紳士。山高帽を被り、神経質そうな細面に丸眼鏡をかけ、きちんと整えられた口髭を生やしている。

 剃刀めいた薄灰色の眸がぼくを捉え、驚きをあらわにした。

「ギスラン?」

 紳士の口から放たれたのは、聞き覚えのある名前だった。父が消えずに母と結婚していればぼくも名乗るはずだった、父の家名。

 凍りついたぼくの顔を注視し、紳士は「まさか……」と呟いた。

「きみは、画家のギスランの娘か?」

 是とも否とも答えられず、ぼくは紳士を見つめ返すことしかなかった。

 紳士は眉根に皺を寄せ、「きみの父親は、ギスランという画家かと訊いているんだ」と不機嫌そうに言った。

 ぼくは息を吸いこみ、前掛けを握りこんだ。

「あなたこそ、だれですか?」

 紳士は片眉を跳ね上げた。「テオドール。画商だ」

 個人名なのか家名なのか、紳士――テオドール氏は端的に名乗った。

「さあ、今度はきみが答える番だ。きみの父親は、画家のギスランなのか?」

「……そう、です」

 逡巡しながらも頷くと、テオドール氏は大仰にため息をついた。

「やはりそうか。クロード老から話を聞いたときには、半信半疑だったが……」

「あの、クロード老って」

「きみも会ったことがあるはずだ。きみの父親の師だった〈女王の画家パントル・ド・ラ・レーヌ〉に」

 仕立屋の屋根裏部屋を訪ねてきた老画家の気難しそうな顔を思いだす。

「かれは今、病床に臥している」テオドール氏は淡々と告げた。

「多くの弟子を戦争で奪われ、宮廷芸術家の同志や女王を革命で喪っても、絵筆を握り続けた画家として立派な死を遂げようとしている。かれの心残りは、道半ばで姿を消した末弟子のことだ」

 テオドール氏は、父と同じぼくの名前をぼそりと呟いた。

「私も何度かギスランに会ったことがあるが、本当に父親そっくりだな」

「……よく言われます」

「だが、きみは女の子だろう?」

 冷たげなまなざしに憐憫が滲む。おそらくクロード老からぼくの生育環境を聞いているのだろう――くちびるを噛んで頷くと、テオドール氏は眉をひそめた。

「クロード老はギスランの消息を追いながら、ずっときみのことを気にかけていた。そして、この教会にギスランの唯一の作品が残されていると聞きつけて、なんとかきみといっしょに自分の手元に引き取れないかと私に頼みこんできたんだ」

「え……」

「『わたしの白い薔薇』――クロード老から買いつけを依頼された、きみの父親の作品の題名タイトルだよ」

 告解室の肖像画だとすぐにわかった。神父様に対する父の想いが茨の棘のように胸を刺す。

「だが、いざ足を運んでみたらどうだ。きみの母親は療養所送りになっていて、街のだれもきみの所在を知らない。きみが行方知れずになったあと、教会に流民の子どもが引き取られたらしいとだけ聞いて、もしやと思い……」

 テオドール氏は言葉を濁し、荒々しく首を横に振った。

「道理で街の連中が教会のことを教えたがらないわけだ。あんな――あんな、おぞましい、汚らわしい行為が許されるはずがない!」

 語尾に滲む怒気に肩が震える。

 きっとテオドール氏は夜の礼拝に潜りこんだのだ。黒い頭巾をすっぽり被ってしまえば人相はわからなくなる。

 そこで、かれは目撃してしまった――妖婦のごとく淫蕩に微笑んで参拝者を告解室へ誘いこむ堕天使を。

 テオドール氏が強い口調でぼくを呼んだ。

 上等な黒の革手袋を着けた手が、前掛けを握りこんだぼくの手をしっかと包む。

「安心しなさい。すぐにきみをここから連れ出す手配をする」

 その力強さに、ぐらりと世界が揺らいだ。

 薔薇の香りと甘い死臭に満ちた教会が、まるで夢のように思えてくる。夏の雨が降りしきる路地裏で行き倒れたぼくは、心やさしいだれかに助けられ、ずっと寝台で眠り続けているのではないか――と。

 魂の底から、鴉の鳴き声が響き渡る。

 息を吸いこみ、ぼくはテオドール氏の手を握り返した。

「お願いが、あるんです」

 骨片を包んだ手巾を渡し、怪訝そうな剃刀色の瞳を見つめて訴える。

「もしかしたら、とうさんの行方がわかるかもしれないんです」

「なんだって?」

 テオドール氏は手巾の中身を見るなり、蒼白になった。「これは……」

「あるひとから、とうさんは死んだと聞かされました。ぼくは、本当のことが知りたい。そして、ぼくの白い薔薇を、悪魔ドラクルから取り戻したい」

 茨の檻に囚われた眠り姫は、ぼくではない。

 ぼくは茨を切り裂く剣、天使に恋がれた欲深い人間だ。

 これが神様の思し召しだというのなら、ぼくは喜んで罪の刃を振り上げよう。

 あのひとが美しいと言った、血濡れたような紅薔薇となって咲き誇ろう。

「どうか、力を貸してください」

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