Ⅳ.夢見るお人形〈2〉



 なぜ父の絵画がここにあるのか。ぐるぐると目が回るような混乱に陥っていると、寝椅子の上にそっと下ろされた。

 布地がすり切れた寝椅子には、甘ったるく生臭い匂いが染みついていた。男は隣に座ると、抱き寄せるようにぼくの肩に腕を回した。

「やはりきみは、かれの子だったのだね」

 この異様な空間に似つかわしくない声音のやわらかさに混乱の渦から掬い上げられる。目を瞬かせて男を振り返ると、かれは眉尻を垂らして微笑んだ。

「この肖像画は、私たちの友人が描いたものだ。そう、かれは私たちのよき友だった。あるいは兄であり、ときには恋人でもあった」

「恋人……?」

 男は何を言っているのだろうか。そもそも、かれが言う『私たち』とはだれのことを指している?

 ぼくの視線をやさしく受け止め、男は肖像画を指差した。

「きみも感じ取れるだろう? ひと筆ひと筆にこめられたかれの想い、その烈しさを。かれは私たちのなかでも、いっとうを好いていた。あの子もまた、かれにがれ、だからたった一枚残った形見の絵画を、秘密の部屋の奥深くに隠したのさ」

 ぼくは唾を飲み、肖像画の少女を凝視した。

 ……おそらくは、少女の姿をした、少年を。

 男の昔話を継ぎ合わせれば、この少年は教会で暮らしていた孤児のひとりに違いない。そして、男自身も。父はかれらと親交があり、特に仲睦まじかった少年の肖像画を描いたということになる。

 絵姿を眺めているうちに、少年の着ているドレスが見慣れたものであることに気がついた。白い靴下を履いた小さな足を収めた真珠色の愛らしい靴も――ぼくが寝起きしている僧房の衣装箪笥に大切にしまいこんだ、神父様からの贈りものとまったく同じだ。

 バラバラに砕けた器の破片が一枚ずつ組み合わさっていくように、頭の中にひとつの推測が浮かんでくる。耳の奥で、母の金切り声が木霊する。

 ――やはりおまえはあの男の子どもだ! おぞましい悪魔に魅入られた、汚らわしい子!

「とうさんは……」

 寝椅子の布地に爪を立て、ぼくは鉛を吐き出すように呻いた。

「とうさんは、このひとを好きになったから、かあさんを捨てたの?」

「いいや」男は静かに、だが頑なな声で否定した。

「けして、かれは――きみの父親は、そんな不誠実なひとではなかった。確かに、かれは私たちを、あの子を愛してくれたけれど、かれの心はけして私たちのものにはなり得なかった」

 男の瞳には寂しさに似た悲哀が凪のように広がっていた。ぼくは黒い外套に縋りついた。

「なら、どうして、とうさんはいなくなったの!? あなたは、何を知っているんだ!」

「すべてを」

 男の指が頬を撫でる。額が触れ合うほどの距離でぼくの顔を覗きこみ、男は切なく笑った。

「私たちがきみに償うべき、罪のすべてを」

「あなたは、だれなの」

 ぼくの問いに、男は弱々しく首を横に振った。

「名前はないよ。私たちは死の影。茨の檻に囚われた人形の成れの果て。これより先のない者ネバーモア……傷だらけで泣くきみを、いつも見ていたよ」

「え」

 冷たい指が耳朶の下をくすぐる。こめかみに寄せられたくちびるの感触に硬直していると、ゆっくりと寝椅子に押し倒された。

「あの子よりも先に、私たちがきみを見つけたのに。ああ、なんて浅ましい、愚かしい子。ふしだらで、憎らしい、かわいそうな私たちの弟」

 男――ネバーモアは苦しげに吐息を震わせ、「あの子は進んで地獄に落ちようとしている」と唸った。

「スーリ」

 天使から与えられた名前は、鋭い小刀のようにぼくの胸に突き刺さった。葡萄色の眼が爛々と燃えている。

は救いではない。きみの母親が強いたものと同じ、ただの烙印だ」

「そ、んなことっ」

「では、なぜきみに姿と名を偽らせた? 唯一の身寄りである母親に安否を知らせず、外へ出さない? 行き倒れの子どもを保護したのなら、然るべき手順を踏んで安全な場所へ送り届けるべきだ。きみを『スーリ』に仕立て上げた男はそれを実行できるのに」

 耳を塞ぎたくてもネバーモアの手がそれを許してくれなかった。いつの間にか涙が滲み、ぼくは喉を震わせて男を詰った。

「どうして、こんなことを教えるの。知りたくなんてなかった。今更、とうさんのことなんて!」

「きみには未来これからがある」

 ネバーモアは重々しく口を開いた。

「今なら、まだ間に合う。好機はただいちどだけ。ようやくめぐり会えたきみの手で、幕を引いてほしい」

 淡々としているのに、ひどく物悲しい懇願だった。

 ネバーモアの手が額を、頬を、首筋を彷徨する。人間ではないという葡萄色の瞳は、背筋が震えるような熱情を湛えていた。

「きみだけが、私たちを愛してくれた」

「え……?」

「美しいと称え、手を伸ばしてくれた。きみの涙の、なんと清く甘やかだったか」

 途端に、告解室にこもる空気が鼻腔を刺激した。

 夜の礼拝の間、この寝椅子の上で何が行われているのか、勝手に空想が動き出す。

 ささめくような笑い声。見知らぬだれかの手が黒い法衣の釦を丁寧に外し、雪より白い肩の上から滑り落とす――

 やめろ。やめてくれ。そのひとは、そのひとは……!

「だから、きみがいい。きみにしかできないのだよ。どうか、この地獄を終わらせておくれ。本当の私たちを……本当のあの子を、見つけておくれ」

 ネバーモアがゆっくりとぼくの名前をささやいた。ひどい空想は霧散し、悲しげに笑う亡霊の顔が目の前にあった。

 外套の肩越しに、肖像画の少年と視線が絡んだ。夢見ているような、あどけない恍惚に満ちた瞳の色に、最後の破片がカチンと音を立てて嵌めこまれた。

「とうさんは、神父様が、好きだったんだね」

 ぼくの呟きにネバーモアは頷いた。

「ああ。かれは、あの子を救いたがっていた」

「でも、救えなかった」

 ぼくは泣きそうになりながら、ネバーモアの頬を撫でた。「……あなたのことも」

 ネバーモアは睫毛を伏せ、ぼくの手に冷たいてのひらを重ねた。

 死の影だと名乗ったかれ。どこかへ消えてしまった老神父と美しい孤児たち。少女の姿をした少年時代の神父様。ならば、今でも続いている地獄とは、なんだ?

 喉の奥に石を詰めこまれたように胸が苦しかった。それ以上考えたくなくて、ぼくはぎゅっと目を瞑った。

「あなたはひどい」

 体の上でネバーモアの気配が揺れた。息を吐き出し、両目を見開いて睨み上げると、かれは途方に暮れた顔をしていた。

「あなたも、とうさんや、かあさんや、街のやつらと同じ、勝手で、ひどいやつだ。ぼくの気持ちなんか知らないで、自分の都合ばっかり押しつけて」

「……ああ。そうだね」

「ぼくに、何を暴けというの」

 ネバーモアはぶるりと肩をわななかせ、押し出すような声で「すべてを」と言った。

「きみの手ですべてを白日のもとに晒し、茨の檻を打ち壊してくれ。そのとき、はじめて私たちの魂は神の御許で安息を得ることができる。あの子は、救われる」

「……本当に?」

「私は真実を語れないが、嘘は騙らない」

 ぼくの手に頬を寄せたまま、ネバーモアはきっぱりと断言した。

 ひたむきなまなざしに、ぼくは口を引き結んだ。

 ――思えば、流されるままに生きてきた。

 縋りつく母の腕を振り払うことも、はじめて与えられた施しの後ろめたさと向き合うこともできず、ぼく自身がだれなのかわからないまま。スーリでありたいと嘯きながら、それが正しいのだと言いきれずにいる。

 ぼくは、弱い。弱くて、卑怯な人間だ。悪魔の誘惑にそそのかされて禁断の果実をかじってしまった原初の女のように、過ちを犯さなければ何かを知ることすらできない。

 ……きれいなドレスも、きらめく靴もいらない。欲しいものは、ひとつだけ。

 母が悪魔と呼んだひとを愛する正当性が欲しい。だれに強いられたからではなく、ぼくが心から好きだと言える強さを。

「わかった」

 葡萄色の瞳を見つめ、ぼくはささやいた。

「あなたが……あなたが奪われたものを取り戻す。もういちどワンスモア

「ああ……」

 ネバーモアは泣き笑うように口元をひくつかせ、ぼくの言葉をくり返した。「もういちど、だ」

 痺れるほど情熱的な声が、ぼくの、父の名前を呼ぶ。後戻りはできないのだと理解しながら、ぼくは頷いた。父を模した愛玩人形の、母の慰み者だった子どもの、それでもぼくを証し立てる名前を、ぼくのものであると受容した。

 視界が濡羽色の闇に塗り潰される。男の影に呑みこまれながら、ぼくは神様に赦しを乞うた。

 はじめての口づけは、夜のように冷たく、哀しかった。

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