Ⅴ.天使墜落

 冬至の祝祭はひっそりと終わりを迎えた。

 一年でいちばん長い夜が明けると、教会には『日常』が戻ってきた。神父様は、昼間はお祈りと庭の手入れに勤しみ、宵闇の緞帳カーテンが下りれば白薔薇の角燈に火を点す。季節は夏至に向かって動きだしているのに、ぼくの足元には夜の昏がりが泥濘のごとく広がるばかりだった。底知れぬ深み、告解室の扉の奥からは、爛熟した果実のような甘酸っぱい腐敗臭が漂う。

 鼻腔を突き抜けて涙腺まで刺激する異臭は、煤色の路地裏で幾度となく嗅いだ覚えがあった。うごめく蛆の群体の下でぐずぐずと腐り落ちる屍肉の香り。

 礼拝堂に充満した死臭に耐えきれず、ぼくは這いつくばって夜の庭に逃げだした。凍りついた雪を蹴散らして薔薇の茂みまで走り、根元にうずくまって嘔吐する。

 二度、三度とくり返し、慎ましい夕食のほとんどを胃から押し出して、ぼくは涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。

 年が明けてからというもの、夜の礼拝のたびにこの有り様だった。

 異常な死臭の正体は、礼拝堂じゅうに焚かれた霊猫香シベットの匂いだ。神父様が愛用している麝香よりも更に強烈な、魔的ですらある芳香。

 冬至の祝祭の直後から、神父様は夜の礼拝に霊猫香を用いるようになった。舶来品らしい、古びた真鍮の香炉をどこからか持ち出して、「とてもすばらしい贈りものをいただいたのですよ」と熱病患者のようにうっとりと微笑んでいた。

 荒い呼吸をなんとか整え、茂みを掻き分けて奥まで潜りこんだ。

 体に染み着いた低い姿勢を取れば、棘に刺されて無用な傷を作ることもない。雪を被らず土がやわらかいところまで来ると、ぼくは寒さに震える仔猫のように膝を抱えて縮こまった。

 かじかむ指先で懐を探り、闇より黒い羽根を取り出す。

 冴え冴えと冷たい、厳粛な夜と死がすぐ横にあった。ここにはぼくしかいないはずなのに、隣にだれかいるような、大きな翼にくるみこまれているかのような、奇妙な安心感を覚える。

 ――ネバーモアだ。

 祝祭の最終日以来、かれは姿を見せていない。

 口づけの最中に意識を失い、気がつくとひとりで告解室の寝椅子に座りこんでいた。神父様に見つかる前に脱出し、何も言われずに済んでいるので告解室に入りこんだことは隠し通せている……はずだ。

 しんしんと澄んだ冬薔薇の香りで肺を膨らませ、ぼくは闇のなかで思考をめぐらせる。

 戻ってきたはずの『日常』は、少しずつ少しずつ歪みを増し、不協和音を軋ませていた。

 まず、夜の礼拝に訪れる参拝者が増えた。片手で数えられる程度だったのに、いつの間にか両手でも足りないほどの黒頭巾が礼拝堂のあちこちでうなだれている光景が当たり前になった。

 参拝者が増えればも増える。特に、今までは金貨が詰まった革袋ばかり残されていたのに、あからさまな貢ぎものが目立ちはじめた。

 最初は、そう――あの霊猫香だ。

 はじめて嗅いだときは、些細な違和感程度だった。妙に臭いなと思った途端、腐肉の臭いに変貌した。

 神父様も参拝者たちも気づかない。ぼくだけが吐き気を催し、自分を取り巻く状況の異常性に眩暈がした。

 ここは祈りのための聖域ではない。淫らな狂気に満ちた、背徳ソドムの館だ。

 なぜ街の人びとから忌避されているのか――見方を変えれば、かれらはこの教会で夜な夜な何が行われているのかという事実を把握していることになる。今も、そして昔も。

 ぼくは神父様の目を盗み、教会じゅうの部屋を調べて回った。

 もともと神父様が寝起きしていて、そこにぼくが加わる形になった建物以外にも、教会の敷地内には似たような棟がいくつかあった。

 特に閉鎖されているわけではなく、同じ造りの僧房が並んでいるだけ。狭い部屋の中には古い家具が取り残され、空白の年月が埃となって降り積もっていた。

 そこでだれが暮らしていたのか。小さな寝台に、衣装箪笥の抽斗の中の子ども用の衣類に、机の上に置かれたままの絵本や勉強道具に、部屋の隅に転がった革製のボールに、尋ねずとも突きつけられた。

 ネバーモアの言ったとおり、この教会はかつて孤児院だったのだ。大勢の……おそらく二十人を超える少年たちが暮らしていた。

 衣類の大きさや身の回りの生活用品から推測すると、概ね五、六歳からぼくよりも少し年嵩ぐらいまで。やはり、女の子はひとりもいなかったようだ。

 ここにいたはずの少年たちは、どうして存在しなかったことにされているのだろうか?

 街の大人の口から教会が孤児院だったと聞いたことはない。ただ、絶対に近づいてはならないと、街の子どもならきつく言い聞かされて育つ。特に、分別のつかないような幼児は。

 ――あすこには悪魔が棲んでいるのよと、母は言った。

「『かの者たちの間にありて、かれらの事物の秩序こそが信じぬ者の思いを眩ませ、まことの神の写し身たる仔羊の栄光と福音の輝きを翳らせてしまうのだ』……」

 聖典では、悪魔は人びとの目を欺き、自らの存在を巧妙に隠すのだと説いている。まるで隠れ鬼の名人だ。

 私たちを見つけておくれと哀願する、ネバーモアの声がよみがえった。ぼくはそっと羽根に口づけた。

 これは、かれらとぼくとの隠れ鬼でもあるのだ。

「死の影、茨の檻に囚われた人形の成れの果て……」

 自らを人形と嘲る真意は、ネバーモアを貶めただれかがいるという事実に他ならない。背徳の館の真の主――神父様を蝕む過去の闇。

 身寄りのない、行き場のない子どもを支配するもの。それは庇護者である大人から与えられる愛情や暴力だ。

「光を翳らせているのは……先代の神父様?」

 かすかなため息が聞こえた。

 はたりと目を開いてあたりを窺うが、闇を透かして気配だけが隣にいた。

 ネバーモアを呼ぼうとして、ぼくは口を引き結んだ。

 今ではない。まだかれらを見つけていない。

 後ろから気配がぴったりと密着する。大きな腕に抱えこまれているような感覚に包まれ、ぼくは息を詰めた。

 雪が残る夜の庭は凍えるほど寒いはずなのに、あたたかい。さらさらと頭を撫でられた気がして、微妙なくすぐったさにぼくは呼吸をゆるめて笑った。

 安心感は眠気に変わり、するりと目の前が闇に塞がれる。

『――……』

 ぼくの名前をささやく声。ぼくはことんと意識を手放した。

 闇のなかで、短い夢を見ていた。

 母が出てきたような気がするし、ぼくによく似た父も出てきたような気がする。ぼくは今よりも小さな子どもで――そして――

 鳥の羽音に目が覚めた。

 重い瞼を開くと、絡み合う茨を透かして仄白い光が射しこんでいる。ネバーモアの気配はすっかり消えていた。

 ぼくはあくびを洩らし、土の寝床から這い出した。

 薄曇りの空は蒼灰色に明るんでいた。冬の早朝らしい冷たい空気に肩がすぼまる。

 きっと最後の参拝者が教会の門をくぐったころだろう。気づかれないうちにこっそり戻らなければと礼拝堂に向かおうとして、「スーリ!」と近づいてきた怒声に足を縫い止められた。

「神父様……?」

 バサバサと薔薇の茂みを掻き分けて現れた神父様は、ひどく慌てた様子だった。黒髪は寝乱れ、常にきっちりと首元まで留めている法衣の釦は外れて白い鎖骨が垣間見えた。

 みどり色の瞳が庭をさまよい、ぼくを見つけると獣のように瞳孔がぎゅっと開いた。

「こんなところに……」

 神父様は表情を歪めると、荒々しい動きで迫ってきた。いつにない怒気を感じ、ぼくは本能的な恐怖でがんじがらめになった。

 神父様が、ぼくより体が大きくて力の強い男のひとが近づいてくる。黒い法衣の腕が揺れて、振り上げられて――

 写真機カメラの照明が焚かれたように目の前が真っ白になった。

 狂乱する母の叫び、いじめっ子たちの哄笑、氷の礫のような拳。一瞬で駆けめぐった痛みの記憶に、ぼくは頭を抱えて悲鳴を上げた。

「いやッ!」

 体を縮めて歯を食いしばっていると、予想していたことはいっこうに起こらない。こわごわと顔を上げると、蒼白になった神父様がこちらに手を伸ばしかけた姿勢で固まっていた。

 目が合うと、糸が切れた操り人形のようにだらりとその手が落ちる。神父様はくちびるを震わせ、皺が寄るほど噛みしめた。

 トン、と法衣のはだけた胸元に鼻先が当たった。

 瞬きの間に腕を掴まれ、抱きしめられていた。

 長い指が髪の間に絡みついて痛い。息苦しさに背骨が軋む。

「し、神父様」

「……どこに行っていたのですか。心配させないでください」

「……ごめんなさい。あの、香に酔ったみたいで気持ち悪くなってしまって……礼拝が終わるまで、庭で休んでいようと思って」

「こんな、暗くて寒い場所で、ひとりで?」

 咎めるような口調に苛立ちを覚え、ぼくは神父様を睨んだ。

「ここは、いちばん安心できるところなんです。茂みの下に潜りこめば寒くないし、薔薇の香りが気持ちを落ち着かせてくれるから……」

 ツンと鼻を突いた匂いに思わず顔をしかめる。

 汗と脂の臭い。麝香と霊猫香が混じり合った、甘ったるい情交の残り香。

 胸の奥がむかむかして、ぼくは神父様の腕をぐいと押した。

 ――ぼくではない人間の欲望にまみれたひとを、はじめて憎らしく思った。

「……離してくださいませんか。湯浴みの準備をしてきますから」

「スーリ」

 神父様の呼びかけには応えず、急に脱力した腕を振りほどいた。白い手がぱたりと落ちる。

 ぼくは神父様に背中を向け、足早に庭をあとにした。視線だけが追いかけてきたが、意地でも振り向かなかった。

 庭に取り残された神父様がどんな顔でぼくを見送ったのか、知らないまま。

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