Ⅱ.綻びゆく楽園
考えていた以上に、ぼくの体は衰弱しきっていたようだった。
寝台の上の住人になり、ようやくひとりで教会の中を歩き回れるまで快復するころには、街は雪の降る季節を迎えていた。
もつれがちな麦藁色の髪はすっかり伸びて、肩の下あたりでうねっている。神父様は毎日欠かさず香油をつけてぼくの髪を梳り、「赤毛がいいですね」と笑った。
「染め粉の色は、燃えるような、あなたの瞳と揃いの赤にしましょう」
「赤毛……ですか」
ぼくは戸惑った。
古い迷信によれば、赤毛の女は悪魔に魂を売った魔女だとされている。聖職者の彼にとっては忌避すべきものだろうに。
「いにしえの世では、赤毛の女性はたいへん高貴で珍らかな存在だと尊ばれていたそうですよ。昔話には、美しい赤い髪を持つ姫君や貴婦人がよく登場します」
「だ、だったら、なおさら似合いっこありません」
羞恥に俯くと、神父様はやわらかく喉を鳴らした。長い指から髪の毛がこぼれ、淡い薔薇の香りがくゆる。
「私にとって、スーリはじゅうぶん美しいひとですよ」
――それはあなたのことだと、打ち明ける勇気は持てなかった。
はじめて髪を染めた日、差し出された手鏡に映る自分を信じられない気持ちで凝視した。
たっぷりとした紅褐色の髪に縁取られた顔は青白く、折れそうな首筋には骨のかたちと血脈が透けている。赤みの強い両目は鳩の血を滴らせたように浮かび上がり、ぞくりとするほど鮮やかだ。
少年でも少女でもない――これはだれ?
「ほらね、あなたには赤が似合う」
肩越しに鏡を覗きこんだ神父様は穏やかな笑みを浮かべた。
「外に出る機会は滅多にないでしょうが、街の者に会ったら女性としてふるまいなさい。男の子のふりをしてはいけませんよ」
「……でも」
「あなたは、もう何も偽らなくていいのですよ」
くすぐるように頬の線をなぞられ、ぼくは思わず睫毛を伏せた。
天使が与えたもうた赦しに抗えるはずもなかった。
その日から、ぼくは赤毛のスーリになった。
異邦の血を引く流民の娘。言葉に不自由なほうがそれらしいと指摘され、人前で口を開かないよう習慣づけた。
驚くことに、密かに教会の門を潜る参拝者は無ではなかった。
安息日の終わり、彼らは宵闇のヴェールを被いて現れる。
晩鐘の音が西の空に消えるころ、神父様は教会の門に吊り下がった
ごくわずかな灯火に照らされた礼拝堂は、荘厳とも不気味ともつかない静寂に閉ざされる。
深い闇に浮かぶ十字架の神の伏せられた瞼の陰影。てらてらと光る
参拝者たちは黒い頭巾で顔を覆い、断頭台に上がる死刑囚のごとくうなだれている。ひと晩で集まる人数は片手で数えきれる程度で、神父様はひとりずつ奥の告解室へ招いてはたっぷりと時間を取って閉じこもる。
最後の参拝者が帰るころには、街は朝ぼらけの明るみに瞬きしはじめていた。
「私は、かれらの『罪』を買っているのです」
告解室で行われる秘め事について、神父様は天啓を受けた聖母のように恍惚と微笑んで語った。
夜明け前の天使には、麝香に混じってかすかに生臭い気配がまとわりついていた。扉の向こうを垣間見ることのできないぼくは、参拝者たちが置いていく革袋にぎっちり詰まった金貨の重みに口をつぐむしかなかった。
神父様は、丹精こめて薔薇のつぼみを世話するごとく『スーリ』を愛でた。
見習い修道女めいたお仕着せを与えられ、ぼくは侍童として彼のそばに置かれた。神父様は名前すらまともに綴れなかったぼくに文字を教え、書物を読むことを教え、そこに記された神のことばを祝福のように歌った。
夢よりも穏やかな暮らしは、蜂蜜を垂らした
惜しみなく注がれる憐れみの雨に、渇いた喉を開かずにいられるだろうか? 愚かな盲になる以外の選択肢など、ぼくには考えつかなかった。
秘密を覆い隠すように雪は深みを増し、やがて一年の終わりとはじまりである
白薔薇の庭は氷雪に凍り、冬空が顔を覗かせる日には絹の敷布を広げたように輝く。いじらしくつぼみを綻ばせた冬薔薇の香りは控えめで、天使の庭に降り積もった雪の清らかさをいっそう引き立てていた。
その日の朝も、ぼくは食卓に飾るための薔薇を摘むために庭へ出ていた。
息を白く膨らませてじっくり花を選別していると、「ねえ、きみ」と茂みの奥から声がした。
驚きのあまり硬直すると、茂みを掻き分けて男の顔が覗いた。庭を囲む鉄柵のむこうから茂みの中へ潜りこんだらしい。
「そうそう、きみだよ。そこの赤髪の
神父様と同じ年ごろだろうか。癖の強い
突然、にゅっと長い腕が茂みの中から伸ばされた。思わず後退ると、男はてのひらをひらめかせた。
「申し訳ないが、ここから引っ張り出してくれないかい? 柵に挟まってしまって抜けないんだ」
……かれは何を言っているのだ?
ぼくはごくりと唾を飲んだ。大声を出して神父様を呼ぶべきなのに、蜘蛛の糸のように絡みつく葡萄色の視線に言葉を封じこまれてしまう。
男が悲愴感をたっぷり滲ませて毒づいた。
「おやおや。近ごろの神の家の住人はずいぶん冷たくなったものだ。困っている者が救いの手を差しのべよというのが神の教えではないのかい?」
なんともふてぶてしい不審者である。しかし男の言い分はもっともで、ぼくはとっさにかれの手を取ってしまった。
バササッ、と鳥の羽音が降ってきた。
われに返ると、鉄柵の上に一羽の鴉が止まっていた。ぎょっとするほど大きく、くろぐろとしている。こちらをじっと凝視している大鴉の下で、ひょろりとした黒い人影が立ち上がった。
「やれやれ、とんだ目に遭った」
真っ黒な
「心やさしいお嬢さんにお礼を申し上げる。いやぁ、きみが現れなかったらどうなることかと思ったよ。まさに天の助けとはこのことだね」
「あの……あなたは、いったい?」
「おっと失敬。私の名は――」
そのとき、大鴉が破鐘のような鳴き声を上げた。
思わず耳を押さえて首を竦めると、「……というんだよ」と気に留めず男が自己紹介を終えていた。
「あ、あの、鴉の声でうまく聞き取れなくて」
「おやおや、私にもういちど名乗れというのかい? それはちょっとばかり失礼ではないかね、お嬢さん」
男はわざとらしく肩を竦めてみせると、くちびるの前に人差し指を立ててにやりと笑った。
「
ささやく声は、どきりとする冷たさを帯びていた。まるで心臓の裏側に隠した後ろめたさを見透かされた錯覚に陥り、ぼくは両手を握りしめた。
鴉のような男は、「ところで」とぼくの顔を覗きこんできた。
「私の記憶が正しければ、この教会には神父殿がひとりいるだけのはずなんだが。きみのようなお嬢さんがいつやってきたんだい?」
男の影に呑みこまれたぼくは震えた。葡萄色の瞳が暖炉の中の熾火のように光っていた。
「わ、わたし、身寄りがなくて。あちこち流れて、たまたまこの街で、倒れたところを、神父様に」
「ふむふむ、慈悲深き神父殿に救われたというわけか。それは大変だったねぇ」
猫撫で声で嘯くと、男は「そういえば」と首を傾げた。
「街で噂を耳にしたんだが、夏に少年がひとり行方知れずになったそうだ。病気の母親をけなげに世話していたが、街の悪たれどもに寄ってたかってひどく痛めつけられたというじゃないか。ひとり息子を失った母親は気が狂って、遠い街の療養所へ送られたらしい。きみと同じく、なんともかわいそうだと思わないかね」
「えっ……」
母が療養所へ送られた――思いもよらぬ事実に両目を見開くと、男はにたりと口端を吊り上げた。
「行方知れずの少年は、ちょうどきみと同じ年ごろだそうだ。そうそう、確か名前は――」
大鴉が吠えた。
ぼくのものであったはずの名前は黒く塗り潰され、目の前から消えてしまった。体の半分をもがれたような喪失感に襲われる。
「懐かしい名だ。偶然にも、若くして死んでしまった友人と同じ名前なんだよ。生前、かれはよくこの教会へ足を運んでいたというから、かれを偲ぼうと思ってやってきたんだ」
男は感慨深そうに深くと、葡萄色の瞳を眇めた。
「そういえば、まだお嬢さんの名前を聞いていなかったね」
――
思いだすのは、悪魔のような顔でぼくを打ちのめし、恋人のような顔でぼくの頬に接吻をする母の姿。
青ざめた顔で、遠巻きにひそひそと噂話をする大人たち。心をずたずたに引きちぎられる笑い声。傷口に凍みる、夏の雨の冷たさ。
光が淡く照らす白薔薇の庭に佇む、ぼくだけの天使。
――何も偽らなくていいと言ってくれたあのひとは、おそれるばかりのぼくを赦してくださるだろうか?
くちびるが震える。男に告げる声は、まるで罪人の懺悔のように聞こえた。
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