XII.あなたという傷痕の御名を
耳の奥で音がとぐろを巻いている。聞いたはずのない過去の残響があまりに生々しく、ぼくはたまらず頭を振った。
うなだれたミシェルは青ざめた首筋を暗がりに晒していた。細い頚部には、黒琥珀と水晶が連なって鎖のごとく巻きついていた。
「とうさんが先代の神父様や〈夜会〉の参加者を殺したんですか?」
ぼくの質問に、ミシェルは震える瞼を押し開いた。落ちくぼんだ眼窩の底から、淡緑の眸が怯えるように見つめてくる。
「話してください、ぜんぶ。あなたの言葉で、ぼくに教えて」
頬に触れると、かれはくしゃりと顔を歪めた。
「……葡萄酒を呑んだ〈悪魔〉たちは、被り物の下から黒い血を吐いて喉を掻きむしり、床をのたうち回り、もがき苦しみながら事切れた」
地獄絵図が目に浮かぶ。少年たちの亡骸に折り重なって倒れ伏す異形の人びと。むせ返るほどの血と汚物の臭気まで漂ってくるようで、こめかみが鈍く痛んだ。
「生贄の中で生きていたのは、傷の浅い私だけだった。被り物を投げ捨てたルネが私の名前を叫んだ。かれは泣きながら、いっしょに逃げようと訴えた」
背中に回された腕に力が入る。
ミシェルはぼくの首筋に突っ伏し、背中を強張らせた。
「ルネに抱きしめられながら、私は夢を見ているのかと思った。かれの背に腕を回そうとして――燭台を振りかぶった養父と目が合った」
息を呑む。
ミシェルの体がわなないた。「今でも忘れられない……血走った両目を見開いて私たちを睨む養父の形相を。床に倒れこんだルネを、養父は何度も燭台で殴りつけた。私はやめろと叫んで、養父に飛びかかった」
血反吐でぬかるむ床の上、老神父と少年は激しく揉み合った。とにかく無我夢中で、少年は指先に触れた儀式用の短剣をとっさに掴んだ。
われに返ったときには、老神父の胸に深々と短剣が突き刺さっていた。
「しばらくすると、養父は動かなくなった。私は急いでルネに駆け寄った。……頭から血まみれになったルネは、もう虫の息だった」
灯りを、と、父は懇願した。
――暗くて何も見えない。きみの顔が見えないんだ、ミシェル。灯りを点けてくれないかい?
少年は父の潰れた両目をてのひらで覆った。「『燭台が倒れて、火が消えてしまったんだ。いま、
変声期をとうに終えた男の声が昔日の台詞をなぞる。父は「頼んだよ」と笑って、呼吸を止めた。
ぼくはミシェルの背中を撫でた。痩せ衰えた躰は毛布にくるまっているのに冷え切っていた。
「……それからどうしたんですか?」
泣き崩れるのではなく、とにかく真相が知りたかった。ミシェルは顔を伏せたまま、弱々しく言葉を継いだ。
「生贄にされた兄弟の亡骸は、先に死んだ子どもたちと同じように薔薇の下に埋めた。〈悪魔〉たちの亡骸は……火にくべた」
この街を含め、同一の宗教を信仰する文化圏では土葬が一般的だ。火葬に処されるのは魔女や罪人であって、いつか救い主が地上にもたらすとことわの幸福を享受する権利を失った者とされる。
燃え残った灰は街の溝に投げ捨てた、とミシェルは語った。かれは復讐を果たしたのだ、〈悪魔〉の所業にふさわしい葬送によって。
では――父は?
チャリ、とミシェルの胸元でかすかな音が鳴った。かれは力のない動きで襯衣の下から十字架を引っ張りだし、首から数珠を外した。
「ルネの死を、かれの恋人に知らせるべきだとわかっていた。せめて亡骸だけでも、かれの帰りを待っているひとの許へ送り返すべきだと……」
ミシェルは昏いまなざしを上向け、ぼくの目を見て「ルネ」とささやいた。過去と現在のあわいをさまよいながら、救済を求めるように。断罪の瞬間を待つように。
「私は――あなたのお父さんを、永遠に自分のものにしようとしたんだ」
「とうさんの亡骸を……隠した?」
「ああ」ミシェルは引きつったような笑みをこぼした。「礼拝堂の祭壇に横たえて、庭で摘んだ薔薇で棺を作った。肉が腐り落ちて骨になるまで、蜜月のような時間を過ごした」
埋葬もせずに放置した亡骸は、白骨化するまでにひと冬かかるだろう。根雪が消えるころ、父の
それは冒涜だったなのか。あるいは父にとっても幸福だったのか。
わからない。仮にミシェルが父の亡骸を母の許へ返していたとして、彼女の行く末が変わっただろうか? ぼくはルネ・ギスランの身代わりではなく、母の娘として愛されていたのだろうか?
……考えるのはよそう。仮定の話なんて慰めにもならない。
「でも、礼拝堂に人骨なんてありませんよね?」
無理やり思考を切り替えて尋ねると、ミシェルは両手で数珠を差し出した。ゆっくりとぼくの首へかける。
胸元に落ちた十字架はずしりと重かった。
「告解室の肖像画の下」
ハ、と掠れた息が洩れた。ミシェルは涙を絞り尽くしたような笑みを浮かべ、「床板の一部が外れるように細工してあるんだ」と告げた。
「そこに砕いた骨を納めた宝石箱が隠してある。宝石箱の鍵が、これ」
十字架の根元に括りつけた鍵をぼくのてのひらに握りこませる。硬く冷たい感触は、凍てつく茨の棘を思わせた。
「お父さんを迎えにいってあげてくれ」
「ミシェル」
「本当の
あの肖像画は、ミシェルが打ち立てた父の十字架だったのだ。
他でもない自分の手で、ミシェルは父を失った。その空白はだれにも埋められない。
グゥア、と大鴉が鳴いた。
ミシェルが羽織っている毛布の端を咥え、ぐいぐいと引っ張る。かれも連れていけと強く訴えるように。
ぼくはミシェルを見据え、その手を取った。
「あなたもいっしょに来てください」
「……私は行けない」
「どうして? 怖いから? ぼくたち家族から父を奪ったというのなら、あなた自身の手で返すべきだ」
口調を強めて批難すると、ミシェルの表情が揺らいだ。指の間からすり抜けようとする手をきつく掴む。
「逃げないで、ミシェル」
「ル……」「ぼくはとうさんじゃないから、手に手を取って逃げようなんて言えません。でも、いっしょに戦うことはできます。神様だって悪魔だって殺してみせます」
ミシェルがこぼれ落ちそうなほど両目を見開く。われながら罰当たりどころか地獄へ落されそうな発言だが、まぎれもなく本心だ。
「あなたを苦しめる神様も悪魔も必要ない。あなたはぼくのことだけ考えて、年を取って死ぬまで苦悩すればいいんだ」
苛立ちまじりに吐き捨てると、なぜかミシェルの頬に赤みが差した。少女のように瞳が潤んでいる。
「……罪作りなひとだ」
「は?」
「ずるい。まるで、私が死ぬまでそばにいてくれるとでも言うように」
カチンと来た。ぼくは射殺す気持ちでミシェルを睨みつけた。
「ぼくはそのつもりですが?」
「え――」あからさまに動揺しているミシェルの隙を衝き、力任せに引っ張り起こす。バサリと毛布が床に落ちた。
「ル、ルネ、待ってくれ」
制止にかまわず、ずんずん廊下を進む。狭い屋内で器用に羽ばたきながら大鴉が追いかけてくる。
「礼拝堂はそちらでは……」
向かう先が違うことに気づいたミシェルが腕を引く。ぼくはちらりと一瞥を返し、私室の扉を開けた。
「ここでいいんです。とうさんはここにいる」
簡素な寝台と小さな衣装箪笥があるだけの僧坊。ぼくは衣装箪笥の抽斗から布包みを取りだした。
戸口で立ち尽くすミシェルを振り返り、布包みを開く。
「どうして」呆然と呟き、ミシェルは宝石箱を見下ろした。
「ぼくにも打ち明けなければいけないことがあります。信じられない話かもしれないけど」
大鴉がミシェルの肩に降りた。ぼくは手探りで言葉を選びながら、宝石箱を見つけるまでの経緯を語った。
ネバーモアとの出会い。かれらの願いと交わした約束。
薔薇の茂みの根元に埋められていた子どもの骨。テオドール氏やクロード老のこと。
父の行方の手がかりを探す最中、宝石箱を見つけたこと。礼拝堂で、夜の礼拝の参拝者との応酬を盗み聞きしてしまったくだりでは、ミシェルが今にも倒れそうな顔をしていた。
大鴉が心配そうにミシェルの頬へくちばしを寄せる。みどりの双眸が緩慢に瞬いた。「この子は……」
「ぼくがミシェルの兄弟を見つけたあとに現れました。きちんと弔いをしたわけじゃないから、その姿にしかなれないみたいで」
しららかな喉仏がこくりと動く。大鴉の眼を凝視し、ミシェルは頼りなく誰何した。
「フランソワ?」
最初の犠牲者となった煙突掃除夫の少年。幼いミシェルが慕ったというかれの絵姿を思い浮かべ、ぼくは確信した。
フランソワがネバーモアの『核』なのだ。大人の男の姿をしたネバーモアは、フランソワの奪われた未来そのもの。
大鴉は黙したまま、シェルの顎の下へ頭をこすりつけた。ミシェルはくちびるを震わせながら、「エティエンヌ……ドニ?」と兄弟の名前を連ねていく。
そのどれにも応える声はない。
かれらであって、かれらではないから。名もなき死の影、
とうとう呼ぶべき名前を出し尽くしたミシェルは、ぐうと眉根を寄せた。「皆――なのか。兄さんたちは、ずっとあすこに」
グァ、と大鴉は短く肯定した。次の瞬間、ミシェルは膝から崩れ落ちた。
「あ……あぁ、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい! 私だけ生き残って、こんな、汚いッ!」
「ミシェル!」
床にうずくまったミシェルに駆け寄ると、泣きながらぼくの手に縋りついた。
「ゆるして……フラン、ごめんなさい……ごめんなさい……」
――地獄にひとり取り残されたこのひとは、どれほどの絶望を抱いて生きてきたのだろう。
死者にしがみつき、望んだわけではなかった愛欲に溺れて。この背徳の館で、罪を重ねていくことでしか生きられないのだと信じて。
幼児のようにしゃくり上げる男を抱き寄せ、ぼくは首を横に振った。
「もういいんです。ミシェル、あなたは自由なんですよ」
「じゆう……?」
「あなたの心は、魂は、あなただけのものだ」
どんなに欲しても、他者の心を思いどおりにするなんて不可能だ。人間の魂は与えられたそのひとのものであって、ぼくたちは愛し、憎み、傷つけ、触れ合うことしかできない。
けれど、魂が自由だからこそ他者を想い、抱きしめることができるのだ。
「神様にも悪魔にも、ぼくにだって奪えない。ミシェル・ブランシュ、あなたの魂は自由なんだ」
両手を頬に添えてミシェルの顔を覗きこむと、かれはぽろぽろと涙をこぼしながら瞠目した。
春の若葉の色をした瞳に微笑みかける。わずかでいい、このひとの心に届いてほしくて。
「ぼくが祝福します。天使にも神様にもなれない、ただのルネ・エカラットが。ミシェル・ブランシュの魂が自由で、光の中に在ることを」
「……私は」ミシェルはゆっくりと瞬き、ぼくの腕に移動した大鴉を見つめた。
「私は……救われてもいいのか?」
大鴉が鳴いた。やさしく、力強く、そうだよと。
ぼくは十字架の根元に結びつけられていたリボンを外し、ミシェルに宝石箱の鍵を渡した。「ミシェル。あなたが開けてください」
魅入られたような顔でミシェルは鍵を受け取った。ぼくと大鴉に見守られながら、震える手で鍵穴へ差しこむ。
カチンと音を立てて、宝石箱の蓋が開いた。
宝石箱の中には細かく砕かれた骨片が丁寧に敷き詰められていた。父の骨は、象牙のごとく白々としていた。
ミシェルの頬を滑り落ちた涙がほろりと滴る。長い冬の終わりに溢れる雪解け水のように、清らかに光りながら。
「ルネ」
父を呼び、ミシェルは口を引き結んで瞑目した。そこには深い悲しみと、亡きひとの安らかな眠りを祈る愛があった。
ぼくは宝石箱の側面をそっと撫でた。心の中ではなく、はじめて父に向かって、娘として呼びかける。
「とうさん、ずいぶん待ったでしょう。いま、ミシェルといっしょに灯りを持ってきたよ」
――ありがとうと言う声も、頭を撫でてくれるてのひらも、もうないけれど。
ぼくの胸は、確かに満たされていた。
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